98 再会
俺がイネスと共に魔竜の背中に乗って地上近くに戻って来ると、辺りには酷い光景が広がっていた。見渡す限り建物は崩れ、迷宮から湧いて出て来たらしい夥しい量の魔物の死体が山のようになっていた。
どこにも動くものの気配がなく、あれだけ美しかったミスラの街がまるで丸ごと廃墟になってしまったようにすら思えた。
だが、俺たちはリーンとアスティラが地上からこちらに手を振っているのを見つけ、魔竜にそのすぐそばに降りてもらった。
そうして、迎えに来てくれたロロに彼女を預け、リーンたちと再会の言葉を交わそうとしたのだが。
「────リンネブルグ様、戻りました」
「イネス、本当にご苦労様でした。ノール先生も、お怪我などありませんか」
「ああ。俺は別になんともないが」
近づいてリーンの姿を眺め、彼女のことが少し心配になった。
「リーンこそ、大丈夫なのか? ……かなり顔色が悪いぞ?」
彼女の顔や腕などに傷は見当たらなかったが、白いドレスが所々無残に破けていて、手のあたりに火傷の跡のようなものが見える。
表情もちょっと見ないうちに随分疲れた様子になっていた。
「はい、ちょっと無茶をしてしまいまして……少し負傷をしてしまいました。でも、アスティラさんのおかげでもう治りましたのでご心配は無用です」
「……そうなのか?」
俺がリーンのそばに立つアスティラの顔を眺めると、彼女は静かに首を横に振った。
「いいえ……全然です! 全然少しじゃなかったですよ? 急いで手当てをしたからなんとかなったものの……あれは正直、結構危なかったです」
「はい、お手間をおかけして本当にすみませんでした……皆さんも私のせいで危険な目に遭わせてしまいましたね」
リーンの言葉を聞くとアスティラはまた首を振った。
「本当に、何言ってるんですか……まったく! 私たちは皆んな、あなたのおかげで命が助かったようなものですよ? 貴方はもっと誇って自慢してもいいぐらいなんです。それをそんな風に言う必要はありませんよ……まあ、最後のはちょっと怖かったですけど」
「……それについても、事前に何もお知らせせずにすみませんでした」
「いいえ! そのおかげでみんなが助かったんですから。ほんのちょっとびっくりするぐらい、安いもんです! ……本当にお疲れ様でした」
「はい……アスティラさんも、本当にありがとうございました」
「それはこっちのセリフですよ、リーンさん!」
アスティラとリーンは互いの目を見合わせてしばらく笑いあっていた。
彼女たちはいつの間に、あんなに仲良くなったのだろう。
リーンのことはやはり少し心配だが……あんな風に笑ってはいるし、まあ、元気は元気なのだろう。
俺が二人の様子を眺めて一息ついていると、今度は背後から声がした。
「猊下」
シギルだった。
彼の後ろにはあの五人もいる。
「御下命にて近辺を視察してまいりましたが、街中の建物が軒並み全て崩れており、酷い状況です。幸い殆どの市民は街の外に避難しており魔物等の脅威も見当たりませんが……瓦礫の下敷きになっている者が多数いる可能性があります」
「……そうですか」
「よって、我ら『十二使聖』が改めて市民の救助に向かう御下命を頂きたく」
「はい、いいと思います。 急いでお願いしますね、シギルさん!」
「────御理解、感謝いたします」
シギルはそうとだけ言うと、すぐに他の皆と一緒に走ってどこかに行ってしまった。
「リンネブルグ様。私も我々の荷物が無事か確認して参ります……お召し替えはそれまで、しばしお待ちください」
「はい、お願いします、イネス」
そうして、イネスもどこかに歩いて行った。
だが、俺はふと疑問に思う。
さっき、シギルはアスティラに何か報告をして去っていったようだが。
彼女はそんなに偉い人だったか……?
確か、彼女はただの冒険者なのだと聞いていたが。
「アスティラ、さっきのは? ……冒険者と聞いていたが」
「ふふ、そうなんですけど、ちょっと事情がありまして。いま、私はあの子────この国の皇子さま、ティレンスくんのお母さんなんだそうです」
「……お母さん……??」
「はい。なんだか急に自分が偉くなったような気分で面白いですね。こういうの初めてですけど、なんだかハマっちゃいそうです」
「……???」
アスティラはなんだか楽しそうに話すが、ちょっと俺はその話についていけていない。
俺がひたすら困惑していると、大勢の兵士たちと忙しく何かを話し込んでいた、見覚えのある少年が話を終え、こちらにまっすぐに歩いてきた。
あれは────
「────貴方がノール殿で、間違いないでしょうか」
「そうだが」
彼は確かこの国の皇子。
そう、確かティレンス皇子だ。
「ノール殿。この度の我が国の者よりの貴殿に対して数々の非礼────さぞ不快に思われたことでしょう」
「……? ……いや……?」
「現執政者代表として、心からお詫びをさせていただきます」
俺の前に立った彼はそう言って、突然、深々と頭を下げた。
……ちょっと、待ってほしい。
そんなことをされる心当たりは、全くない。
俺としてはむしろ、シギル達にもてなして貰った記憶しかないのだが。
というかむしろ……二度ほど、俺が『黒い剣』でこの国の地面にとてつもない大穴を開けた記憶が蘇る。
……いや、もしかしたら三回だったかもしれない。
とはいえ、あれは確か『迷宮』だったらしいし、大目に見てくれるということだろうか……?
だが頭を上げた皇子の顔は、そんなことすら全く考えていないようにも思えた。
「────加えて、我が国の危機に際しての英雄の如き働き。貴殿のおかげでこの国は救われました。ノール殿には感謝も謝罪も、いくらしてもしたりません。この埋め合わせはいずれ、必ずや全ういたします」
彼はまっすぐな瞳で俺の目を見つめ、そう言った。
「……そうか?」
……なんだか彼の勢いに押されて言葉が出なくなってしまったが。
礼とか詫びとか。
……いらないぞ?
なんだかこの少年。
昨日会った時よりずっといい感じの顔つきになったなあ、などと呑気に思っていたが────油断してしまったかもしれない。
今の彼はどこかリーンや彼女の家族……特にあのお父さんと同じ匂いがする。
今の曖昧な返事は……まずかったかもしれない。
いや……これは早めに誤解を解かないと、後々、本当に大変なことになるのでは……?
俺が内心そんな危機感を覚えていると、少年はもうアスティラの方に向き直っていた。
「────貴女のことはアスティラ様、とお呼びするのがよろしいでしょうか」
皇子は、彼女の顔をじっくりと確かめるようにして言った。
「はい、別にそんなにかしこまらなくてもいいですよ? 単にアスティラでいいです……というか、かしこまらなきゃいけないの、私の方ですかね……?」
「……やはり、姿だけでなく名前も同じなのですね。ということは、貴女が本当の……?」
「ふふ、本当も何も、私は一人しかいませんよ? 私は唯一無二の冒険者パーティ『賢者の盃』のアスティラです。……あ、でも、パーティは流石にもう解散しちゃってると思いますが。……けっこう、時間経ってるみたいですしね……?」
アスティラはそう言って辺りを見回した。
もはやまともな建物は見当たらず瓦礫ばかりだが、彼女はそれすら物珍しそうに眺めていた。
確か、彼女はあの『青い石』の中のおかしな場所にずっといたと言う。
「……そういえば、アスティラはあの場所にどれぐらいいたんだ? 閉じ込められていたと言っていたが」
「それが、私も全然わからないんです……あそこ、時間の感覚が曖昧になりますし、することなかったですし、だいたい寝てましたし。でも、多分、少なくとも何十年かは経ってるみたいですね……?」
「何十年もか?」
「いいえ……おそらく、数十年ではないと思います」
皇子が言葉を挟み、何かを確認するように言った。
「驚かれるかもしれませんが、二百年以上は確実に経過していると思われます」
「えっ────二百年?」
皇子の言葉に驚き、アスティラは表情を固まらせた。
俺も少し、驚く。
……彼女はそんな老婆に見えなかったのだが。
「……二百年、ですか……?」
「はい。我が国の歴史書には迷宮が教皇に踏破され『神聖ミスラ教国』が建国されたのが、二百年以上前と記されています。その記録は複数の研究者によって裏付けられた確かなものですので、おそらく……貴女はそれ以前に迷宮の奥に囚われていたものかと」
「はあ……二百年、ですか」
アスティラはため息をつくようにして、空を見上げた。
「……私……知らない間に、ものすごいおばあちゃんになってしまったのですね……?」
「気にするところは……そこなのか?」
「いえ、他にも色々というべきことがあるように思いますけど、今はそれぐらいしか」
まあ、そういうものか。
俺はそんな体験をしたことがないから、わからない。
というか二百年経ったら普通に生きていないだろうな。
「……あれ? でも……オーケンは生きてるんですよね?」
「ああ、生きているぞ」
「じゃあ、もしかして……別人、ってことでしょうか?」
「いえ、おそらく、アスティラさんの仰っている方はオーケン先生で間違いないと思います」
先ほどまで静かに俺たちの話を聞いていたリーンが口を開いた。
「オーケン先生は既に、二百歳は超えられていますので」
リーンの言葉に、俺とアスティラは驚いて彼女の顔を見た。
「えっ……!? オーケンが二百歳を超えてる……!?」
「……あの老人、もうそんな歳なのか?」
「はい。あまり公にはしていませんが、おおよそ二百と八十ぐらいだとご本人からうかがっています」
「……なんでオーケン、まだ生きてるんでしょう。彼、人間だと思ってたのですが」
「……そうだな。それは俺も会うたびに疑問に思うが……会って本人に聞けばわかるんじゃないか?」
「そうですね……うん、確かに、そうです」
アスティラは何かに納得したように「よし」と小さく頷いた。
「……なら、次の私の行き先は決まりましたね」
「どうするんだ?」
「決まっているでしょう! クレイス王国に行くんですよ」
アスティラは俺に笑顔を向け勢いよく親指を立てた。
……それは、やらなきゃいけない何かなのか?
「……だが、アスティラは今、ここで何かの役をやっているんじゃないのか? その皇子の母親のふりをするとか、なんとか」
「はい……でも、よそ者の私が他人のふりをしながら、ずっとここに留まり続けるわけにもいかないと思いますし。私はこれでも演技は得意な方だと自負してますが……でも、いずれはバレちゃいますよね。なので、幸い頼る知人がまだいるみたいですし……この際、クレイス王国に行って王都に住んじゃうのも悪くないと思っているのですが」
「そうか。じゃあ俺たちと一緒に行くのか。馬車ならあるが」
「それ、私も乗れます?」
「ああ。多分、乗れると思うぞ。なあ、リーン?」
俺は判断を仰ぐため、リーンの顔を見た。
だが、リーンは何かを迷ったように考えてから、ティレンス皇子の方を見て言った。
「はい、大丈夫だと思います。馬車は今、イネスが探しに行ってくれていますので、損壊がなければ十分乗車は可能です。でも……その話なのですが」
「……それは僕から話すよ。有難う、リーン」
ティレンス皇子が再びアスティラの正面に進み出て、二人は向き合うような格好になった。
「実はミスラ教国の皇子として、貴女に一つ、お願いがあるのです────もちろん、もし貴女さえ同意してくださればなのですが」
「はい、なんでしょう? なんでも言ってみてください!」
アスティラはなんだか妙に嬉しそうにニコニコとしているが、皇子は何かを決意するように一息つき、言葉を発した。
「もし貴女さえ宜しければ────このまま、我が国『ミスラ教国』に残っていただけないでしょうか」
「……この国に、ですか?」
「はい。本来、我が国とは無関係であるはずの貴女に、こんなことをお願いするのは心苦しいのですが……この国、ミスラは実質『教皇』を中心としてまとまってきた国です。いえ、むしろ、彼女一人だけで作り上げたと言っても過言ではありません。この度の戦いでミスラの国民はとても疲弊しています。今、国の中核となる『教皇』がいなくなっては国が……きっと、まとまりません」
「……なるほど? なるほど……?? ……」
アスティラは皇子の言葉を聞きながらしきりに頷いてはいるが、よくわかっていない様子だった。
俺も皇子の話の内容はよくわからないが、彼の真剣な様子だけは伝わった。
「……え〜と。それは、要するに。私に、このまま貴方のお母さんのフリをこれからも続けて欲しいということでしょうか」
「端的に言えば、そうなります。貴女には今後も我が国、ミスラ教国の国母『教皇』として振舞って欲しいのです。……無理を言っているのはわかっているのですが、この国は今、本当に貴女を必要としているのです」
「────そうですか、う〜ん、なるほど……そういうことですか。……いえ、ちょっと……事態は全然呑み込めてないんですけど」
アスティラは皇子の顔をじっくりと見つめると、何かに納得するように頷いた。
「うん、そうですね、わかりました。ノール。やっぱり私、ここに残ります! オーケンにはよろしく伝えておいてください」
「そうか。わかった。会ったら伝えておく」
「……あれ。なんか思ってたより、随分あっさりとした反応ですね……? まあ、とにかく。お願いしますね」
「……? ああ、言っておく」
アスティラは微妙に口をとがらせ、なんだか俺の反応に不満気だったが……別に本人の好きにすればいいと思う。
俺がどうこういう話でもないだろうし。
だが、皇子は少し驚いているようだった。
「……まさか、本当に残っていただけるのですか?」
「はい。あっ、でも私、政治とかそういうのは全然わからないんですけど……そういうの、未経験でも大丈夫です……?」
「はい、実務は概ね執政官と私が執り行うことになります。その他、生活全般のサポートは周囲の者でいたしますので、貴女は時折国民に顔を見せていただければ、それでもう十分なのです。それだけで……この国は本当に救われます」
「……えっ……? 顔を見せるだけ……? ……それだけで、ご飯食べさせてくれるんです?」
「もちろんです」
「……ちゃんと住む場所も、あるんですよね?」
「はい、皇居は複数ありますので、好きな場所を使っていただければ」
「……たまには、気分転換に買い物とか、外に出ちゃってもいいんですよね?」
「はい、重要な儀式や外交儀礼等の時以外は、当然、ご自由に出入りしていただいてけっこうです」
「なるほど────なるほど……!」
そうして色々と質問をした後、アスティラは満足げな表情で大きく頷いた。
「じゃあ、私がここに残らない理由はありませんね! むしろ、こっちの方こそよろしくお願いします!」
「……本当によろしいのですか? 貴女の自由を大きく奪ってしまうことになります……本来、無関係であるはずなのに」
「う〜ん、無関係、ですか……いえ。実は、そうとも言い切れないんですよね……?」
「それは、どういう……?」
ティレンス皇子は疑問を顔に浮かべながら、彼女の次の言葉を待った。
「……おそらく、なのですけど。あの化け物が世に出たのは元はと言えば、私たち『賢者の盃』が『嘆きの迷宮』の深部に入り込んだことがきっかけだったような気がします……というか多分、絶対にそうです。あれが外に出るきっかけを作ったのは、きっと、私たちです。だから全然、無関係じゃないんです。
まあ、その後は閉じ込められちゃってましたから、あとのことはさっぱりわかりませんし、出てきたらこんなに大きな街? ……国? が、出来ちゃってるとは思いもしませんでしたけど」
「それは……確かに、おっしゃる通りかもしれません」
皇子が何かを考えるように俯き頷くと、アスティラは神妙な顔をしている皇子の真正面に立ち、満面の笑顔を向けた。
「それと、もう一つ。確実に無関係じゃない理由がありますよね。つまり、貴方です」
「僕、ですか?」
「そうです。貴方、ハーフエルフですよね?」
「……仰る通りです」
「私、知る限り……ハーフエルフって今まで一人も会ったことないんですよ。というか、私以外のエルフには『森』を出てこのかた、出会ったことも、話を聞いたことすらありません」
「……そうですね。僕の知る限りも、そうです」
「でしょう? だから私、貴方のことが、やっぱり他人という気がしないんですよ。まあ、それだけと言えば、それだけなんですけど。絶対に関係あるっていうか……むしろ、一目見た時から生き別れた実の家族なんじゃないかってぐらい、親近感を憶えてます」
「────僕も、実はそう思います」
「ふふ、そうでしょう! そうでしょう!」
二人は真正面に向き合い、目を見合わせた。
確かに、彼らの見た目はそっくりだった。
まあ、彼はアスティラと名前も同じで見た目だけでは全く区別がつかなかったあの性格の悪い方のアスティラの息子だというし、何も知らない俺のような人間から見れば、親子にしか見えないだろう。
「……だから、本心では、貴方と一緒に居たかったんですけど。でも、あんまりここに居座ると、迷惑かな〜? ……なんて、思わなくもなかったり。だって私、あの化け物を外に出した元凶ですよ? バレたら、えらいことになる気がします」
「……いえ。それはご心配には及ばないでしょう。むしろ、今のお話が真実であれば、貴女は本当にこの国の建国のきっかけを作った方ということになります。となると、貴女は真にこの国の中心にいるべき方だと思います」
「……それじゃあ、やっぱり、私、ここに残ってもいいってことですね?」
「はい、もちろんです。ミスラ教国の皇子として、僕からお願いします」
「それは、貴方のお母さんとして────この先、ずっと、ということですね?」
「はい、そうなります」
「そうですか────ところで、私からも、一つお願いしても大丈夫です? ……別に、交換条件ってわけじゃないんですけど」
「……はい。なんなりと」
「ふふ、なんなりと、ですか? それなら、遠慮なくやらせてもらいますね」
アスティラは不敵に笑いながら、突然両手を大きく広げた。
「────はい、どうぞ……遠慮はいりませんので」
それを見て、ティレンス皇子は不思議そうな表情で固まった。
俺も、意味がわからず隣にいるリーンと目を見合わせたが、彼女もよくわかっていない様子だった。
「……それは……?」
「……あっ、これ、わかりませんか? ほら……よく演劇とかで、あるじゃないですか。こう、生き別れた家族とかが、感動の再会シーンで、ぎゅ〜っとやるやつ……私、それが夢だったんです。私、実は子供ができることなんて一生ないと思ってて。二度と家族ができるなんて、思ってもいなくて────憧れだったんです、そういうの」
アスティラは目を輝かせながら、鼻息荒く両手を広げていき、だんだん外敵を威嚇する熊のようなポーズになった。
「────それも、これからは、こんなに立派で賢そうな子が息子だなんて! なら、今こそ、やるしかないでしょう? 私としては、このチャンスを逃す手はありませんので……さあ、遠慮なく! 私は、お母さんですよ〜! って抱きしめますから。私の胸に、ど〜んと飛び込んできてください……はい! どうぞ!!」
そうしてアスティラは少し両脚を広げて両腕を下げ気味に、巣穴を護る母グマのような格好になった。
「…………」
だが、ティレンス皇子は無言で彼女の様子を見つめたまま動かなかった。
……まあ、いきなりそんなことを言われても、困るだろうと思う。
正直、周りの皆も、俺もちょっと困惑している。
そうしてしばらく、辺りに無言の時間が流れた。
ティレンス皇子もずっと無言で彼女の顔を見つめたままだった。
「…………」
その反応にアスティラは諦めたのか、広げた腕を下ろして熊のようなポーズを、やめた。
「……あ、あはは……? ……やっぱり、ちょっと無理がありましたかね……? ……そうですよね。もう、小さな子供ってわけじゃないですし。ちょっと、はしゃぎすぎました……今の、忘れてくださいね……?」
アスティラは顔を赤くしながら俯き、恥ずかしそうに頬を掻いた。
「────お母様」
だが皇子は無言のままアスティラに近づき静かに彼女の胸に顔を埋めた。
「僕も……ずっと……貴女にお会いしたいと思っていたんだと思います。幼い頃から……ずっと、ずっと」
そうして、アスティラは胸に埋まった皇子の頭を強く抱きしめ────
「────もちろん私もですよ、ティレンスくん! これから、ずっと、よろしくお願いしますね」
しばらく、誰かのすすり泣くような声が聞こえた。






