96 疾る黒雷
その怪物は膨張を続ける黒い肉塊の中で、ただひたすらに、困惑し続けながら『外』の光景を静かに見守っていた。
────あれは、いったい、なんなのだ。
あの黒い剣を持つ男。
己の最高の手段を以ってしても、傷一つつけられない、あの男。
自分は先ほど、これまでで最高の一撃を放った。
否、放ち続けている。
先ほどから常に限界を超え続け、自己の最高の攻撃を繰り出し続けている。
貪るように身体に取り込んだ血から得た力で、自らが異常な成長の過程にあるのすらわかる。
────なのに、何故。
『『『『『『黒雷』』』』』』
「パリイ」
今のも、渾身の一撃だった。
最早文句のつけようのない、生涯で最高の一撃。
それをあれは、いとも容易く払いのけた。
────次も。その次も。そのまた、次の一撃も。
『『『『『『黒雷』』』』』』
「パリイ」
────何度も。
何度も。何度も。
何度も、何度も、何度も。
何度でも。
幾たび『黒雷』を放とうと、それをどんなに強力に繰り出そうとも、いとも簡単に弾かれる。
あの男には自分の攻撃が通じない。
それだけではない。
挙げ句の果てに、それに追いつく存在すら出始めた。
『『『『『『黒雷』』』』』』
「【神盾】」
あの自分の肉を切り刻む光の刃。
無限に再生を続け、膨大な肉を生み出し続けるが、それすら上回る速度で刻まれ、身体がひとまわりもふたまわりも小さくなる。
幸い本体には影響はないが、あれも、厄介だ。
────なんなのだ、あれらは。
長らく封印されていた『青い石』から幸運にも力を失い切る前に脱出でき、再び地上に出てから二百年以上。
今まで、こんなものは存在しなかった。
いるという話も聞かなかった。
敵となる程の者はいないはずだった。
何度か調べたが、競争相手となる他の神々の存在もない。
だから、自らの体を取り戻しさえすれば、全盛期の力を取り戻しさえすれば、この外敵の存在しない地上は自分の楽園になるはずだった。
────なのに。それなのに。
何故、今、本来は超越者である『神』に等しい存在の自分が、されるがままになっているのだ。
理解し難いことが起こっていた。
屈辱というより、ただ混乱し、自分が翻弄されていることに戸惑っていた。
自分より遥かに劣る存在と思っていた生き物に、己の最高の手段が、通じない。
決して自分が弱くなったわけではない。
それどころか、苦労して集めて喰らった『悪魔の心臓』のおかげでかつてないほどに体の中に力を蓄えている。
そして今も尚、自分の身体は成長を続け、全盛期すら上回り続けている。
なのに────それなのに。
この男の前では何をしても駄目だった。
何をしても、無効化される。
それどころか、飼われている竜にまで放った炎を返され自身の肉を焼かれ、喰らわれる。
だが現状、これ以上の攻撃手段は持ちえない。
故に怪物は己の中にかつてないほどに満ちる力を感じながら、それでも目の前の存在を滅ぼせないことに戸惑いを憶え、同じことを繰り返すばかりだった。
『『『『『『黒雷』』』』』』
「パリイ」
だが、次こそはと発した極大の雷を払いのけられ、その時、怪物の中で何かが大きく変化した。
…………ああ、やはり、駄目だった。
これでは、これは倒せない。
────それならば、と。
怪物は蓄えた豊富な肉塊に護られながら、考えた。
そして────改めて理解した。
認めざるを得ない。
目の前のあれは、強いのだと。
今まで対峙した、誰よりも。
神話の時代に自分と敵対したどの神々よりも。
我らに徒党を組んで刃向かった人間どもよりも。
狡猾にもに神々の力を際限なく奪い取るあの『青い石』の中に幽閉した者共よりも、もっとずっと……いや、自身の生涯を通じて最も厄介な存在であると、剣を持つ男の評価を改めた。
そうして、怪物はやり方を変えることに決めた。
彼我の正確な関係を理解した怪物は自らが追い詰められつつある状況を認め、そこにある『力』を見極めようとした。
力に任せて圧し潰すのは諦め、その脅威を冷静に観察するようにした。
まるで弱き者が強き者の弱い部分を血眼になって探すように。それは、その怪物にとって、恥ずべきことであるとも感じた。
だが最早躊躇をすることはなかった。
自らへの苛立ちを自覚して尚、怪物は冷静にその存在の一挙手一投足を見逃すまいと、光の刃と熱線に潰されては発生し続ける数百の眼を凝らした。
己の数百の腕から繰り出される生涯最高の攻撃が無為に叩き落とされるのを目に焼き付けながら、全てをかなぐり捨て勝つための思考を続けた。
────そうして。
怪物はようやく、欲していた道筋を見つけた。
やっと思い至ることができた。
……あれは、やはり、倒せるのだと。
『────ア゛』
怪物は肉塊に開いた数百の口で嗤った。
あれは、やはり人間だ。
────あの異常な再生力。
────あの異常な腕力。
────あの異常な反応速度。
そのどれをとっても人とは言い難いが、あれは、紛れもなく人である。
それらを一瞬でも上回ることができればあの厄介な剣を掻い潜り、葬り去ることは出来るはずだ。
その為に怪物は全てを捨て去る覚悟をした。
己の全てをその一瞬に注ぎ込むことに、迷い無く進む事にした。
『────ア゛ア゛、ア゛』
怪物の決意と同時にその黒い肉が変質しはじめた。
己の意志に沿って、体組織が変質する。
それは怪物にとって、初めての変化だった。
意のままに、自身が思い描く姿に、自らが進化を初めている。
本体すら痛みを伴い、軋む音がする。
だがその音は怪物には心地よく響いた。
────ああ、これならば、と。
怪物は自らの変化に歓喜した。
自分の限界はやはり、こんなところではなかったのだと、感激に打ち震えた。
怪物は身体の変化に自らの内に蓄えた膨大な力を総て注ぐことにした。
ただでさえ、膨大な身体が更に大きく膨らんだあと、収縮する。
力が凝縮されていくのがわかる。
怪物は自らが力を得ることを感じ、同時に自分が冷静さを得ていくのも感じた。
そして、先ほどまで一度に大量の血を得た為に、どうやら自分の頭には血が上っていたらしいことを自覚した。
……そう。
結局は、あれだけなのだ。
────『理念物質』。
全ての力を失って尚、あれは神々にとって至上の脅威に他ならない。
ならばあれさえ、なんとかすればいいのだ。
あの力は、不滅。
原理的に滅びようがない。
かつてあれに傷をつけた存在は、ここの存在ではない。
そういった者でなければそもそも、あれには干渉のしようがない。
自分たちも、この世界の者にとっては同様の存在のはずだった。この世のモノでは、毛筋ほどの傷をつけることすら叶わない。
そのはずだった。
だが、唯一。
あれが、あれだけが邪魔をする。
ならば簡単なこと。
単に、目標を絞れば良かったのだ。
あれこそが、自分たちにとってこの上なく厄介なモノ。
神々に滅ぼされた旧世界の小さき者共が遺した呪いに等しきモノ。
要するにあれだけが厄介なのだ。
あれを振るう者とは分けて考える必要がある。
あれを持つ者も異常だが、あれは不滅という訳ではない。
だから、単にあれを持つ者を、『使い手』を滅ぼせば良い。
優先することを決めるべきだった。
────そう、要するに。
自分は、あの存在を、今この瞬間だけ、ほんの一瞬だけ、凌げれば良い。
『────ア゛』
怪物が導き出した『概念』に従い、再び体組織の組み替えが行われる。
恐怖に膨張していた怪物の肉の鎧が、溶け落ちるように崩壊する。
……もう、このような鎧は必要ない。
どうせ、あの女に斬り裂かれるのだから。
当たっても、本体に影響はないのは理解した。
問題はあの男。あの剣。
あれを一瞬、凌げるだけでいい。
この肉の鎧は自分の本体を、一度だけ護りきれば良い。
その間に黒い剣を持つあの男を切り裂けば良いのだ。
あの男は自分の生み出す雷にすら反応する。
ならば────単に、自らの放つ黒い雷より、ずっと疾くなれば、いい。
怪物の身体はまた新たに生み出された概念に従い、変貌する。
肉体改変に伴う、更なる激痛が走る。
だが────その苦痛が心地よく感じた。
先程まで、力を振るうことに少しだけ躊躇はあった。
自分がまともに力を振るえば、ミスラの国民を巻き込む。
失うことはある程度覚悟していたが、全てを失うとなると、やはり惜しかった。
増やすのには、時間がかかる。
だが、幸いなことに。
今はあの『盾』がある。
あの女が発生させた『輝く盾』のおかげで、自分が存分に力を振るっても、地上の人間たちが消し飛ぶ心配もないだろう。
今、あの盾が、自分の育てた大事な大事な『国民』を護ってくれている。
その幸運に、怪物は感謝した。
『────ア゛ア゛ア゛、ア゛────ア゛』
体組織が変質していく怪物の心を満たしていたのは今や恐怖や困惑ではなく歓喜だった。
自らの前に障害として立ちはだかった者たちに感謝の念すら憶えた。
おかげで、自分は遥かな高みへと昇ることが出来たのだ。
そうして、眼下で逃げ惑う自らが創り上げた『神聖ミスラ教国』の国民全てにも感謝した。
────自分にこの成長の機会を与えてくれて、ありがとう。
そして、食べられるために生まれてきてくれて、ありがとう、と。
勝利の光景が目前に広がり、途端に怪物の心には余裕が生まれ、感慨が湧いた。
────ああ、これで。これで。
あの太古の人間どもが、我々神々へ遺した忌々しい『呪い』が解かれるのだ。
いや、それどころか……あれを手に入れさえすれば、まだ他の迷宮の奥底で眠っている可能性のある神々に対して、遥かに優位に立つことが出来るではないか。
あの男を殺し、未来永劫、自分以外誰の手も届かぬところに保管するのだ。
そうなれば、もう、怖いものはない。
この地上に自分の敵はいないも同然なのだから。
そうなれば────自分は真に、世界の頂点に立つ存在となる。
『────ア゛ア゛ア゛、ア゛────ア゛』
ああ。
やはり、今日は記念すべき日だった。
歴史に刻まれるべき、祝福されるべき日だ。
既に祝宴の時は近い。
あれさえ倒せば、思う存分、逃げ惑う小さきモノを、愉しみながら心ゆくまで食べられる。
怪物はその後の宴の様子を思い描き、歓喜に包まれながら己の身体を変貌させ、やがて黒い雷そのものと成り────
『────ア゛』
空を引き裂く黒い閃光となり、その脅威の元へと疾った。