81 母と子の対話
私とティレンスは際限なく湧く魔物を薙ぎ倒しながら、最深部にある『核』のある場所へと急いでいた。
暗闇の中で少し開けた場所にたどり着くと、不意にティレンスが立ち止まり、周囲を見回した。
「……待ってくれ、リーン」
「どうかしましたか、ティレンス」
「少し、様子がおかしい。この辺りには、奥への侵入を阻む強力な『結界』が張ってあって、簡単に立ち入りは出来なかったはずなのに」
見れば、辺りの地面には無数の大きな溝があった。
おそらく、それが彼の言う強力な結界が貼ってあった場所なのだろう。
「教皇自ら、奥へと進むために解除したのでしょうか」
「いや、それならば彼女はまた結界を張り直すだろう……やはり、ここで何かが起きたらしい」
「……奥に、明かりが見えます」
私たちが周囲に注意を払いながら奥へ進むと、開けた場所に出て、途端に魔物の気配がなくなった。
そして、その先に青く光る大きな結晶体が見えてきた。
「あれが……迷宮の核……?」
私は、直接目にするのは初めてだが、間違いない。
これが迷宮の核となる存在、迷宮核だ。
「やはり、この核は、まだ生きているのですね」
近づくと、見上げるような大きさだ。
話に聞いていたよりもずっと大きい。
青く輝く巨大な結晶体の周囲には何もなく、辺りは静まり返っていた。
「……誰もいない、か……?」
「待ってください、あそこ、何か変です」
何かが出現する気配を感じ、私たちは距離をとった。
すると、暗闇に突然激しく炎が吹き出すと同時に、その火の中から一人の女性が飛び出て来た。
「……あれは、まさか」
「……教皇猊下……?」
炎に包まれながら、青い石の中から勢いよく飛び出てきた人物は教皇アスティラだった。
私たち二人はその光景に驚いて、立ち竦んだが、地面に降り立った彼女は落ち着き払った様子でゆっくりと立ち上がり、私たちの方を見て、笑った。
「これはこれは……ティレンス。そして、リンネブルグも。どうやら、運がよかったようですね。こちらの身体も燃え尽きず、外に出た先にも貴方達二人が、待ち構えていてくれようとは」
炎に包まれながら静かに語るその女性は確かに教皇だった。
でも、あの姿はいったい。
彼女の身体は辺りを明るく照らすほどの炎に包まれ、今もあちこちが灼け爛れている。
身に纏う、強力な魔法耐性のある聖銀のローブすら黒焦げになり、所々溶解している。
どうすれば、あれがあそこまでの損傷を……?
「ティレンス────よくぞ駆けつけてくれました……本当に、よかった。貴方達がここにいてくれて」
穏やかな笑みを浮かべる教皇の姿に、私は言葉を失った。
彼女を包み込む炎────あれは恐らく凄まじい魔力によって生み出されたものに違いない。
それが今も彼女の肌を灼いているというのに。
あれで痛みがないはずがないのに。
何故、彼女は平気で笑っていられるのだろう。
……やはり、彼女は何かがおかしい。
変わらぬ彼女の表情に、思わず私の背筋が凍り、冷や汗が頬を伝う。
「────お母様」
教皇は炎に包まれながら皇子を見つめて微笑んでいた。
私にはもはや、それが人の表情だとは思えない。
言葉を失った私の横で、ティレンスが彼女に向かって言葉をかけた。
────お母様、と。
ティレンスはあの教皇のことをそう呼んだ。
私にはあの存在をそのように呼ぶ気持ちが、わからない。
でも初めて、自分の母親を滅ぼさなければならない、と口にした彼の気持ちが理解できたような気がした。
「……そのお姿はいったい……? ここで、何があったのですか」
「賊ですよ、ティレンス……我が国の内部に賊が入り込みました」
「賊……?」
「ええ。そこの小娘に連れられ、今日という祝いの席に乗じて紛れ込んだのです。あれはとても厄介な輩ですよ、ティレンス。私をここまで追い込むほどの。ですが、もう心配することはありません。彼らは向こうに閉じ込めてきましたから」
「……向こう?」
「出てくる方法が皆無とは言えないのですが、流石にすぐには出られないでしょう。それまでに民から『血肉』を得て本来の力を取り戻しさえすれば、きっとあんな男、敵にもならないでしょうから────」
先ほどから、私には彼女の言葉の意味がよくわからなかった。
にも関わらず、私の心臓は苦しいほどに早く脈打ち、激しく警鐘を鳴らしていた。
────閉じ込めてきた、とは……何を?
そして、民から血肉を得てとは……何の話なのだろう。
思い当たることはある。
でも、私の理性がその理解を拒み、身体に悪寒が走った。
「──────寒い──────」
背筋に感じる悪寒は次第に強まっていく。
そして、だんだんと不穏な気配が強まり────私の肌が一層、粟立った。
……何かが、ここに、来る。
得体の知れない、何か恐ろしいものが近づいてくる。
直感で感じ取った瞬間、辺りの空間が大きく歪む。
そして────
『──────────────────────』
その歪みから、眩しい程の炎に包まれた巨大な何かが現れた。
同時に洞窟の壁が焼け焦げ、空気が瞬時に喉を灼く程の熱を帯びた。
「────あれは……!」
私はあまりのことに息を詰まらせた。
周囲の岩場を焦がすような灼熱の炎に包まれてそこに立っていたのは────巨大な人骨のような怪物。
それはただ見ているだけで圧倒され、押し潰されそうになるような存在だった。
顎の砕けた巨大な骸骨が、教皇と同じように灼け爛れた聖銀のローブを身に纏い、暗闇の中で燃え続けている。
あんな怪物、私は今まで出会ったことがない。
でも、私はその姿を絵画の中で何度も見たことならある。
そうだ。
間違いようもない。
あれは、ミスラ教国の至る所で目にする『聖像』にいつも描かれている姿。
「────『聖ミスラ』」
私たちは炎に包まれて佇むその巨大な骸骨を、ただ見上げることしかできなかった。
人の身では決して敵わないと思える膨大な魔力の奔流を前に、指先ひとつ、まともに動かせる気がしない。
あれが『聖ミスラ』。
神聖ミスラ教国の信仰対象であり、数百年前、教皇を通してミスラ教徒に数々の『教え』をもたらしたとされる存在。
そして、その姿を見つめながら、先ほどの教皇の言葉を想い出す。
────民から血肉を得て、力を得れば、と。
……誰が?
そんなこと、解りたくなくても解ってしまう。
それは……きっと、この目の前の存在が。
そして、同時に思い当たってしまう。
それはあらかじめ周到に準備されていたということが。
おそらく、数百年もの昔から。
この国の始まりの時から。
あれは教皇の手を通し、この国を裏からずっと操ってきた。
ミスラの街に集った、自らの信徒達を糧として、力を得る為に。
元々、その為だけにこの街には人が集められ、国家が────そしてミスラの民の『信仰』が造られたのだということが。
「そうです、正解ですよ、リンネブルグ。このお方こそ『聖ミスラ』。我が国の主人であり、救い主です」
同時に、悟った。
一瞬で理解せざるを得なかった。
あれは、決して私たち人の手には負える存在ではないのだと。
ただ向き合っただけでわかってしまう。
目にするだけで、身体の芯にまで悪寒が走り、私の体は石のように硬直した。
あれと人とでは存在としての格が違いすぎる。
この場に立っているだけで、恐怖で胸が圧し潰され、今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られる。
「……やはり、あれは夢ではなかったのですね」
「そういえば────ティレンス、貴方は確か、以前にお会いしたことがあったはずですね。ええ、もちろんですよ。『聖ミスラ』は御伽噺などではありません。そして、ミスラ教の教義にある『復活の日』────それがまさに、今なのです。ティレンス、リンネブルグ。さあ、こちらへ。皆で一緒に『救いと祝福』を授けていただこうではないですか」
教皇はそう言って私たちに手招きをした。
────わかっている。
あそこへ近づくのは、危険だ。
この場に留まるのも。
私たちは一刻も早く、ここから逃げなければいけない。
頭では理解できている。
でも、体が全く言うことを聞かない。
逃げないのであれば、剣を取ってあれに抵抗しなければいけない。
でも────私の力で、あれに敵うわけがない。
一度そう考え始めると、もう脚が動かなかった。
私の意志とは関係なしに、既に絶望が身体を支配していた。
「────お母様。少しよろしいでしょうか」
怯えで凍りつく私の横で、ティレンスは教皇へ静かに語りかけた。
────再び、お母様、と。
彼は恐怖も、親愛の情も、戸惑いも、一切何の感情も込めずに、そう呼びかけたように聞こえた。
「なんでしょう、ティレンス」
「大事なお話があるのです。できれば、二人だけでお話ししたいのですが」
「そうですか……ええ、まずは貴方だけでも良いでしょう。さあ、こちらへいらっしゃい」
彼女はそう言って、自分の灼け爛れた皮膚をなんら気にするでなく、両手を拡げて微笑んだ。
あの巨大な骸骨を背にして、穏やかな表情を浮かべて嗤っていた。
やはり、この女性は────何かが、決定的におかしい。
あの骸骨と同じく、彼女も人ではない何かなのだ。
────行ってはいけない。
ティレンスに警告しようとするが、喉からうまく声が出ない。
そんな私にティレンスは囁くように言った。
「……リーン。どうやら、僕の悪あがきはここまでみたいだ。もう少し、何とかなると思ってたんだけどね……ちょっと甘かった」
「ティレンス……?」
「……君はどうにかして、ここから逃げて欲しい……僕から頼っておきながら、勝手なことばかり言ってすまない。でも……あれがどう言う存在なのか、わかるだろう?」
私はただ、彼の言葉に頷いた。
「ここまで付き合ってくれて、君には本当に感謝している。どうにか君だけでも逃げ延びて、できれば上の者にここで何が起きたかを知らせてほしい。……そんなことまで君に頼むなんて、本当に図々しいんだけどね。やっぱり、今頼れるのは君しかいないんだ。時間は僕が、少しだけ稼ぐからさ────頼むよ」
そう言うと、皇子は教皇に向かってまっすぐに歩き出した。
「ティレンス。何をしているのですか……聖ミスラをお待たせしてはいけませんよ」
「……お母様。焦らずとも、今、そちらに参ります」
ティレンスはゆっくりと歩みを進めた。
私は彼が何をしようとしているかを、理解している。
でも、体が動かない。
「ふふ……ティレンス。正直にいえば、貴方をここで終わらせてしまうのは本当に勿体無いと思っています。この身体といい、とてもとても良い血を持っていますからね。でも、仕方がありませんね。あんなモノが現れてしまったのですから。決して、無駄にはしませんよ」
「……ちょっと、待ってください────!」
私は喉を振り絞って声を出した。
同時に彼が上着の内側から刀身の紅い短剣を取り出して握り込んだのが見えた。
あれは────皇子が今握り込んだ短剣は『破命の紅刃』。
刃を突き立てた対象の命を確実に奪うという至宝。
そして、同時に使用者もまた確実に命を落とすという代償を伴う必滅の武器。
そんなものがティレンス王子の手に握られていた。
「ええ、お母様。僕もこの命、決して無駄にはしないつもりです」
あんなものを使えば当然、彼は────。
「……待ってください、それは────!」
私は声を振り絞る。
でも最早、彼に私の声は届いていない。
代わりに、彼の口から冷えきった声が響くのを聞いた。
「────なあ、僕の身体が欲しかったんだろう……お母様?」
そう言って、ティレンスは紅い短剣を握り込み、両手を拡げる教皇の元へと駆け出した。
────私は、勘違いしていた。
彼は言っていた。
私に「教皇アスティラを殺すのを手伝ってほしい」、と。
その罪は自分が被るから、と。
でも、それは自らが手を下した汚名を被るといった程度の意味ではない。
彼が言っていた「罪は自分が被る」とは、つまり────
「それなら、貴女の望み通りくれてやる。でも────」
彼は最初から、そのつもりで、自らの命を賭けるつもりで今日という日に臨んだのだ。
ティレンスは私の目でも追い切れない程の加速で教皇の胸へと飛び込んだ。
見れば分かる。
あれは、彼の命を賭した最期の一撃。
────もっと、早く気がつくべきだった。
私は彼を止めなければいけなかった。
でも、身体は動こうともしない。
どうして。どうして、私はこんなに弱いのだろう。
彼の姿を目にして、後悔ばかりが頭に浮かぶ。
「────僕の人生まで思い通りに出来ると思うな」
そうして、皇子の紅い刃は教皇の胸に届いた────
────かに見えた。
でも、その刹那。
何かがティレンスの身体を覆い、彼の姿が掻き消えた。
「……え……?」
気が付いた時には聖ミスラの巨大な手がティレンスを握り、捕らえていた。
そこまでの動作が、私にはまったく見えていなかった。
「ふふ……いい子ですね、ティレンス。聖ミスラもお喜びですよ。こんなに元気に私の元へと飛び込んできてくれるなんて……良い養分となりそうです。本当に、貴方をここまで育てた甲斐があったというものです」
ティレンスは聖ミスラの手に押しつぶされた衝撃で気を失っている。
そんな彼を見つめながら教皇は愉しそうに嗤っていた。
「────嘘────」
思わず、口から現実を見ることを拒否する声が出た。
あの巨体で、どうやってあんな速さで動けるというのだ。
────ありえない。
全てが想像を超えている。
私の知識の中に、あれと比べられるものが見つからない。
おそらく、今、私の目の前にいるこれは、【災害級】や【天災級】といった既知の尺度ではとても測れないレベルの怪物。
歴史の記録にはない、いまだかつて人類が対峙したことのないレベルの怪物。
こんなものが、一つの国を裏から操っていたという。
数百年の間、ずっと。
────私一人で、どうやって、こんなものと対峙したら。
もはや逃げることすら、絶望的。
私はティレンスが折角作ってくれた機会を完全にふいにした。
でも、私が全力を出したところであれからはきっと逃げ切れなかったに違いない。
今の出来事を目にすると、そう悟らざるを得なかった。
もう、私には出来ることは何もないことも。
「────さあ、リンネブルグ。貴方も、こちらへいらっしゃい」
そして骸骨のもう片方の手が私の方へと伸ばされた。
私が絶望し、身動きすら出来ない人形のようになっているのを理解しているかのように、ゆっくりと。
抵抗が出来ない私の身体を巨大な手が握り込み、持ち上げた。
────私は、少しは強くなったつもりだった。
でも、違った。
私はまだ弱いままだった。
努力はしたつもりだったのに。
肝心なところで何もできなかった。
自分の瞼に後悔の涙が浮かぶのを感じ、こんなところで涙を流しているだけの自分自身に腹が立つ。
それでも私は────何もできそうにない。
そして────。
巨大な骸骨の顔の前に私とティレンスは持ち上げられ。
骸骨の壊れた顎が大きく開き、顔が上に向く。
私たちはゆっくりとその真上へと運ばれた。
「ふふ、楽しみですね。あなた達は素晴らしい可能性を秘めているのですよ。それが『聖ミスラ』にどれほどの恩恵をもたらすのか……本当に、楽しみです。それでは、あなた達の未来に────幸いあれ」
そうして、私は自らの運命を受け入れ────目を閉じた。
私は全てを諦め、自分があの怪物の口に放り込まれるその時を待っていた。
でも、なかなかその時はやってこなかった。
不思議に思い目を開けると────
私の視界の隅に、一つの炎の球が現れるのが見えた。
その火球の中には見覚えのある、『黒い剣』を持ったひとりの人物が佇んでいて────
「……ようやく、出られたな……本当に死ぬかと思った」
聞いたことのある声がした。
「────お前は」
途端に教皇と骸骨……あの怪物が、一歩、後ろに下がった。
……何が起きた?
……今、何が現れた?
私の今の、混乱した頭では理解しきれなかった。
一呼吸ののち、落ち着きを取り戻した私が見たのは────
「……リーンか? こんなところで何してるんだ? 舞踏会とかいうのの最中じゃなかったのか?」
「────ノール先生?」
ノール先生が、そこにいた。
先生は全身を聖ミスラと同じような炎に包まれながら、聖ミスラと教皇の前に立っていた。
その瞬間。
骸骨の手は私たちから手を離し、私とティレンスは空中へと放り出され、骸骨の腕が消えた。
……いけない。
あの怪物の手が、先生を叩き潰そうとしている。
いくら先生でも、この怪物を相手には────!
「────パリイ」
耳を引き裂くような、轟音。
辺りを震わす衝撃と共に、気づけば振り下ろされたはずの骸骨の手が粉々に砕かれ、私とティレンスは宙に舞っていた。
一瞬のことで、何が起きたのか全くわからなかった。
私は無我夢中でティレンスを空中で担ぎ、聖ミスラから距離をとり着地したが、足元がぐらつき、地に手をついた。
恐怖で、また足元がふらついた?
……いや、違う。
────今の一撃で、大地が、大きく揺れている。
見れば、ノール先生を中心にして巨大な亀裂が壁まで走り、辺り一帯の地面が砕けていた。
「────ちょっと、ノール! 置いてけぼりにしないでください!」
そして遅れて、また一人。
炎に包まれた人物が姿を現わした。
「……ふう……よかった、なんとか出られて……また、あそこでひとりぼっちになるのかと思いましたよ……あれ? ……そちらのお二人は……?」
彼女は地面に降り立ち、身体を覆った炎を風の魔法で吹き消すと、私たちに目を留めた。
その姿に私と、私に抱えられながら目を醒ましたティレンスは混乱した。
何故なら────
「……お母……様……?」
それは私たちの知る人物にあまりによく似た女性だったから。