72 教皇との対話
「教皇猊下。
この度はお招きにあずかり、光栄に存じます────それで、お話とは」
私とロロ、イネスの三人は舞踏会のホールの奥へと呼び集められ、周囲の人々からの目線を一身に浴びながら、種々の宝石で飾られた黄金の椅子に鎮座する、荘厳な意匠が施されたローブを纏った人物と真正面に向き合っていた。
神聖ミスラ教国の頂点────教皇アスティラ。
大陸における、生ける伝説の一人。
そして皇国の没落の混乱に乗じて数ヶ月の間に支配地域を拡げ、今や大陸の半分を支配するまでになった大国の主が私達の目の前で静かに微笑んでいた。
「ふふ、そんな風に緊張することはありませんよ。
もっと、気を楽にしてお話をしようではないですか」
「────気を楽に、ですか」
私が周囲に目を配ると、大聖堂の警備を担っていた兵士たちが私たちを静かに取り囲んでいくのが見えた。
まともな神経をしていれば気を楽になど出来るような状況ではない。
「貴女は私の大事な客人なのですから、どうぞ、お気を楽に。
まずは、再会を祝おうではありませんか。
お待ちしていましたよ────リンネブルグ。
貴女が再びこの国にやってくる日を」
緊張する私たちとは対照的に、彼女は美術品のように整った顔のまま、静かに嗤っていた。
この女は、やはり何かがおかしいと感じる。
百戦錬磨の父が、まるで魔物と向き合っているような気がする、と語った理由が、直接対峙して、今やっとわかった気がした。
目の前の女性から漂う雰囲気は、単に会話をしているだけでも全身を全て絡め取られそうな、底なしの沼のような、ひどく不吉な気味の悪さを含んでいた。
普段、物怖じしない性格のはずの自分が初めて────人間を、恐ろしいと感じた。
「そう言えば、聞きましたよ、リンネブルグ。
貴女が国を発つ前、そちらの都が飛竜の群れに襲われたと。
とんだ災難でしたね。
クレイス王国は今、国全体が疲弊し大変な時でしょう?
もう、二度とそのようなことがないと良いのですが」
教皇はそう言って私たち三人の反応を伺い、嘲笑うかのように愉しそうに嗤った。
「…………うぅっ…………」
ロロが口元を押さえ、苦しそうにしている。
彼女は一見、クレイス王国を気遣うかのような言動を見せるが……それはどう見ても、見え透いた脅迫でしかなかった。
「────猊下。
あの群れには【狂化】の魔法が掛けられており、お察しするに、どなたかからの贈り物だったかと思いますが────残念ながら、我が師オーケンが一撃のもとに焼き払ってしまいました。
どなたかは存じませんが、送り主の方には少々申し訳ないことをしたと思っております」
「────そうですか。
しかし最近、魔物の活動がとても盛んになったと聞きますから。
一度起きたことは、きっと、何度でもあることでしょう。
今後も、周囲の様子には気をつけたほうが良いかもしれません」
「お心遣い、感謝いたします。
ですが、ご心配は無用です。
あの程度の脅しが何度来ようと、我が国は決して屈することはありませんので」
「そうですね。私も、そのしぶとさはよく知っているつもりです」
教皇は顔に貼り付けた笑みを絶やさない。
その様子に軽い悪寒を覚えながら、私は先ほど彼女の発言に抱いた違和感について切り出した。
「ところで────猊下。
先程、ロロのことを、何とおっしゃったのですか……?
何か……物でも扱うようにおっしゃられたように思えたのですが。
私の聞き間違いでしょうか」
「……それが────何か?」
私の言葉に教皇の笑みが一瞬で消え、しばらくの沈黙の後、先ほどまでとは打って変わった低い声が辺りに響いた。
「それが、何か不都合でもあるのですか、リンネブルグ」
聞くだけで心を縛られるような昏い声だった。
凍てつくような目を向けられ、心臓を圧し潰すような威圧の雰囲気だけが残った。
一瞬で闇に呑まれたような感覚が全身を襲う。
正直、目の前にいるこの人物が、恐ろしいと感じる。でも、この女性には、決して弱みを見せてはいけない。
直感的にそう感じた私は言葉を選びながら、会話を続けた。
「彼を────ロロを今日ここにお連れするのは、私の友人として、と伺っておりました。
少なくとも、私は彼にそうお伝えして、ここに来てもらいました。
ですから────申し訳ありませんがあのご発言は聞き捨てなりません。
あれは…………如何なる、お心変わりでしょうか?」
私がロロへの扱いに対しての抗議をぶつけると、教皇はとても愉快そうに嗤った。
「これはこれは。気丈なことですね、リンネブルグ。
私を前にしても動じず、そのような世迷言を吐くとは。
その年齢でその胆力────ますます、欲しくなりました」
「……猊下。
私の質問には、答えていただけないのですか────?」
問いかけを続けようとする私に、彼女は片手を上げ、言葉を遮った。
「リンネブルグ。言葉を慎みなさい。
そちらこそ、些か、無礼がすぎるのではないですか。
何か、勘違いをされているようですが、私が心変わりしたなどという事実はありません。
元々────私は、最初からそのつもりでしたから」
教皇は再び私たちに優しげな笑みを向けたが、最早それは暗闇を纏った不吉な仮面でしかなかった。
「最初から……? それは、どういう────」
「もちろん、貴女をお招きしたのは、我が息子ティレンスの『婚約者』として。
────かつ、敵国の要人としてです。
そこの魔族はその珍妙な友人としてお招きする、と。
私のその意図に、何も変わりはありません」
場内が少し、ざわついた。
彼女ははっきりと口にした。
クレイス王国は敵である、と。
最初からそのつもりで招いたのだと。
私たちは最初から、ミスラ教国の敵として────ミスラ国内に、招き入れられたのだと。
「猊下────敵国とは、いったい」
「白々しいですよ、リンネブルグ。
貴女の国は────クレイス王国はそこにいる『魔族』を国家の一員としたのです。我が国からの、再三の警告にも関わらず。
その意味は、わかりますね?
我が国が、どのように魔族と相対しているのか、よくご存知のはずです。
そちらの害悪のような存在に与するなど……完全に我が国に対する侮辱、敵対行為に他なりません。その時点で、貴女達は我が国に刃を向けたも同然────明らかな『敵』なのですよ。
それに、あなた方もそれを分かっていたからこその、その護衛なのでしょう? 残念ながら、一人、何処かにいなくなってしまったようですが」
教皇はイネスの姿を眺めながら頸を傾げ、再び愉しそうに嗤った。
「────解せません、猊下。
我が国は、貴国に対して敵対の意思など持ちません。
もし仮に両国が敵対関係にあったとしても、それでいて、何故、私のことをティレンス皇子の『婚約者』などと称し、呼びつけたのです。冗談にしては悪趣味が過ぎますし、本気であられたとしたら尚更────納得が行きません」
教皇は、再び嗤った。
「なるほど。わかりませんか。
それはそれは────」
満面の喜色だった。
教皇が静かに片手を上げると、私たちを取り囲んでいた兵士たちが、一斉に剣を抜いた。
ざわついた場内が、再び、一瞬で静まった。
「そうですね。確かに、説明が足りなかったかもしれません。
わかりやすく言えば────それは条件、と言い換えてもよいのです」
「……条件?」
「ええ、そうです。
私は、貴女の才と優れた血を高く評価しています。それをあの滅びゆく小国で埋もれさせるには惜しい、と言っているのです。
我が国の方が、ずっと活かす機会があるはずです。
……如何でしょう。
我が国の皇子とここで正式に婚約を結び、我が国に優れた血を遺す、というのは。
それが貴女の国を────あの愚かな王の治めるクレイス王国を、慈悲をかけて救って差し上げる条件だと言っているのです」
そう言って一層愉しそうに嗤う目の前の女性は────父の言う通り、それは魔物のように。
いや、魔物よりもっとずっと恐ろしい、何か人には推し量れない得体の知れない存在に見えた。
「それにしても、クレイス王も薄情な方ですね。
可愛い娘を、このように自らが敵対する国へと送り出すなど。
それもたった数名の護衛で────いえ、もう一人になってしまいましたか。
もしかすると、最初から貢ぎ物のつもりだったのでしょうか?
────だとしたら、ありがたく受け取ろうというものですが」
その舐め上げるような視線を受けて、私は一つの直感を抱いた。
この人は────最初から、他人を、自分以外を物としか見ていない。
魔族だけではなく────おそらく、全ての人が、この女性の目には同じように映っている。
その冷え切った瞳は、私にそんな思いを抱かせた。
「────父は、そのような意図で私を遣わせておりません」
「────ええ、もう結構ですよ、リンネブルグ。
お話はこれで終わりです。
貴女はどうも聞く耳を持ってくださらないようですので────こちらも、相応の対応をさせていただきます。
────衛兵」
「────は」
「捕らえよ」
────瞬間。
数名の衛兵達の手から稲妻のような青い光が放たれ、私たち三人に飛んだ。
────あれは、捕縛結界。
私が一度捕縛され、ミノタウロスによって命を落としかけた封印の光。
それも以前よりもずっと密度の濃い強烈な光が、周囲から一斉に放たれた。
そして、それは────
「────────何?」
────それは、私たちそれぞれが身につけていた髪飾りの力によって弾かれた。
教皇は意外そうな顔をして私に尋ねた。
「……なんでしょう、リンネブルグ。その髪飾りは。
我が国の技術とは────少し、違いますね。
……なぜ、そんなものが存在するのでしょう」
彼女は少し、不快そうに眼を細めた。
「猊下がこれを見たことがないというのは至極当然かと思います。
これは────私が作った、見よう見まねの自作品ですから。
これは私が以前、ミノタウロスの襲撃で命を落としかけた時────何者かが私にけしかけた捕縛結界と同質のものを解除できる魔道具です。よもや、こんなところで役立つとは思いもしませんでしたが」
私は、精一杯の皮肉を込めて答えたつもりだった。
でも、意外にも、その時教皇が浮かべていた表情は────歓喜だった。
彼女は、先ほどの不機嫌そうな様子から一転、喜びに打ち震えていた。
「────ああ、なんと素晴らしい。
まったく、素晴らしいですよリンネブルグ王女。
流石は、私が見込んだ女です。
この短期間で独自の『反結界』の聖具まで準備してくるとは。
それも、一度体験しただけで再現するとは────既に、我が国への留学時に秘匿の結界技術を模倣する理論自体は完成させていた、ということでしょうか?
────ああ、本当に素晴らしい。
これでは、ますます貴女の評価を上げなければなりません。
貴女は本当に優秀で────とてもとても、危険です」
どこか興奮した様子の教皇が手を振ると、護衛が散って私たちを囲み、全員が剣を向けた。
「……正直、想像もできませんでした。
我が国の秘匿技術である『結界』術を一目見ただけで理解し、その手中に納めてしまうなど。
やはり、貴女のお父上は貴女の価値を、だいぶ低く見積もっていらっしゃるようですね。
貴方の、その血の価値を。
────ますます、欲しい。
貴女こそ、私の求めていた人物です。
どうです────リンネブルグ。
ここで正式に王子と婚儀を結び────私のものになる気はありませんか?
そうすれば我が国、ひいてはこの大陸は更に安定し、かつてない繁栄を享受することになるでしょう。
さあ、これが最後の通告となりましょう。
どうぞ、お返事は慎重に────」
「もちろん────」
────お断りです。
私が即座にそう口にしようとした、瞬間。
────轟音。
同時に私たちの立っているホールの石造の床が歪むように揺れ、天井からいくつかの照明が落下し、次々に砕けた。
静まっていた会場内が、一瞬にして混乱に包まれた。
「何事です」
奥の廊下から、バタバタと複数の足音がする。
数名の兵士が慌てた様子で教皇の前に進み出て、告げた。
「申し上げます。
大聖堂地下『嘆きの迷宮』深部に、何者かが侵入した模様です」
「深部?
十二使聖は……あれらは、何をしていたのですか。
早く、対処なさい。
あそこは貴重な遺物の眠る神聖な場所。
一刻も早く賊を捕らえ────────ッッ!?」
「────猊下?」
なんの前触れもなく、教皇の顔が苦痛に歪んだ。
彼女は突然虚空を見つめながら、目を見開き────口は、呆気に取られたように開いては閉じを繰り返していた。
「い、いったい、どうなされたのです、猊下────?」
彼女の周りの兵士たちが狼狽えていた。
それは、私が────私だけでなく、おそらくその場の誰もが見たこともない表情だった。
教皇の、心からの困惑の表情。
いつも冷静さを失わない彼女の手が、身体が────今、小刻みに震えていた。
「なぜ、何故です────?
何故、そこまでヒトが入り込めるのですか。
いや。そんなはずはない。
あそこにはもう、誰も──────ッ!?」
再度、教皇の目が見開き────喉を掻き毟るようにして、声にならない、呻きをあげたような気がした。
「どうして────────?
────────ッ!!」
教皇は再び一瞬、苦悶の表情を浮かべ────またすぐに冷たい仮面で顔を覆い、兵士達に指示を出した。
「────私は、用事ができました。
この小娘を丁重に捕らえなさい。
良い報告を期待していますよ」
「は」
教皇は兵士の返事を待たず、青白い光に包まれてどこかに姿を消した。
「では、僕も自室へと戻ることにするよ。事が終わったら僕の自室に、リーンを」
ティレンス皇子も青い光に包まれ、消えた。
去り際に、私に笑みを向けながら。
「────────────────」
私はそこで────自分の心の中に、何かが湧き上がるのを感じた。
建物の揺れはまだ続き、混乱も続いている。
「イネス」
「はい」
「もう、行ってください。ここからは、兄の指示通りに行動しましょう」
「ですが────」
イネスは辺りを見回した。
兵士たちが押し寄せ、取り囲まれつつある。
「今の揺れはきっと────先生だと思います。
おそらく先生からの、私たちへの合図です。
何かを見つけられ、先んじて動かれたのだと思います。
動くなら、今です。
私なら、一人でも大丈夫ですから」
私がイネスの目を見つめると、彼女は目を閉じ、小さくうなずいた。
「────承知しました。リンネブルグ様。どうか、ご無事で」
「はい、イネスとロロも」
直後、イネスは石の床を【神剣】で斬り裂き穴を開け────ロロと一緒に、素早く飛び込んだ。
周囲の兵士たちは反応が遅れ、それを黙って見守っているだけだった。
「何だ? 従者と護衛だけ、逃げたのか」
「は。見上げた心構えだ。
あんなものがクレイス王国の誇る精鋭とはな。聞いて呆れる」
私を取り囲む兵士たちは、彼女達のことを口々に笑った。
「リンネブルグ王女。あなたは逃げないのですか?」
「……はい。私は逃げるつもりはありません」
「なるほど、では、大人しくご同行願えるのですか……。それであれば、こちらとしても────」
「いえ。私はただ、ここに残る、と言っただけです。
あなた達に従うつもりはありません」
「…………王女?
失礼ながら────この状況は、もうお分かりいただけていますね?」
兵士は手を拡げ、私に周囲を観察するように促した。
そこにはおおよそ、二百の武装した兵が見えた。
ホールの外に待機している数を含めると────数百。
ミスラ教国が誇る、最高峰の聖銀製の武具に身を固めた精鋭『神聖騎士団』の約半数が出揃っていた。
そして、この場には誰一人私の味方はいない。
私は今、見渡す限りすべてが敵、という状況に置かれている。
「────はい。もちろん、わかっているつもりです」
「それなら、どうしてそんな意地を張られるのです。
さあ、大人しく我々と────」
私は私の腕をつかもうとした兵士の手首を片手で掴み、ゆっくりと押し除けながら、告げた。
「────いくつか、誤解をされているようなので申し上げます。
まず、彼女達は逃げたのではありません。
探し物を一つ、取りに行ったにすぎません」
私に手を掴まれた兵士は、どうやら私の手を振り払おうとしているようだ。
おそらく、彼の聖銀の鎧には【筋力強化】の付与がなされている。
通常ではありえないほどの力で、私の手を、引き剥がそうとしている。
────でも、まだ離すつもりはない。
まだ、私の話は終わっていないから。
「────そして、もう一つ。
まだ、お分かりいただけない様子ですが────私は逃げなかったのではありません。
逃げる必要などないからここにいるだけの話です。
どうして、私が────逃げる、などと?
なぜ、ここで私が逃げなければいけないのでしょうか」
私はそこでようやく、兵士の腕から手を離した。
腕がやっと自由になった兵士は驚いた様子で跳びのき、距離をとって私に剣を向けた。
少し、力を込めすぎたかもしれない。
見れば、彼の聖銀の手甲に私の手の跡がくっきりとついていた。
「そもそも、逃げる、などと。
そんなことをする意味が、いったいこの状況のどこにあるというのでしょう」
私はゆっくりと周囲を見回し、私を取り囲み武器を向ける人々によく聞こえるように言った。
「ここに私の脅威となる存在など、誰一人いないというのに」
私は今、少しだけ────自分の中に怒りの感情が湧き上がるのを感じていた。