54 俺は幽霊をパリイする
暗闇の中、硬い床を蹴ってあの白く半透明の体の怪物『幽霊』に近づくと、それがうっすらと淡い光に包まれるのを感じた。
「──何だ?」
瞬間、『幽霊』の腕がこちらに向けられ、白い指から変形した無数の丸太のように太い触手が一斉に襲いかかってくる。
────疾い。
俺は咄嗟に床を蹴り、身を翻す。
それらの不気味な半透明な触手は、まるで矢のような速さで俺に迫ってくるが、幸い、躱せない程の速さではない。
とはいえ、あれに触れたら、まずいかもしれない。
そんなことも思わせた。
雪崩のように次々と音もなく襲ってくるその触手には、どこか『殺意』のようなものが感じられたからだ。
もし、あれに一瞬でも触れてしまえば自分の命を丸ごと吸い取られてしまいそうな気さえした。
──まあ、実際にはそんなことないのだろうが。
あの不気味な白い身体はそれぐらいの威圧感を放っている。
やっぱり出来るだけ、触れたくないな。
俺がそんなことを思いながら、あちこち飛び回りながら白い触手を躱していると、『幽霊』はどんどん触手を増やしていく。
《────────おおおおおおおおおオオおおおおおおおオオおおおおオオおおおおおおおおオオおおおおおおおおおおおおオオおおおおおおおおオオおおおおおおおオオおおおおオオおおおおオおおおおおおおオオおおおおオオおおおおおおおおおおオオおおおおおおおオオおおおおオオおおおおオオおオオおおお────》
それはまるで怒り狂っているかのような叫びをあげ、攻撃は更に激しくなっていく。
その白い腕は暗闇の中を縦横無尽にのたうち、無数の眼玉のある指が四方八方に蠢きながら襲ってくる。
まるで嵐のようだ──とはいえ、別に躱しきれないほどでもない。
まあ、これぐらいならなんとか奴に近づけるだろう。
──そう思っていたのだが。
「──しまった──」
一瞬の油断。
その隙をつき、その『幽霊』は俺の右と左、足元、そして頭上、更に背後──。
要するに全方位から、同時に触手を振るってきた。
────まずい。
暗闇で、背後から襲ってくる触手には気がつかなかったし、床下から来るのも予想していなかった。
いいように注意を誘導され、意識の空白を突かれたようにしか思えなかった。
──こいつにはこんな知恵もあるのか。
俺は気づけば完全に白い触手に囲まれていた。
これでは、奴の体に触ってしまう。
……多分、別に、触ってもなんともないとは思うのだが。
それは、ちょっと────嫌だな。
できれば、触りたくない。
「────パリイ」
思わず、俺は手にした『黒い剣』を振るっていた。
特になんの考えもなく、体が自然に動いてしまった感じだ。
その瞬間、奴には物理攻撃が効かないと聞いていたことを思い出し、しまった、と思ったが──
何故か、剣を持つ手に僅かな手応えがあった。
《──────おおおおおおおおおオオおおおおおおおオオおおおおオオおおおおおおおおオオおおおおおおおおおおおおオオおおおおおおおおオオおおおおおおおオオおおおおオオおおおおオおおおおおおおオオおおおおオオおおおおおおおおおおオオおおおおおおおオオおおおおオオおおおおオオおオオおおお────》
俺の剣は、確かに、幽霊の触手を薙ぎ払った。
半透明の白いものが、ほとんど手応えもないままに暗闇の中へと弾き飛ばされる。
「────どういうことだ?」
そういえば、この剣は魔法も弾いていたような気がする。
だが、まさか幽霊にまで当たるとは。
どういう理屈なのだろう……?
いや、だがこの際、理由はどうでもいい。
この化物は、この剣で弾ける。
それだけ分かれば、十分だ。
そうと分かると、目前の得体の知れない存在が、だんだん、怖くなくなってきた。
対処法が少しでも分かると、恐怖心も薄らぐものだ。
再び、暗闇の中から幽霊の触手が襲いかかってくるのが見える。
だが────
「パリイ」
今度は意識的に、一振りで全ての触手を払い退ける。
白い触手は先ほどよりも大きく弾かれ、闇の奥深くへと消えた。
「これなら………大丈夫そうだな」
この幽霊には、俺の【パリイ】も通じることがわかった。
俺は少し安堵し、落ち着いた。
これで怖がるほどの脅威は無くなったが、このまま守るだけではきっとこいつには勝てないだろう。
俺はそう考えて、剣を持つ手の反対の手の指先に火を灯した。
「【プチファイア】」
俺が使える魔法はこれだけ──もちろん、【プチファイア】の火は一つでは弱く、頼りない。
まともな戦闘にはとてもではないが、使えないだろう。
でも──その火が、五つ合わされば。
俺はそれを、『幽霊』に出会ったら試そうと思っていたのだ。
「【プチファイア】」
俺は即座に空いている方の手の全ての指先に【プチファイア】の火を灯した。
途端に辺りが少し明るくなり、幽霊の不気味な姿が暗がりの中で青白く照らされる。
《────────おおおおおおおおおオオおおおおおおおオオおおおおオオおおおおおおおおオオおおおおおおおおおおおおオオおおおおおおおおおおオオおおおおおおおオオおおおおオオおおおおオオおオオおおお────》
俺の灯した火を目にした『幽霊』は更に悍ましい叫び声をあげた。
どうやら、火を見て怖がっているようだった。
……良かった。
この反応を見ると、俺の【プチファイア】でも有効なようだ。
『幽霊』は俺めがけて腕と触手を伸ばし、更に激しく攻撃を仕掛けてくるが、俺はその全ての攻撃を『黒い剣』で払いのけていく。
焦る必要はない。
俺は全神経を火を灯した手に集中させ、ゆっくりと歩きながら幽霊に近づく。
そして、暗闇の中を一歩一歩進みながら、五本の指に灯した火を、少しずつ指先から移動させ────細心の注意を払いながら、手のひらの中心でピタリと重ね合わせた。
すると俺の手の中の小さな火が一層、熱を帯びて輝き出す。
その光に反応したのか、幽霊は今までにない勢いで触手を振り回してきた。
あっという間に、俺の目の前が奴の白い触手で埋め尽くされる。
だが──今度は『黒い剣』を使わない。
代わりに俺は火の灯る手のひらを『幽霊』に向けた。
「【プチファイア】」
そのまま、一気に掌の『輝く火』を限界まで燃え上がらせた。
瞬間────閃光と轟音。
目前に迫った白い触手の群れが、まとめて爆発四散する。
同時に生み出された衝撃波で、俺はかなり後ろに吹き飛ばされた。
なんとか空中で態勢を整えて床に着地し、見れば巨大な『幽霊』の身体が三分の一ぐらい消滅していた。
「──どうにか、効果はあったみたいだな。だが──」
一見、大きなダメージを与えたかに見えたが、瞬時に幽霊の傷口は再生し、あっという間に元の姿に復元していく。
やはり、あの程度では火力は全然足りていないらしい。
「……まあ、そう簡単にはいかないか」
だが、これも半ば予想していたことだった。
俺の【プチファイア】では絶対的に火力が足りない。
──『幽霊』を倒すには、魔法で一度に全身を霧散させて消滅させなければいけない。
冒険者ギルドのおじさんから、俺はそう聞いていたからだ。
それならば────俺も、今までに試したことのないことをやってみるしかない。
そう思って、今日は準備してきた対『幽霊』の秘策がある。
今までまともにやってみたことはないし、ぶっつけ本番にはなってしまったが……さっきの感じなら、多分、出来るはずだ。
「【投石】」
俺は【投石】スキルを駆使して、再生している途中の幽霊に思い切り『黒い剣』を投げつけ、背後の巨大な祭壇のようなものに縫い付けた。
幽霊は苦しむようにもがき、それを引き抜こうとするが──うまくいかず、すり抜けようと躍起になる。
あれは、あのまま放っておけば、すぐに黒い剣の磔から自由になるだろう。
それまで、もっておそらくあと数秒、というところだ。
でも──それだけの時間を稼げれば、十分。
俺は自由になった全ての指先──両の手の十本の指に同時に火を灯した。
「【プチファイア】」
同時に床を蹴り、磔となった『幽霊』に向かって思い切り跳躍する。
そして『幽霊』の本体へと飛び込みつつ、先ほどの要領で灯した火を集約し、両の手のひらにそれぞれ、小さな『輝く火』を作り出す。
《────おおオオおおおおオオおおおおおおおおオオおおおおおおおおおおおおオオおおおおおおおおおおオオおおおおおおおオオおおおおオオおおおおオオおオオおおお────》
幽霊は暗闇の中で近づく俺の姿を察知し、恐ろしいほどの数の触手を一斉に振るってきたが──俺が幽霊の目前にたどり着く方が、少し早い。
俺は即座に両の手を付き合わせ、幽霊へと向けた。
「────どうかこれで、終わってくれ」
俺は祈るような気持ちで、二つの『輝く火』を更に一つに束ねていく。
小さな二つの火は重なると激しく光を放ち、俺の手の中で煌めく極小の光の粒へと姿を変えた。
見た感じ、小さくはなったが熱は前よりも格段に高まっているのを感じる。
今まで、やってみたことはなかったが──どうやら、ここまでは上手くいっているらしい。
────これが俺の、正真正銘、全身全霊の魔法行使だ。
でも、もし、万が一これでダメだったら…………あとはリーンにお願いしよう。
そんなことを考えながら、俺は両手のひらを幽霊に向け、手の中の小さな光に全力で魔力を込めた。
「────【プチファイア】」
瞬間────
暗闇に覆われていた視界が、白く染まった。
同時に、衝撃。
身体全体に途轍もない圧力を感じ、俺は訳も分からないうちに吹き飛ばされ──
巨大な『幽霊』は背後の祭壇と共に、跡形もなく姿を消した。