47 婚約者
「お父様。お話とはなんでしょう」
「うーむ……そのことなんだが」
王は王女を呼び出し、先程の教皇とのやり取りを苦い顔をしながら説明していた。
「婚約、ですか…………私が? ティレンス皇子と?」
「ああ、そんな話はあの場で初めて聞いたのだが……事実か?」
「いえ、全く心当たりがありませんね。なんでそんな話が……?」
「そうか、それならば良いのだが」
王女の返答に王はひとまず、安堵した。
やはり、あの女の口にしたことは根も葉もない話だった。
とはいえ、あの教皇がここまで強引に事を進めようとするのには引っかかるものがある。
なりふり構わず推し進めたい何かがある、ということか。
だが、すぐにバレるような嘘をつき、我が国との関係に亀裂を入れてまで手に入れたいものがあるとなると、それは穏やかでない兆しとなる。
「……あ、いえ、そういえば」
「まさか、心当たりがあるのか?」
「はい。そんなことがあったような気がします。思い出しました。私達が『婚約者』だというのは、あの人──ティレンス皇子がずっと流していたタチの悪いデマです」
「……デマ?」
あまり想定していなかった言葉に、王は首を傾げた。
「はい。留学期間中、皇子には取り巻きの女の子がたくさんいるというのに、私に随分と熱心に言い寄ってきたんですが……彼はその時にずっと『婚約』がどうこう言っていたので、きっとそのことだと思います」
「そうか」
王にとってはそれも初耳だった。
「もちろん、私は全く相手にしていなかったですし……ミスラの神学校を卒業するのと同時に殿下には「婚約は家同士の取決めで行うものですし、我が国にはそんな風習はなく、そもそも貴方に異性として全く興味がありません」としっかりとお伝えしたので、諦めてくれたものとばかり思っていたのですが」
「そ、そうか」
我が娘ながら、大国の皇子の求婚を随分と思い切り良く振り払ったものだ。
話を聞く限りでは、大まかな判断としては間違っていないが、多少恨まれていても不思議ではない。
ミスラに留学していた期間は一年足らず、当時は11歳程度だったことを考えるとまあ、どうにか笑って済まされる範囲のことではあるとは思うが。
「まあ、そんなことだろうとは思っていたが──ではどうだ、今回の誘いは。
嫌なら行かなくともいいのだぞ?
お前はまだ【王位継承権の試練】の途中だ。
それを口実に断るという手もある。
政治や外交上のことであればこちらでなんとかするから心配するな」
とはいえ、ミスラの神学校はミスラの保有する『結界技術』を学ぶだけでなく、社交や外交を学ぶ次世代のリーダーを集め育てる場となっている。
皇子の誕生日に合わせて各国から卒業生を招き、祝賀会を行うとなると、各国から国賓クラスが集っての大規模な社交の場となるだろう。
欠席すれば、王女の将来に傷がつく、というのもあながち間違いではない。
──あの女。
本当に痛いところを駆け引きに使ってきたものだ、と思う。
「皇子の成人式を兼ねた祝賀パーティと舞踏会、ですか」
「時期はおおよそ三ヶ月後だそうだ。何にせよ、早めに返事をしなければならないのだが」
王女は王の言葉を聞き、僅かに思案するとすぐに答えを出した。
「──わかりました、行きましょう。そんなに時間はありませんから、早速準備を始めたほうが良さそうですね」
あまりにも迷いのない返答に、王は少し戸惑った。
「そうか、だが今回……少し、心配になることが多くてな」
「──もしや、お父様はミスラ側に何か謀略の意図があると?」
渋い顔をして思案に沈む王の顔を、いつの間にか王女は覗き込んでいた。
「そこまでは言わんが……いや、ないこともない」
我が娘ながら勘が良い、と思う。
考えてもみれば、この子は突然強力な『結界』で縛られ、深淵の魔物【ミノタウロス】に殺されかけた当人なのだ。
状況を理解していて当然と言えるのかもしれない。
──彼女は先日の事件の暗殺の対象者。
その事実を思い出し、王は更に不安を覚えた。
「正直言って、今、お前をあの国に近づけたくない。皇国の襲撃を受けた後に亡命を許可した時とは事情が変わってきた。今回の招待もきな臭い匂いしかしない。こんなことは考えたくないが……行けば、悪くすれば命の危険が伴うかもしれない」
王は彼女に命の危険がある、とはっきりと告げた。
だが、王女はそんなことは当然とばかりに平然としていた。
「そうですか。でも、私の気持ちは変わりません。命が危険に晒されるのは常ですし、重要な社交の場をこなすのは私たち王族の務めでしょう? それに、顔を出さずにあの人にまた好き勝手なことを言われるのも嫌ですから」
「そうか、だが、な」
王は言い淀んだ。
今回は本当に違うのだ、と。
本当に嫌な予感しかしない。
幾つもの死線を潜り抜け、鍛えられた直感が全力で告げている。
今回だけは、本当に危険だ、と。
──ここで彼女に行くな、と命令するのは簡単だ。
だが、他人の意見に左右されずきちんと自分で見極めて動け、と常日頃から伝えている手前、この子の意志を蔑ろにするのもどうなのか、と迷いが出る。
「ご心配なさらず。きっと、大丈夫ですよ。私一人であれば少し不安ですが、別に、何人で行っても構わないのでしょう?」
「従者の人数か? ああ、もちろん構わない」
教皇には何人でも連れてきても良い、と言われている。
宿も食事も用意する、と。
「では、何も問題ありません」
「──いや、もう一つ、問題があるのだ」
「もう一つ?」
「教皇猊下はあの魔族の少年──ロロをパーティに『招待する』と言っている。それも、お前の『友人』としてな」
それを聞くと、王女はきょとんとした顔をした後、少し笑った。
「それも、何も問題ないでしょう? 私とロロは友人ですし、彼もきっと大変でしょうが……多分、喜ぶと思います」
「──念の為聞くが、ミスラ教国が魔族を『招く』ということの意味は、分かっているな?」
「はい、もちろん──でも、魔族が危険な存在でないということを皆さんに知ってもらう為には、むしろ、良い機会だと思います。それに偏見の少ない年少者同士の方が分かり合えるということもあるかもしれませんよ」
そうはいっても、そう簡単に行くものだろうか……と不安げな表情を浮かべる王の顔に、王女は苦笑した。
「そもそも、お父様が彼を受け入れると決断された時点で、こういう摩擦があるのは決まったようなものではないですか。今更です。私もお兄様も、もう、とっくに覚悟はしていますよ」
肩をすくめて苦笑する娘の姿に、王は自分の先日の決断を思いだした。
──そうだった。
これはそもそも、自分が始めたことなのだ。
自分はあの魔族の少年を受け容れると決めた。
あの男の願いによって、市民と同等と扱うと決めたのだ。
それに、あの少年はこの国にとっては掛け値のない恩人だ。
その恩に報いる必要があるし、それを仇で返そうなどとは思ってもいない。
だが、未だに迷いもある。
おそらく、その判断は王という立場にある者の判断としては確実に間違いだからだ。
十人を助ける為に、一人を犠牲にする──それが自分のような立場にいる者の義務であり、責務だ。
それなのにたった一人を守る為に、多くの軋轢を生むなど。
完全に愚か者のすることだ。
世界のどこにも味方の居ない、魔族の少年を見捨てる。
それが、おそらく為政者としての正解だ。
誰に恨まれても、そういう平穏を死守する義務が、自分のような立場にはつきまとう。
だが、自分はあの何でも成し遂げてしまうおかしな男に影響を受け、こうも思ってしまったのだ。
──たった一人の人間を守れなくて、何が一国の王だ、と。
そんな損得勘定を無視した、半ば子供のような声に突き動かされた結果にすぎない。
自分は今や、その我が儘を子供達にまで押し付けてしまっているのだ。
それでも、この子たちはそれを受け入れている。
先ほどまで、自分は娘を子供扱いしていたが……本当に子供なのは自分の方なのだと思い直す。
「すまないな、お前達に面倒ごとを押し付けるかたちになった。イネスを護衛に付けよう」
「はい、それと──もう一人、護衛についてきていただきたい方がいます」
「……それは、あの男のことか」
「はい、もちろんです! すぐにご本人に声をかけてきますね!」
そういうが早いか、王女は行き先も告げずに、嬉々として出て行った。
おそらく、あの男──ノールのところに向かったのだろう。
「まあ、彼が同行してくれるというならば、多少は安心ではあるのだが」
あの男は強い。
どんな危機をも乗り越えられるだろう、そんな風にも思う。
だが──それでも嫌な予感がする。
不安なら何人でも連れてくればいい、とあの女は言った。
「可愛い子には旅をさせろというが──今回は本当に、心配だな」