44 おいしい食事
──少年はずっと夢を見ている気分だった。
そうだ、これは夢に違いない。
自分はもう、黒死竜の爪に引き裂かれていて、これはきっと死んだ後に皆が見るという幻なんだ。
きっとそうだ。
だって、こんなこと現実にあるわけがないからだ。
自分が【厄災の魔竜】と対話し、自分を助けてくれた人と一国のお姫様達と一緒にその背中に乗り──空から皇都を訪れて、皇帝を倒し、そのまますんなりと帰ってくるなんて。
どう考えても作り話としか思えなかったし、その間に見た光景もとにかく現実離れしていた。
たった一人の人間が大軍勢の中に飛び込み、無数の剣を宙に舞わせて作り上げた銀色の波。
太陽のように眩しい光が天高く打ち上げられ、分裂して流星のように皇都に降りそそぐのも見た。
銀色の鎧を着た綺麗な女の人が目前に聳え立つ鉄の城を粘土細工のように切り裂いていたし、何より、自分が他の人と一緒に巨大なゴブリンと戦っていた。
──ありえない。
これが、夢でなくてなんなのだろう。
絶対に自分の身には起こりえない、素晴らしい出来事の数々。
こんなこと、想像すらしたことがない。
やっぱり、夢だ。
夢に違いない。
でも、少年はそれでも満足だった。
たとえそれが嘘だとわかっていても、少年にとってそれは素晴らしいことだった。
──きっと、あの時から自分は夢を見続けていたのだ。
あの時、あの人が黒い剣で竜の爪を弾いたところから。
そこからずっと自分は甘い夢を見ていたのだと思った。
自分は痛みもないほど瞬時に黒死竜の爪に引き裂かれて死んだことで、こんなに素晴らしい夢を見ることができたのだ。
──こんな幸せな夢を見せてくれてありがとう。
少年は誰にともなく感謝した。
だから、目の前に立つ綺麗な女性にこんなことを言われても、あまり不思議には思わなかった。
「これからしばらくの間、私と君は一緒に暮らすことになった。
よろしくな、ロロ」
大きな屋敷に連れてこられ、着替えをもらい、白いテーブルの上に様々な料理の盛られた皿が置かれた時も、ぼんやりとその光景を眺めていた。
「何をしている? せっかく用意してもらったのに早く食べないと冷めてしまうぞ」
少年は不意に声をかけられ、ビクリと肩をふるわせた。
「……えっ、これ……食べられるの……?」
少年から見て正面の席に着いた女性はとても不思議そうな顔をした。
「食べられるもなにも、これが夕飯だぞ──?
もしかして、食べられないものがあるのか?
ダメなら他のものを用意してもらおうか?」
少年は慌てて首を横に振った。
正直、目の前に並べられたものが食べられるかどうかはわからない。
食べたことはないから。
でも、これは夢だ。
食べられないことはないと思う──とはいえ、夢だとわかっていても気後れする。
いくら夢だからと言っても……こんなに幸せな夢があってもいいのだろうか。
「……ほ、本当にいいの……? これが、ご飯──!?」
ご飯と聞いて少年の記憶に蘇るのは、小さくて黒い、カビの生えたパンだった。
石のように硬く、必ずカビと泥の匂いがした。
それをゆっくりと味わいながら、鉄格子の中で一日を過ごしていた。
それで死なないには十分。
食べ物を与えられるだけでも十分、有り難いと思いなさい──物心ついてから、ずっとそう教わり、同じものを与えられてきた。
なのに──目の前の皿には色とりどりの、知らない何かが盛られている。
これが、ご飯?
それも目の前の皿に盛られたスープらしきものには──
「……まさか……肉が、入っている──?」
こんな贅沢なものは今まで食べたことがない。
少年は驚きつつも納得した。
ああ、そうだった。
これは夢だった。
夢なら、これぐらいあってもおかしくない。
そう思いながら少年は少し安堵した。
そうだ。
夢なら食べても大丈夫。
夢だったらきっと、『人間』と同じものを食べたって酷く殴られたりはしないだろうから。
──でも、なんの味もしなかったらどうしよう。
自分の夢だとはわかっていても、夢だと実感するのは惜しかった。
食べ物を口に入れた途端、この素敵な夢が終わってしまうのではないかと心配した。
「──どうした、食べないのか?」
しばらく、少年が躊躇していると腹が鳴った。
──おかしい。
夢なのに、お腹が空くなんて。
「ほら、遠慮はいらないぞ。何を食べても誰も怒ったりしない。好きなだけ食べてくれ」
そう言って、目の前の女性は白いパンを少年に差し出した。
少年は唾を飲み込み、覚悟を決めた。
「……じゃあ……いた、だき…………ます……!」
少年は差し出されたパンに、恐る恐る手を伸ばす。
そして、それに指先が触れた瞬間に大きな違和感を感じた。
──やわら、かい。
それは少年が知っているパンの触感と全く違うものだった。
その表面は滑らかで信じられないほどに柔らかく、まるで真綿のように少年の指を受け入れた。
これは、いったい──
少年は戸惑いながら柔らかいパンの端を千切り、その欠片を口に運ぶ。
──甘い。
口の中にふわりと広がる不思議な香り。
甘いだけではない。
それは今まで少年が体験したことのない感覚だった。
これは──
「……おい……しい……?」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
きっと、これが「おいしい」ということなんだろうと少年は想像した。
それが正しいかどうかはわからない。
でも、そうとしか考えられなかった。
今まで味わったことのない、幸せな感覚。
自分の経験には決してない種類の喜び。
こんなもの、今まで食べたことがない。
想像すらしたことがないのに。
──これは、夢のはずなのに。
なんで、こんな風に感じることが出来るんだろう。
そうして、少年は今自分の身に起きていることを理解した。
「……どうした?」
突然、少年の目から涙が溢れ出てきた。
ようやく、わかった。
わかってしまったのだ。
──これが、夢ではないということが。
これは、現実に起こっていることだ。
自分はまだ死んでなんかいない。
あの竜に殺されてなんかいない。
──そうだ。
だって、あの人が来てくれたから。
あの時、助けてもらったから。
自分は今、生きているのだ。
生きてこうして『おいしい物』を食べている。
でも、どうして……?
「いいの……本当に、いいの……? こんなものを、もらって」
「大袈裟だな、パンぐらいで」
少年の反応に、目の前の女性は苦笑した。
「好きなだけ食べるといい。まだいくらでもある」
「……うん……」
少年は大粒の涙を流しながら、黙々と目の前に並べられた料理を食べ始めた。
嗚咽を漏らしつつ口に食べ物を運びながら、思った。
──わからない。
何で、自分はこんな状況に置かれているのだろう。
少年には分からないことだらけだった。
これは現実のはずなのに。
なんで、周りの人はこんなに自分に優しいのだろう。
でも、一つだけ確かなことがある。
あの人が、黒死龍の爪から自分を守ってくれたから。
あの人が、自分に家を与えてくれと言ったから。
──あの人のおかげで今、自分は生きている。
自分はあの時、心の底から思っていたのに。
黒死竜の爪が振り下ろされる瞬間、思った。
──ああ、ここで死ねて本当によかった、と。
世界に害を与えるだけの存在の『自分』が消えることを、心から喜ばしく思っていた。
だから、せめて──と、全てを諦めて祈ったのだ。
もし死んで、生まれ変わることが出来るなら──次の生では、あまりひどく殴られたりしませんように、と。
そして、少しぐらいは誰かの役に立てますように、と。
そしてもし願いが叶うなら、できれば美味しいご飯というのも、一度ぐらいでいいから食べられますように──と。
その願いのうちの一つが、もう叶ってしまった。
死んで生まれ変わることもなく。
たった今、願ったその日に叶えられてしまった。
──あの人が、救ってくれたから。
『……ボクでも……誰かの役に立てるのかなぁ……?』
黒死竜が破裂して、その人物と向き合ったとき──
少年は思わず自分の願いを口にしていた。
──忌み嫌われる存在の自分でも、何かをしたい。
誰かの役に立ってみたい。
それが少年のささやかな夢だった。
でも、誰にも言ったことはない。
それを口にすれば、きっと殴られるから。
「魔族如きが」と、否定されるだけ。
必ず蹴り飛ばされて嘲笑される。
──自分が『誰かの役に立つ』?
そんなわけがないだろう。
だって自分は『魔族』なのだから。
産まれながらにして呪われた生き物。
不吉な力を宿す子供。
あらゆるものから憎まれるために生まれてきたような存在──
それが自分だからだ。
ずっとそう思って生きてきた。
分かっていた筈なのに、何故言ってしまったんだろう。
言ったあと、後悔した。
きっと、この人にも殴られる。
少年は思わず身を縮め、目の前の人物から拳が振るわれるのを待った。
でも、いつまでたっても拳は降ってこなかった。
代わりに返ってきたのは意外な言葉だった。
『当たり前だろう、それだけのすごい才能があるのだから』
その人物は少年の夢を否定しなかった。
そればかりか、自分の呪われた力を『才能』とまで呼んだ。
──嘘だ。
そんなわけがない。
きっと、この人は嘘をついている。
咄嗟にそんな風に思った。
今まで自分に綺麗な言葉を吐く人は皆、そうだったから。
実際の中身は嫌悪にまみれ、自分の力を利用したいと願う人たち。
同じだと思った。
だから、思わず『心』を読んでしまった。
──その瞬間、しまったと思った。
例え嘘だと分かりきっていても、自分にこんなに素敵な言葉をくれる人は今までいなかったのに。
この人のくれた言葉──出来れば自分はこれを信じていたい。
だから、心の中なんてのぞく必要はなかったのだ。
この素晴らしい幻想が、嘘だと分かってしまうだけなのだから。
──あの言葉を嘘にしたくない。
そう願ったが、遅かった。
気が付いた時には少年は男の心の中を読み取っていた。
でも、少年が見たものは予想とは違うものだった。
精神の奥深くを見通す目に映ったのは、一片の曇りもない透き通った心。
どういうわけか、この人物はまっさらに自分を信じきっている。
──どうして?
そして、自身の発した言葉を微塵も疑っていなかった。
それは今まで見たことがないぐらいに眩しい『信頼』の色だった。
この人物が口にしたのは、嘘ではない。
心の底から出た真実の言葉だった。
その上、自分が『魔族』と分かって尚、少年に欠片も嫌悪感を持っていないことも分かった。
なんで──?
一片の揺るぎのない信頼──そんなものを受け取ったのも、少年にとっては初めてだった。
だから躊躇いながらも──再び、言ってしまった。
誰にも言ってはいけないと思っていたことを。
『……ボクでも、誰かに必要とされることなんてあるのかな……?』
言葉が出ると同時に目から涙が溢れた。
しばらく、涙が止まることなく流れ続ける間、男は少年を静かに見守っていた。
そうしてやっと涙が枯れ果てた頃──
その人は自分を殴ることもなく、馬鹿にするでもなく──心の底から出た言葉で、こう言ったのだ。
『ああ、当然だ。俺なんかより、ずっと──お前が望めば、幾らでもな』
その時、生まれてはじめて信頼出来る言葉を貰った気がした。
でも、少年はその言葉をとても信じられなかった。
今となっては尚更信じられない。
──『俺なんかより、ずっと』?
そんなことがあるわけがない。
黒死竜の爪を片手剣で軽々と払いのけ、たった一人で街を丸ごと壊すような竜と戦い、万の兵の中に突っ込んで何事もなかったかのように帰ってきた。
そんな人よりも? ありえない。
でも──。
その人は確かにそう言ったのだ。
その人は、自身の発したその言葉を微塵も疑わず心の底から信じていた。
それなら、と少年は思う。
あの人のことを──あの人の言った言葉を。
自分だって、信じてもいいのかもしれない。
だって、自分なんかよりずっとすごい人がそう信じ切っているのだから。
少年は自分が受け取った言葉を信じることができなかった。
──でも、その言葉を嘘にしたくない。
心の底から、そう思った。
今、少年の心には小さな火が灯っていた。
それまでの少年の心には決してなかったもの──
今はまだ朧げで頼りなくとも、最早、決して消えることのない何かが芽生えかけていた。
──『お前が望めば、幾らでも』、と。
あの人はそう言った。
だからきっと、望んでもいいんだ。
そうすれば、自分だっていつか誰かに必要とされる存在に──
決して叶わないと思っていた存在に、なれるかもしれない。
──だったら。
こんな自分でも、何かを望んでいいのなら。
望みを叶える、その為だったら。
これからはなんだってやってやる。
もし、望むものをすぐに手に入れられなくたって──それが出来るようになるまで、何だってやってやる。
一度、自分は死んで、生まれ変わったようなものなのだから。
今度こそ誰かの役に立ち、必要とされる存在になるんだ。
──きっと、なれるから。
あの人がそうなれると、信じてくれたから。
『魔族』であっても、必ず誰かの役に立てるんだと言ってくれたから。
それを望んでもいいんだと教えてくれたから──。
──絶対にそうなるんだ。
あの人がくれた信頼を嘘にしない為に。
「ロロ……そんなに急いで食べなくても、誰にも取られないぞ?
ここには私と君の二人しかいない。ゆっくり食べるといい」
「……うん……」
苦笑する目の前の女性の前で、涙を流しながら次々に目の前の食べ物を口に放り込み、いろんなものに感謝しながら──
魔族の少年ロロはその日、生まれてはじめて心に『意志』の光を灯したのだった。