32 竜との対話
「────死ぬかと、思った」
本当に、死ぬかと思った。
ここに吹き飛ばされてくる時、リーンの魔法のあまりの威力に俺は一瞬気を失った。
そして、気がついた時には眼前に地面があった。
その上で、自分の身体が空中を水平に飛んでいるという状況の意味を、俺は即座に理解した。
(────このまま墜落したら、俺は死ぬ)
いや、死ぬほどではないかもしれないが、少なくともただでは済まないだろう。
俺は必死に地面を蹴るようにして数歩、そのままの勢いで走り、なんとか墜落を免れた。
だが、ホッとするのも束の間────今度はとてつもない勢いで顔の前に王都の城壁が迫ってきた。
危うく城壁にぶつかりそうになりながらも、俺は咄嗟に両足で思い切り地面を踏み込み────本当に死ぬ気で跳躍した。
すると次の瞬間には城壁を乗り越え、なんとか、助かった、と、思った矢先。
目の前に、あの竜の頭が現れた。さっきまで、あんなに遠くに見えたのに。もう、目前にいた。
あの鱗は堅そうだ。ぶつかったら、城壁よりもかなりまずいことになるだろう。
そう思った俺は無我夢中で『黒い剣』を振った。
そうして、なんとか俺の身体は竜の頭に激突することなく勢いを殺し、衝突事故を免れ、俺はクッションの役目を果たしてくれた竜と一緒に地上へと落ちていったのだが。
────でも。それからが、大変だった。
気がつけば、俺は暴風の中に瓦礫の舞う地上で、竜と向き合う格好になっていた。
(────いったい、どういう状況だ、これは)
俺はとにかく困惑した。
そこまでが一瞬の出来事すぎて、何が起こっているのか正直よくわからなかったが……それよりも、改めて目の前にいる巨大な生物を眺め、自分がなんでこんなところにいるのかがわからなくなった。
────そう、あれは『竜』だ。
俺ですら知っている、御伽噺や伝説には必ずと言っていいほど出てくる超常の怪物。
見るのは初めてだが……本当に、でかい。
目の前にいるのはおとぎ話に出てくるような、伝説の存在。
想像していたよりもずっと凶暴そうで、遠くで見たときよりもずっとずっと大きい。
天を衝くような巨体が、俺を潰そうと爪を振り上げるのが見える。
だが、そんな巨大な生き物の動きを俺は奇妙な気分で眺めていた。
人と竜。それは想像以上に絶望的な体格差だった。
そんなものと向き合った時点で、俺はもっと恐怖を感じなければおかしいはずだったのだが。
不思議と、目の前の竜がそこまで怖いとは感じられなかった。
ここまでとんでもない速さで吹き飛ばされ、何度も何度も死を感じ、俺は、何かが麻痺してしまったのだろうか。
竜の動きが、とてつもなくゆっくりに感じる。
あの竜は確かに大きいが、大きいだけあって次に何をしようとしているのか、はっきりとわかる。
それなら────まともに戦うことは無理でも、避けるぐらいならできるかもしれない。
少し眩暈を覚えながらも、俺は落ち着いて『黒い剣』を構え、頭の上に落ちてくる竜の爪を思い切り叩いた。
「パリイ」
すると竜の巨大な爪は、俺に直撃することなく、すぐ脇に落ち、そのまま地面を砕きながら沈んでいった。
────案外、簡単に受け流せた。勿論、とてつもなく重い。
暴れ牛やゴブリンとは比べ物にならないほどに強烈だ。
でも、想像していた程の重さはないと感じた。
衝撃の強さで言えば、俺をここまで吹き飛ばしたリーンの一撃の方が格段に強烈だった。
あれは本当に死を間近に感じたが……それをまともに喰らっても、俺はこうしてちゃんと生きているのだ。
────ならば、この竜の爪ぐらいなら、さほど恐れることはないのかもしれない。
そんな風に思い、そこから俺は【ローヒール】で身体を癒しながら、とにかく死なない事だけを考え、必死に襲い来る攻撃を受け流した。
最小限の動きで相手の攻撃を躱しながら弾き、たまに飛んでくる瓦礫や岩の破片を避ける。
そんなことの繰り返しだが、竜の攻撃方法はそんなに種類がなく、慣れてしまえばそこまでの苦労はなかった。
……たまにくる、あの巨大な尻尾の一撃は本当に怖かったが。
それと、竜は口から強烈な『光』を吐き出すが、それもどういうわけか俺の持っている『黒い剣』で弾くことができた。
前々から不思議に思っていたが、いくら硬いものに当てても新しく傷がつくような気配はないし、本当になんなんだろう、この剣は。
「────グゥァ……」
多少余裕が出てきて、俺がそんな考え事をしながら剣を振っていた時だった。
突然、目の前の竜が攻撃をやめて大人しくなった。
体力も限界に来ていたので、俺は安堵し、助かった、と。まず、そう思った。
だが、目の前で蹲る竜を見つめ、不思議に思った。
一体、何が起きた……?
この竜の姿勢。
寝ているようにも見えるが、目は開いてこちらをしっかりと見つめている。
まるで、自分を生かすも殺すも好きにしろと言わんばかりの無防備な体勢だった。
俺は戸惑いながらも、思った。
これはもしかすると、千載一遇のチャンスなのではないか、と。
目の前に、唐突に差し出された竜の首。
俺が幼い頃に親しんだ冒険譚の英雄は対峙した『邪竜』の首を切り落として勝利し、『竜殺し』と讃えられる存在になったと言う。
そして討伐された竜の鱗、爪、そして牙や骨、あらゆる部位が良質な武器防具の素材となり、その地に大いなる潤いをもたらしたと。
父はよく、幼かった俺にそんな英雄の物語を話してくれた。
俺もそんな風に、竜討伐の物語の主人公のようになりたいと何度思ったことか。
今、もし俺がこの竜を討つことが出来れば、俺はきっと憧れていた英雄譚の英雄にだってなれるのかもしれない。
だが────
「……俺は英雄にはなれそうもない、な」
俺は大人しくなった竜を見つめ、首を振った。
この竜は間違いなく『悪竜』だ。
今だって、数え切れないほどの王都の家々を壊し、もしかしたら人だって沢山殺しているかもしれない。
だが、今この竜は殺してくれと言わんばかりに、首を俺に差し出している。
抵抗の意思は全くない。
それどころか、なんだか、目を合わせると俺に懐いているようにさえ思えてきてしまう。
……そう考えだすともう、駄目だった。
この竜を殺すのが、可哀想に思えてきてしまう。
「こいつを殺すのは────俺には、無理だ」
俺は諦めて、剣を握る手の力を緩める。
別に食べる為の獲物や、畑を荒らす害獣、襲ってきた動物を殺すのは苦にならないのだが。
こんな風に従順な素振りを見せている動物を殺すのは、やはり苦手だ。
先ほどまで荒れ狂っていた竜ならばともかくとして。
……それにしても。一体、何故こんなに急に変わったのだろう。
あれ程狂ったように攻撃を繰り出していた竜が、いきなり大人しくなった。
まるで、何かに命令でもされたかのように、唐突に
ふと、背後に人の気配を感じた俺は振り返り、やっと状況を理解した。
「なるほど、そういうことか」
そこにはリーンとイネス、そして魔物を操る不思議な力を持つ『ま族』の少年、ロロの姿があった。
「────先生! ご無事でしたか。お怪我は……!?」
「ああ、なんともないぞ。かすり傷程度はあったが、もう治ったしな」
「…………えっ? ……治った?」
リーンの魔法の衝撃で多少骨にヒビが入った気がするが、戦っている間に、治った。
不思議そうな顔で俺を見ているリーンだったが、それはさておき、俺はとりあえずロロに感謝の言葉を伝えた。
「────ロロ。本当に助かった。おかげで命拾いした」
「…………えっ?」
今度はロロが心底不思議そうな顔をした。
「いや……ロロじゃないのか? この竜を大人しくさせたのは」
「……ち、違うよ……こんなの、ボクじゃないよ……?」
ロロは驚いた表情を浮かべ、首を横に激しく振りながら必死に否定した。
「何? 違うのか? ……本当に?」
尋ねると、ロロは今度は頭を身体ごとブンブンと縦に振った。
……違うのか?
いや、きっとそうではないのだろう。
この子は先ほど、「自分の力を恐れる人間もいる」と言って怯えていた。
だから、これほど巨大な竜を操ったということは、他人に知られたくないのだろう。
もしかしたら俺たちに怖がられるとでも思っているのかもしれない。
だが、そんなもの、ずっと隠し通せるものではない。
何よりこんな素晴らしい才能を自ら埋もれさせ、ましてや、卑下するようなことがあって良いはずがない。
本人はどうしても認めたくないらしいが、正直勿体無いと思う。
「まあ、いいか。それはそれとして、ロロ。頼みがあるのだが」
「……頼み?」
「あの竜、元の住処に帰せるか?」
「元の住処に……?」
あの竜は、きっとここに留まっていれば誰かに討たれるだろう。
きっと害獣の類だろうし、その方がいいのかもしれない。
でも……できれば、その前に逃がしてやりたい。
これはまずいことだと思いつつ、妙な情が湧いてしまった。
「とんでもないことを言っているのは分かっているが……出来れば俺はこの竜を殺したくない。……頼めるか? 無理にとは言わないが」
「……対話して、お願いするぐらいならできるかもしれない────話を聞いてくれるかどうか、分からないけど」
そう言って、ロロは地面に首を横たえる竜の元へと進み出た。
どうにか、やってくれるらしい。
なんとなく自信のないフリをしながら。
別に、そんな演技もいらないというのに。
だが、考えてもみれば、むしろ、彼は立派なのだろう。
ロロは、あれだけの優れた才能を持ちながら、決して誇ろうとしない。
この歳で、そこまで謙虚に生きられるとは、本当にすごいものだ。
あの年頃の少年であれば、もう少し増長してもいいぐらいなのに、持てる能力を笠に着ようとはしないのだ。
とはいえ、彼の場合はもっと堂々としていても良さそうなものなのだが。
「じゃあ、いくよ」
竜に近づいて目を閉じ────ロロが何やら無言の『対話』を始めると、竜が低く唸った。
「えっ?」
ロロが突然、小さな叫び声を上げ、俺の顔を見た。
「どうした?」
「わ……『我が主』の命令なら、何でも聞くって。……『我が主』……って?」
「す、凄いな、それは」
それには俺も少したじろいだ。まさか彼の力がそこまでとは。
いきなりこの巨大な竜にそんなに崇められるとは、末恐ろしい人物もいたものだ。
「ではその竜に大人しく棲家に帰って貰えるように伝えて貰えるか、ロロ?」
「……う、うん……」
ロロが竜に向き合い、一瞬、眼を閉じる。
あれで何かを伝えているらしい。
すると竜は低く唸り、直後、巨大な身体を持ち上げた。
そうして、そのまま竜は嵐のような風を巻き上げ空へと飛び立った。
「……凄い」
「本当に、こんなことが──!?」
リーンとイネスは飛び去る竜を茫然と眺めている。
そして、ロロも。
「行ったな」
「……う、うん……」
俺達はしばらく無言で遠ざかる竜を見つめていた。
これで大きな危機は去った。
そう思い、少し安堵しながら。
だが突然、視界に強烈な赤紫色の閃光が走り、一瞬で空が真っ赤に染まり────
「────何だ────?」
俺たちが見守る中、東の空へ飛び去ろうとしていた竜は、突如空に走った赤い『光』に呑み込まれ────全身を焼かれて頭から地面へと落下し、大地へと沈んでいった。
ここは改稿するやも。
時間が足りない……。