30 俺は竜をパリイする
竜は落ちながら困惑していた。
──何故、自分は空から落ちている?
──何故、地面に向かって落下しているのだ?
自分は確かに、あの小賢しい小さき者共に向かって『光』を放ってやろうとしていた。
そして『光』は放たれた。
そう思っていたのに。
いや、そうに違いない。
何故なら、全てを滅ぼす自慢の『光』──それはちゃんと目の前で輝いている。
──ならば、何故?
自分は小さき者共に喰らわせるつもりで、まっすぐに『光』を放ったつもりなのに。
何故、それが空にある──?
そして、何故自分はそれを眺めながら、落ちている──?
竜は疑問に思った。
落ちながら、水晶よりも硬い鱗で覆われた背中で石造りの構造物を次々に押し潰し、轟音を立て大地を破り、地面に体を沈めても──竜はまだ理解できなかった。
──いったい、何が起こった?
訝しく思った。
これはおかしい。
これではまるで──自分が何かに弾き飛ばされたようではないか、と。
天高く舞う瓦礫と土埃の中、不思議に思いながら身を起こそうとした時、竜はふと、あるモノの姿を目にした。
黒い針のようなものを手にした、小さき者。
それは自分が光を放とうとした直前、目にしたモノだった。
それは暴風が吹き荒れる地に静かに立ち、竜の姿をじっと見つめていた。
──ああ、これか。
これのせいか。
これが、自分をこんなにした、原因。
自慢の鱗に土埃を被せた、許し難き存在。
──そうか、こいつがやったのか。
それを理解した瞬間、竜は激怒した。
身体には一切の痛みも傷もない。
だが、どうにも赦せなかった。
この小さき者がどうやったのかは知らない。
どんな小細工をしたのかは分からない。
だが──こいつが何かをしたのだ。
そのせいで自分の成そうとしたことが邪魔されたのだ。
竜はそう確信した。
──絶対に赦せない。
怒りを込めた竜の唸りは大地と共鳴し、空を揺らした。
その怒りに特別な理由はなかった。
邪魔な物はなんであろうと叩き潰す。
抗う者は切り裂き、容赦無く噛み砕く。
それが竜の身体の奥に刻まれた本能のようなものだった。
竜がその気になれば、小さき者共の身体など微塵も残らない。
それが絶対の結果であり、数千年に渡るその竜の経験の全てだった。
だから、小さき者の体躯の数倍はあろうかという自慢の爪を、竜は目の前の不快な生き物に迷い無く振り下ろした。
だが──
「パリイ」
竜は最初何が起きているかが分からなかった。
竜の爪は確かに振り下ろされた。
数々の山々を引き裂き、小さき者共のくだらない根城を幾つも叩き潰し、気に入らない同族をも切り裂いた自慢の爪を、加減することなく力一杯に叩きつけた。
轟音と共に大地が割れ、沈み込む。
そして、小さき者を難無く押し潰し一つの染みに変える。
──その筈だった。
だが、どういうわけか、その小さき存在は自分の爪で潰されない。
それどころか、受け流しているように思えた。
──そんな事は絶対に有り得ない。
そう考えながら、竜はさらに巨大な質量を誇る、長大な尾による尾撃を喰らわせようと身を翻した。
竜はこれで、どんなに硬い鱗を持った同族と言えど、叩き伏せ粉々にしてきた。
あの小賢しい小さき者共など一溜まりもない──
そう思って身体を大きく廻し、渾身の力を込めて尾を回転させる。
その過程で、小さき者供の作り上げた数百の棲家が、幾つもの石積みの壁が、粉塵を上げながら次々に潰れて壊れていく。
竜はその小気味良い音を聞きながら、鉄よりも遥かに硬い鱗に覆われた自慢の尾を、目障りな小さき者に叩きつけようと力の限り振るった。
今度こそ、ひとたまりもないだろう──と、愉悦の感情で心を満たしながら。
だが──
「パリイ」
直後、竜は身体に違和を感じ──
気づけば、地面に転がり仰向けになっていた。
何事かと思って見上げれば、空高く舞う自らの長い尾が見えた。
「────?────」
何が起きたのか、竜にはわからなかった。
そして──
自慢の尾によって潰され、跡形も無くなっているはずの小さき者は、その場から動かぬまま。
ただ、片手に持った黒いもの──いつも小さき者共が好んで手にしている、あの無意味な小さな針のようなもの──それを手に持ち、何事もなかったかのように静かに立っていた。
──なんだ、これは──?
一体、どういうことだ?
竜は不思議に思った。
これではまるで──あの小さき者が、自分の尾を打ち払ったかのようではないか。
──いや、違う。
そんな事があるはずが無い。
今のは何かの間違いであるに違いない。
──そうだ。
最初から『あれ』をすればよかったのだ。
自分の最も自慢の破壊手段の『光』──『ブレス』を放つのだ。
そう思った竜は顎を開き、数百年間の眠りの中で蓄えた膨大な魔力を、急激に喉に集中させる。
すると、周囲の空間がひしゃげたように歪む。
喉の奥で魔力が高まり、とても熱くなるのを感じる。
──表情筋のない竜は心の中で嗤う。
そうだ、これだ。
これならば、間違いようもない。
絶対に間違いなど起こらない。
起こるはずもない──
何故なら、こうする事で消滅しなかった生き物など、今までいなかったのだから。
竜は数千年の記憶を呼び覚まし、自らの正しさを確認した。
そして結論した。
これで、あの小さき者は終わりだ。
これこそが、全ての生物の頂点たる竜に抗った愚か者の末路──竜はそう信じて疑わなかった。
すぐに、竜の喉の奥に極大の魔力が収束し──臨界に達する。
そうして──
数々の小さき者の国を跡形もなく滅ぼし、
数多の山々を崩し、大地の形を変え、
数千年に渡り様々な気に入らない敵を焼き払った竜の自慢の『光』が──
──たった一つの「小さきモノ」の為に放たれる。
一瞬で辺りが白く染まり、それに触れた者に確実な破滅を約束する一本の魔力線が竜の口から放たれ──目障りな小さき者へ、まっすぐに伸びた。
さあ、これで何が起ころうとも、終わりだ──竜は確信と共に、眼を細めた。
だが──
「パリイ」
竜が渾身の力を込めて放った自慢の『光』は──あっけなく上方へと弾かれ、空の彼方へと伸び──何処か遠くに無意味な窪みを作っただけらしかった。
──何故だ。
何故、こんなことが起きる。
──訝しく思いつつも、竜はついに理解した。
やはり、間違いない。
こいつだ──
こいつが、空中で放とうとした『ブレス』を邪魔し、
こいつのせいで自分は破壊と蹂躙の欲望を満たせなかったのだ。
竜はついに認めた。
これは──この小さき者は『敵』なのだと。
自分を邪魔する、邪魔することのできる、
それだけの力を持った不快な存在なのだと。
──小さきモノの分際で。
竜である自分の『敵』となり、自らの前に立っているのだと。
それを知り、竜は更に怒り狂った。
そんなことはとても赦せない話だった。
──もう、どうなっても知らない。
完全に消滅させてやる。
何度も何度も、蹂躙してやる。
身体の欠片、肉片、骨片すら、存在を許さない。
──完膚なきまでの消滅。
それが竜に楯突いたものの末路であり、必到の結果。
例外は存在しない。
この小さき者もそうなる。
そうする。
──そうせずにはいられない。
「グゥアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
竜の破壊と蹂躙の本能が目覚める。
そこから、竜はその目障りな存在を叩き潰す為に、あらゆる攻撃に己の全ての力を乗せ、全力で繰り出した。
もはや自らの身体が傷つくことも厭わない。
ただ、目の前の不快な小さき者が散り、消滅さえすればいい。
一撃を繰り出す度、地面が抉れ、大地は大きく揺らぎ、目に付く範囲の全ての小さき者の構築物は叩き壊された。
竜の本能の命じるまま、見るモノ全てを破壊する。
こうなれば、後は身を任せるだけ。
気がついた時には全てが終わっている。
辺りは全て、風通しの良い瓦礫の平原となっている。
そうして、全てを壊し気分が良くなった後にまた寝床へと戻り──ゆっくりと眠るのだ。何百年でも、たっぷりと。
今回もまた、そうなる──そうに違いない。
竜は考えるまでもなく確信し、再び、愉悦の感情を心に滲ませた。
だが──
小さき者への攻撃を何度も続けるうちに、次第に怒りと愉悦は別のものへと変質していった。
疑問。疑念。
そして──戸惑い。
竜は目の前で小さな黒い針を構える小さき者を眺めながら、思った。
何故、この小さき者はまだ生きている──?
今、自分は全力で攻撃を叩き込んでいる筈ではなかったか。
何故、死んでいない?
何故、動いている?
そして──
何故、自分の爪が、鱗が、こんなにも傷ついている?
決して傷つかぬ筈の──鉄よりも水晶よりも硬く、金剛石ですら傷つけることは難しい、竜の自慢の爪と鱗が。
まるで、木片か何かのように脆く傷ついている。
今まで、一度もこんなことはなかった。
そして、竜は更にもう一つの事に気がついた。
この小さき者は自分に対して──『殺意』を全く抱いていない。
ただの一度も、攻撃する素振りすら見せない。
──まるで、竜を敵とすら認めていないかのように。
竜が、この竜が、この小さき者をちゃんと『敵』だと認めているというのに。
このような状況は覚えがある。
敵意を持って向かい来る邪魔な者たちを、竜はいつも、取るに足らないモノとして、あしらった。
奴らの敵意など、そして「攻撃」など、竜にとって、なんの痛痒にもならない。
好きなだけやらせておけばいい──適当な時、気が向いた時、叩き潰すだけ。
何故なら、あれらは弱者であるから。
あれらは『敵』ですらないのだ。
そう思って、竜は敵意すら持たなかった──
──だが、今の状況は。
今、自分が爪を振るっている状況は。
これではまるで──
この状況はまるで──
『弱者』が、『強者』に向かって爪を振るっているようではないか。
竜は激昂した。
そんなことは、認められない。
弱者に、そのような傲慢は許さない。
傲慢が許されるのは自分、強者のみである。
体の奥の深い部分に刻まれた、竜の誇り。
絶対者の本能。
それに従い、竜は金剛石をも噛み砕く、何よりも硬い自慢の牙で襲いかかった。
だが、小さき者は竜の咬撃を静かに待ち受け──そして。
その手に持った黒い針のようなものを握りしめ──
「パリイ」
竜は剥き出しの牙を叩かれ、頸を曲げられ──再び、無様に地面へと転がされた。
「────?────」
竜はそのままの勢いで大地を砕き、地面に沈み込みながら──今起きたことを反芻した。
怒りはもう、通り過ぎた。
次に沸き起こったのは疑問。
そして──すぐに確信に至った。
竜は気がついた。
気づかざるを得なかった。
────この世は強者が支配する────
『強者』は、『弱者』を支配し──
『弱者』は、『強者』に服従しなければならない。
それが竜の原理であり、本能。
竜の生きる唯一の論理。
だから、竜は竜であるが故に──本能のままに認めるしかなかった。
今、その『弱者』は自分であるということに。
今、自分は敗者であり──服従を強いられる側だということを。
そうして理解すると──竜は本能の命じるまま──
本能が教える、敗者が取るべき行動をとった。
即ち、頸と腹を地面に寝かせ、頭を地面に擦り付け、目を閉じる──
目の前に立つ小さき者に対し──首を差し出すようにして、蹲る。
──竜はその時、生まれて初めての『服従』の姿勢をとったのだった。