28 王都への帰路
私たちは馬車を走らせ、王都に向かっていた。
ここまで、馬に無理をさせる事を承知で全速力を維持して来た。
その甲斐あって、ミスラに向かった時の半分以下の時間で、私たちは王都の城壁と中央に聳える王城の尖塔が見える距離まで戻って来ていた。
だが、朝に私たちが出発した時とは打って変わり、王都の空は暗く靄に覆われていた。
「──まさか、ここまでとは──!」
馬車の手綱を操るイネスは、王都の空を強張った表情で睨みつけていた。
あちこちで立ち上る黒煙──
風に乗って流れてくる何かの焼ける臭い。
立ち上る煙は、一箇所や二箇所ではなく、
あの広い王都の街の端から端まで、数にして、およそ数十箇所──
まるで、王都の全てが戦火に包まれているようだった。
兄が自分を王都から遠ざけようとした理由はよくわかった。
でも、こんな時に自分たちだけ逃げることをよしとしていたとは──
今更ながら、自分の思慮の浅さが恥ずかしくなる。
「ん? なんだ、あれは──?」
その時、ノール先生が何かを見つけたように呟いた。
「どうか、したのですか……?」
先生は静かに空を見上げていた。
それも、殆ど真上と言ってもいいほどに視線を高く保っている。
「あそこから何か、来るような気がする」
「上、ですか──?」
目をじっと凝らしてみるが、私には何も見えない。
先生は遥か上空、王都の真上の空を指差した。
「ほら、あそこだ。見えないか?」
「いえ、何も──ッ──!?」
先生が指差した方向をじっと見つめていると、私の目にもだんだん、王都の薄暗い空から、確かに『何か』が降りてきたのが見えた。
それはほんの僅かな違和感としか言いようのない、微細な揺らぎ。
でも、あの揺らぎは、あまりにも大きい。
王都の空を殆ど覆ってしまうような──、
とても、一つの生物のサイズとは思えない。
次に声をあげたのは、イネスだった。
同時に、その場の全員が息を呑んだ。
「あ、あれは──ッ!?」
私たち全員が空を呆然と見上げる中『それ』は姿を現した。
おそらく、誰かが【隠蔽除去】を使ったのだろう。
それは透明な膜を剥がされるように、ゆっくりと姿を見せ──。
「……えっ……!?」
そのあまりに巨大な姿に私は言葉を失った。
私は今まで、あそこまで大きな生物を見たことがなかったからだ。
だが、その姿には見覚えがある。
様々な伝承──絵本や、図鑑、魔導書、歴史書。
ありとあらゆる書物に描かれている伝説的な存在。
【厄災の魔竜】にその姿は酷似していた。
「……まさか、あれは本当に……!?」
その目で見たものをすぐには、信じられなかった。
王都の空に浮かぶその姿を目にして、私はただ呆然としていた。
イネスも、ロロも、目の前に現れたものに、言葉を失っているようだった。
──その出現が意味することは、王都の破滅。
仮に【厄災の魔竜】の伝説を知らないものであっても、またあれが【厄災の魔竜】でなかったとしても──目の前の光景から、それは明らかなことだった。
その竜は王城へとまっすぐに向かっているように見えた。
「──お父様」
私は思わず、つぶやいていた。
おそらく今、父はあそこにいる。
クレイス王国の王城は、非常時には司令塔の役割を果たす。
最高司令官である王は、王都での有事の際、あそこから王都を見回し対処に当たることになっている。
あれを差し向けた存在は、そうと知って王城へと向かわせているのだろう。
いくら、歴戦の勇士と云われた父であっても、あんなものを相手にはできない。
そこに待つのは──確実な死。
王都が壊滅し、王が死ぬ。
すなわち、それは国の──
「リーン」
頭の中がいっぱいになった私は、先生の声で我に返った。
「あれは──あまり良くない状況ではないのか?」
先生は、私に静かに聞いてきた。
「──はい、とても」
私は混乱した頭で精一杯冷静に声を絞った。
「あれは【厄災の魔竜】と呼ばれる伝説に謳われる存在そのものだと思われます。
そして、あそこには、お父様がいます。もし、あの竜が辿り着いたら──それに、もし、あれが王都で暴れたりしたら──王都は、王都は──」
でも、その先の言葉が出なかった。
何を当たり前のことを言っているのだろう、私は。
ノール先生にそんなことを伝えて何になる?
今、私たちは王都からかなり離れた場所にいる。
ここから私たちに出来ることなど何もない。
仮に、あの場に辿り着いたとしても一体、何ができるというのだろう──
「──それでは、微力ながら助けに行かなければな。今から走れば……たぶん、間に合うかもしれない。前のゴブリンの時のあれをできるか?」
「……えっ……?」
不安で頭が一杯になった私に、先生は事もなげに言う。
自分はあそこへ行く、と。
それに「あれ」とは──
「【風爆破】のことですか? それでしたら、はい、やろうと思えば出来ます……で、ですが──」
「まあ、きっと俺などが行っても、邪魔になるだけかもしれないが……もしかしたら、多少の時間稼ぎ程度なら、できるかもしれない。あの街にも、リーンのお父さんにも世話になっているし、少しは役に立ちたいからな」
先生はつとめて冷静に──まるでなんでもないことかのように。
そう言って、私に笑顔を見せた。
私の迷いはそこで、吹っ切れた。
もう間に合わないかもしれない、なんて。
そんな筈はないのだ。
何故なら──
ノール先生が間に合うと言っているのだから。
そうして即座に決断した。
今回は先生をあそこまで送り届ける為、全力でやるのだと。
──風属性上級の攻撃魔法、【風爆破】。
あれは通常、人に向かって放つものではない。
直撃すれば並みの魔物は粉微塵に散り、家屋に当てれば数軒まるごと吹き飛ぶほどの凄まじい威力。
だから、前の戦いでノール先生の背中に放つ時は躊躇した。
怪我でもさせてしまったら……と、きっと、全力の半分も出していなかったに違いない。
でも──もう、迷わない。
その必要がないことが分かったからだ。
先生はあの後、何のダメージも負っていないようだった。
かすり傷すら、受けた気配がない──。
普通は考えられないことだが、先生にとっては、あれもそよ風程度にしか感じていないに違いない。
あの人は、全てが規格外──。
だから私は先生の期待に応える為、全身全霊を掛けて【風爆破】を撃つ覚悟を決めた。
躊躇や手加減など必要ないのだ。
今、私の目の前にいるのは──他ならぬ、ノール先生なのだから。
「──わかりました、イネス。手を貸してください」
「はい」
そうして、イネスは私の指示通り【神盾】で『光の盾』を多重展開し、一つの大きな『光の筒』を形成する。
それを横向きに王都の方角へと向け、その先端に先生に立ってもらい──
私は『光の筒』の反対側に両手を添えた。
「では──行きます。衝撃は以前とは、比べ物になりませんので──ご容赦を」
「──何──?」
私は瞬時に意識を集中し、ノール先生の背中に向けて全魔力を撃ち込む準備を始めた。
イネスの絶対防壁【神盾】で作った『光の筒』で増幅・圧縮される衝撃に耐えるための【魔力障壁】を掌に多重生成、念の為そこに【物理反射】【魔力反射】をコーティング──加えて、魔法出力を最大限に高める為の【魔力強化】【魔力増幅】【魔力爆発】を重ねて付与し、【魔力凝縮】で手のひらに私の持つ全魔力を凝縮させる。
同時に、一つで城塞を吹き飛ばす程度の威力の【風爆破】のエネルギーを更に飛躍的に高める為、【魔聖】オーケン先生から伝授された【多重詠唱】を発動──。
私の限界詠唱数は、片手でそれぞれ三つづつ。
両手で併せて『六重詠唱』──。
それを同時に、イネスの形成した『光の筒』に全て撃ち込み、威力を余すことなく一点集中させることにする。
その力でノール先生を押し出す──。
これが、咄嗟に思いつく範囲での全力──私の今の最大限。
私は一つ、深呼吸をする間に全ての準備を終えた。
──私の実力では、ここまでしかできない。
せいぜいが、音の速さを打ち破るほどだろう。
それで、あの竜の元に届くなどとは、到底思えない。
──でも、先生なら。
ノール先生であれば。
「──行きます──【風爆破】」
──全力強化、六重詠唱の【風爆破】の発動。
その瞬間、両の手に伝わる凄まじい衝撃。
『光の筒』に添えた手が弾かれたように飛ばされ、手の骨が粉々に砕けたのを感じた。
衝撃に耐えるための防御魔法を全展開して尚、この威力。
これを背中に受け、先生は──
先生は──音もなく、消えた。
少なくとも、私の目からはただ単に、消えたように見えた。
だが直後、王都へと通じる道が大きく陥没した。
そしてまるで、巨人の足跡のように──道には次々に大きな穴が穿たれ、そこから地面が大きく割れていく。その割れは次第に王都へと伸びていって──。
──不意に、大地が大きく揺らいだ。
とてつもなく大きな、地震──。
まるで、巨大な隕石が大地に激突したかのような衝撃。
同時に、遥か遠くで何かが大きく跳び上がるのが見えた。
それは、一本の黒い剣を手に持った人影のように見え──
「──先生──御武運を」
その影は王都の空に浮かぶ【厄災の魔竜】に吸い込まれるようにして、瞬く間に視界の彼方に消えていった。






