231 魔竜の森 2
「……私、あれからそのまま────?」
私は辺りが薄明るくなるのを感じ、鳥たちが長閑に囀る声で目を覚ました。
消された焚き火の跡を見て慌てて身を起こそうとすると、昨晩、ノール先生に借り受けた毛布がまだ自分の身体に掛けてあることに気がつく。
でも、辺りを見回してもノール先生の姿がどこにもない。
黒竜の巨体も見当たらず、彼らはどこに行ったのか……と疑問に思った瞬間。
突然、辺りに地鳴りのような轟音が鳴り響く。
「……この音は?」
森の木々がぐらりと大きく揺れ、一斉に木の葉が舞い落ちる。
すぐさま私は借りた毛布を畳んで比較的綺麗な岩の上に置くと、音がした方角へと向かった。
すると、程なくして立ち並ぶ木々の隙間からララの巨体が見えてくる。
「ノール先生」
さらに近づいていくと森のひらけた場所にある湖畔でララと向き合い、『黒い剣』を手にするノール先生が目に入る。
私がその場で足を止めると、先生はゆっくりと私に向き直る。
「……悪いな。やっぱり、起こしてしまったか」
「昨晩は、本当に失礼いたしました。教えを乞おうという立場の者があのように図々しく、毛布まで貸していただいた上、自分だけ先に眠ってしまったなどと……」
「いやいや。昨日は相当疲れていたみたいだったからな。あまり早くに起こしたら悪いと思って、少し遠くに来たつもりだったが……流石にちょっとうるさかったみたいだな」
「い、いえ! どうぞ、お気になさらず! で、ですが、先ほどの音と揺れは?」
「ララが遊びたがっていたみたいでな。実は、俺も起こされたんだ」
「遊び?」
『グァ』
「────えっ」
不意に私たちの頭上にまっすぐに、黒竜の爪が振り下ろされる。
でも────
「パリイ」
先生は手にする『黒い剣』を涼しい顔で振り上げると、その巨大な爪を軽々と真上に弾き飛ばした。
その衝撃で再び周囲の木々が大きくざわめくが、当の爪を弾かれたララは満足そうに喉を鳴らし、まるでノール先生と戯れあっているような様子だった。
「まさか、これが……その遊び、ですか?」
「ああ。あくまでもララにとっては、という感じだが」
『グォゥ!』
ノール先生が『黒い剣』を肩に担ぎため息まじりに見上げると、ララは嬉しそうに唸り声をあげた。あまりに突然の出来事に呆気に取られてしまった私だが、すぐに自分の立場を思い出し、慌ててノール先生へと向き直る。
「……ノール先生。昨日、自分から訓練に志願しておきながら起床が遅くなり、本当に申し訳ありませんでした。もしお邪魔でなければ私もぜひ先生の訓練に参加させてほしいのですが……」
「ん? ああ、別にまだ何も始まっていないし好きにしてもらっていいと思うが……でも、昨日も言ったが俺が使えるのは六系統の初歩未満のスキルだけだし、何も参考にならないと思うぞ?」
「いえ。どんなことでも精一杯、頑張らせていただく所存です!」
先生は困ったように頭を掻きながら小さく息を吐くと、諦めたように『黒い剣』を地面に横たえた。
「……じゃあ、とりあえず。寝起きだし、あまり動かずに済む【魔術師】系統からでいいか?」
「はい! よろしくお願いします!」
「まず、俺がいつもやっている日課から見もらおうと思う。とはいえ、俺は全てが自己流だし、正直なところ自分でも何をやっているのかはよくわかっていない。だから悪いが、リーンにはなんとなく自分で見た通りに理解して真似してくれると助かる」
「は、はい。わかりましあ…………………………………えっ?」
「【プチファイア】」
先生はまず、その指先に【プチファイア】の火を灯した。
そうして、当たり前のように拳大に巨大化させる。
この技術自体は以前にも見せてもらったことがある。
【プチファイア】の【過剰詠唱】だ。
でも……今、私の目の前にあるのは……?
「……あ、あの、ノール先生? これは前に見せていただいたものより、ずっと大きいように思いますが……? それに密度も……桁違いでは」
「ああ。あれから自分なりに工夫して、ちょっと上手くなったんだ。リーンに見てもらいたいのはその為の練習方法というところだな。見ててくれ」
「は、はい────えっ?」
先生が少し集中すると、見るまに巨大化した【プチファイア】が縮小していく。
そうして、先ほどまで明るく輝いていた【プチファイア】は少し気を抜くと見失ってしまいそうなぐらいの針の先ほどの極小サイズとなった。でも決して消えたのではなく、確かに先生の爪先で灯っている。
……なんなのだろう、これは。
私はかつて【魔聖】オーケンから指先に灯した【プチファイア】を大きくする技術を耳にし、ノール先生にも実際に見せてもらった。でも、逆に小さくするなんて技術は聞いたことがない。
私が呆気に取られていると、先生は縮小した灯火を再び手のひらの上に大きくし始め────やがて、私の目の前には先ほどよりもずっと巨大な、大人が両腕でやっと一抱えできるような超極大サイズの【プチファイア】が現れた。
「……こ、これは? いったい、どういう……?」
「面白いだろう? 俺もどういう理屈なのかはさっぱりわからないんだが、不思議とこうするとかなり大きくできる」
「で、では。もしや、それは────【魔力爆縮】では……?」
「へえ? そういう言い方があるのか、勉強になる」
────そう。
おそらく、ノール先生が実演して見せてくれたあの技術は【魔力爆縮】だ。
己が発動させる魔術の魔力経路を極限まで最適化し、超精巧に極小模型化することで高密度化を実現させるという、超高難度の魔力操作技術だ。
あらゆる魔術の威力を爆発的に高める、理想的な効率化技術とも呼ばれる。
確かに、私もそういった理論自体はこれまで文献で目にしたことがある。
でも……過去の歴史を遡っても、それが存在したのあくまでも机上の論理であり、文献上のことでしかない。
【魔力爆縮】はそれを用いるだけでどんな魔術でも「飛躍的な性能の向上が見込め」かつ、「絶大な威力を約束する」が故に『王者の呪文』とも呼ばれ、はるか昔にその理論が提唱されてから実に数百年もの長きに渡り、各々の時代で最も才能に優れた魔術師たちが至高の存在を目指す上では欠かせない挑戦と考え、生涯をかけて実現を目指したと言われる夢の魔法技術だが……結局は研究の過程で一人の例外もなく挫折し、失意の中で習得を断念せざるを得なかったという。
その歴史の積み重ねがゆえに【魔力爆縮】は過去の偉人たちの数えきれないほどの研鑽と試行錯誤の果てに、『理想的ではあるが実現不可能な目標』の代名詞となり、魔術師たちがより高度な魔法技術を目指す上での『最大にして最難関の壁』とまで言われるようになった。あの【魔聖】オーケンでさえ、理論を知った時点で、成し遂げるべき課題の多さに人間の寿命ではとても足りないと諦めたと言われるほどの超高等技術の塊だ。
それを…………ノール先生は何故、あんなに軽々と?
「流石だな、リーンは。やっぱり、俺から教えるより教わることのほうが多そうだ」
「……い、いえ……!? わ、私などは文献で浅く知るばかりで……!?」
「じゃあ、ついでにこれも教えてもらっていいか? きっと、名前はあるんだろう」
「は、はい! 私でお役に立てるのなら何なりと────えっ???」
次に先生はその指先で異常なまでに巨大化した【プチファイア】を五つの火球に分裂させ、それらを5本の指の先にそれぞれするりと移動させていく。そうして同じような大きさに分化した五つの炎がゆらゆらと指先で燃え盛ったかと思うと、先生の手のひらの上にぴょん、と一斉に移動した。
そうして、その全てが激しくぐるぐると回転し、まるで何かの演劇を催しているかのように先生の手の上で踊り回る。
「……こ、これは? 【魔力誘導】? いえ……その前は【魔力分散】のようですし。で、でも、そもそも、これは……?」
「すごいな。こういうのにも全部名前がついているんだな」
先生はそう言って満足そうに頷くが……正直なところ、私はこれをどう形容していいのかわからなかった。
今のノール先生の実演にはおそらく、発動した魔術を任意の場所に誘導する【魔力誘導】と呼ばれる技術が使われている。これは【魔術師】職が一人前になるまで最低限身につける必要のあるとされる基礎中の基礎とも言える技術だが……私の知るそれは基本的に『火炎球』などの放射系の魔法の弾道をほんの少し調整する程度の用途でしかなく、草原を吹くそよ風に抵抗ができて一人前。手のひら一枚分程度、望む方向に着弾点をずらせただけで十分に上級者扱いとなる。ゆえにあのように複数を自在に舞わせて踊らせるまでの技術の熟達など、誰も想定していない。
……そもそも、その前に先生は何をした?
確か、一つの火球を綺麗に五等分に分離させていた。
それは【魔力分散】と呼ばれる、同じく放射系の魔術の力を分散させて対象に当たりやすくするための初歩の初歩とされる技術だが……それも相当集中した上で一度だけタイミングを見計らい、魔法を飛散させて敵の目を欺くためにあるようなもの。もちろん数や大きさのコントロールなどできはしない。
でも、先生はそれを……ええと。
五つに綺麗に分けた火球を手の上でさらに複数に分け、それらを自在にくっつけたり、離したりしている。
…………あれは……いったい…………?
他にも思い当たるような似た技術はあるもののが、結局はどれも当てはまらないように思える。
少なくとも、【魔力誘導】と【魔力分散】の両方を途方もない練度でマスターした上でないと絶対に不可能な行為であり、どちらか一方だけとっても前人未到の領域であることは確かだった。
「ひとまず、ここまではいいか? これがまず準備体操といったところだ」
「は、はい。理論的な理解だけであれば辛うじて私も……え? ……じゅ、準備体操???」
「とはいえ、ここからやることもそんなに変わらない。あとはそのまま、これをこうして、こう」
「……………………──? ……? ……???」
そこからは、私にはまるで何をしているのかわからなかった。
先生は手のひらで踊る無数の【プチファイア】をだんだんと手のひらの中央に移動させて集約し、それをより一層明るく、煌々と輝かせていく。
────まだそこまでなら、わかる。
五重の【多重詠唱】かつ、それぞれの灯火を極限まで【過剰詠唱】した【プチファイア】を、とてつもない精度で重ね合わせた上での【魔力融合】だ。私も似たようなことをロロの手を借りながらだが実現したことはある。
でも……かと思えば先生はその超高純度の魔力塊をたちまち解体してみせ、次の瞬間には手の上で自在に踊らせ、また大きくしたり小さくしたりしたと思ったら、一つの球体に整えた上、また自在に分けたりくっつけたりしている。
……その後も、複雑な融合、解体、融合、解体の繰り返し。
ノール先生はそれら気が遠くなるような高等技術の見本市のような実演を息一つ乱さず、まるで子供の手遊びのように際限なく繰り返していく。それがごく簡単なことかのように、鼻歌混じりに。
「どうだ? これが実用的かはわからないが、見た目はけっこう面白いだろう?」
「……は、はい。こ、これで終わり……でしょうか……?」
「いや? 最後にこれをこうしてこうして。仕上げとして、こうする」
「────????????????????」
「……どうした、リーン? 顔色が悪いが、まだ疲れてるんじゃないのか?」
「いっ、いえ! だだだ、大丈夫です!」
「本当に?」
「でっ、ですが────」
私は自分と先生のあまりの実力差に思わず、息を呑む。
────そう。最初から分かってはいた。
ノール先生に教えを乞う時点でこうなるのは。
でも……あまりにも想像していたレベルと違いすぎる。
いや。そもそも、私の目の前にいるのはあのノール先生なのだ。
その日々の訓練が私の想定の範疇にとどまることなど、あり得ない。
「……せ、先生。一つ、質問よろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「先生はこのような厳しい訓練を毎日……?」
「厳しい……? まあ、そうだな。忙しくてできないこともあるが、なるべく毎日サボらずやるようにはしている。そのほうが上達はすると思う。たぶん」
「つ、つまり……私もこれから毎日、これを……?」
「ああ。でも、リーンが別にやりたくなければそれでいい。そもそも、普通は身につける必要のないようなことばかりだろうしな。まあ、遊び半分にやれたらそれでいい」
そう言ってノール先生は微笑みながら、指先で輝く【多重詠唱】・【過剰詠唱】・【魔力融合】・【魔力誘導】・【魔力分散】、プラスアルファで他にも未知の技術が使われているであろう【プチファイア】を吹き消した。
(……────そんな────……)
思わず全身に震えが起きる。
とてつもないものを見た、という驚愕。
同時にどうやっても辿り着けない頂を目にしたという、絶望。
そもそも、歴史に名を遺す一流の魔術師たちが一生かかっても辿り着けなかった境地までノール先生はあの若さで辿り着いたばかりでなく、さらにその上に行こうとしている。
そんな頂に、私はどうやってついていけば……?
でも、私だって【魔術師】系統は一番の得意分野だと自負している。
これからの二ヶ月間、この魔力操作の奥義にだけ注力すれば或いは、ノール先生の足元程度には────きっと。
「ひとまず、【魔術師】系統はこんな感じだな。じゃあ、次の日課だが」
「……えっ……? 次の……日課……?」
私は思わず、この人はいったい何を言っているのだろう、と思った。
一瞬、頭の中が真っ白になり言葉が全く入ってこなかった。
あの世界最高峰すら遥かに超えるような複数の技術についていくことすら、私にはとても困難な話だった。おそらくは毎日寝ずにそれだけの研究に身を捧げたとしても、おそらくは習得に十年……いや、人によっては数十年もかけてやっと。否。あの魔聖オーケンですら諦めたような超高難度の技術であることを考えると、私では少なくとも百年か、それ以上……?
何にせよ、全てを捨てて血の滲むような鍛錬を絶えず己に課し、それでも辿り着けるかどうかすらわからないという極致中の極致だ。
なのに……ええと。
次、とは?
「そんなに身構えなくてもいい。これもそんなに難しいことをするわけじゃないから。たとえば、こんな感じだ。【しのびあし】」
「……………………? ノール……先生?」
突然、ノール先生が消えた。
姿だけではない。
音も匂いも、気配そのものが完全に消えている。
どこかに去ったという痕跡すらなく、私は当惑するしかなかった。
試しに【隠蔽除去】を試みようとしたが、 【隠蔽除去】を使うきっかけすら掴めない。
「────完全に消えた────?」
……こんなものは、【しのびあし】ではない。
少なくとも、私の知る【盗賊】系統の隠密スキルにはこのような効果を及ぼすものは一つとしてない。
では、どうして先生は消えた?
……そもそも今、どこにいる?
あの一瞬で物音すら届かない遥か上────?
いや。私の注意の隙間を掻い潜って既に背後に……などでもないようだ。
まさか、下に────?
「ここだ」
終わらない疑問が私の頭の中を渦巻いていた、その時だった。
気がつけば、ノール先生はそれまでと変わらぬ様子で私の目の前に立っていた。
「どうやら、うまく誤魔化せたみたいだな」
「い、今のは?」
「俺はどこにもいっていないし、動いてもいない。ずっと、リーンの目の前に立っていた」
「えっ?」
「でも、居るようには感じなかっただろう?」
「は、はい。全く。……ノール先生はこのような技術をどこで?」
「これはレイからだ。と言っても、ちゃんと教えてもらったわけじゃない」
「…………レイさんから?」
「ああ。彼女の【しのびあし】がすごかったから、どうにか似たようなことができないかと試行錯誤しているんだが……見よう見まねでなんとなく再現しているだけだから、彼女のようにとはとてもいかない。欲を言えば彼女と同じぐらいになれたらと思っているんだが」
「レイさんと……同じに?」
「ああ。だから今度、彼女にコツでも聞いてみたいと思っているんだが……まあ、リーンの目を誤魔化せれば俺としては十分合格点だ」
先生はそういって満足そうに笑うが……私はまた困惑する。
あの人にコツや才能などあろうはずがないからだ。
あれは【恩寵】だ。
イネスと同じ、神に与えられたとした言いようのない絶大なる奇跡の力。
ノール先生はまさか、自力であの【恩寵】と同じレベルに到達しようと考えている……?
そう。我々常人であれば、そもそもが不可能だと考える。
でも、この人はそこからして違うのだ。
現に、部分的であれ実現ができている。
「で。次は【身体強化】だな」
「──────────はっ、はい」
返事をする自分の声が震え、上擦っているのがわかる。
これまで到底私では辿り着けないような奥義の数々ばかりを見せられている。
それなのに……この人はまだ、「次」があると言う。
「……どうした? もうやめておくか?」
「いっ、いえ! ど、どうぞ続けてください! お、お願いします!!」
「そうか……? じゃあ、手短にやるか。これは……そうだ。ララ、ちょっとこっちに来てくれるか」
『グァ?』
声をかけられたララは、嬉しそうに尻尾を振りながらノール先生に近づいていく。
そうして、ノール先生はララの巨体と向き合うとその太い脚と組み合った。
どうやら、ノール先生は真正面から力でララと押し合いを始めたようだった。
そこまででも十分、私には常識はずれであり、刺激の強い光景ではあった。
でも────
「────嘘、でしょう……?」
そのほんの数秒後。
ララの巨体が地響きを立てて地面に沈んでいくのを見て、思わず私は自分の目を疑った。
ノール先生はあの魔竜をいとも簡単に地に転がしてしまったのだ。
それも『黒い剣』もなしに、ただの素手で。
……その昔、クレイス王国で全ての冒険者たちの頂点に立ったという父も、竜を力任せに押し倒し、その頸をへし折ったという逸話を持ってはいるが……それはあくまでも、人間が対処できるスケールの竜を相手にした話だった。【厄災の魔竜】という竜の中でも最上位の規格外の巨体と真正面から押し合い、勝つ、などというこの異常な光景とは比べようもない。
「ありがとう、ララ。助かった」
『グァオ! ギャオゥ!』
「……ん? まだやりたいのか?」
『グァォゥ!!』
「でも悪いが、後にしてくれ。もうちょっとリーンに説明したいことがある」
『…………グォ? ……グァ……?』
先生に連戦を断られ、しょんぼりとした様子でララは私たちに背中を向け、座り込む。いじけたように尻尾を大地に叩きつけ、その度に小規模な地震が王都を襲うララだがその反応は完全に主人との力関係を理解している、飼い慣らされた犬のそれでしかない。
「まあ、要するに見ての通りだ。【身体強化】はなるべくああいう『絶対に動きそうにない』モノを相手にすると効果が高まる……と、思う。というか、俺が言えるのはそれだけだ」
「は、はい」
「よければ、リーンもララと一緒に練習するといい。あの感じだとたぶん付き合ってくれる」
「……私が、ララと?」
『……グォア?』
私は思わずララを見上げ、その巨大な顔と目を見合わせる。
私を見下ろすその瞳は「お前などに、自分の相手が務まるか?」と純粋に疑問を投げかけてきているように思えたが……それは私自身、強くそう思う。
「あとは……なんだったかな。そうだ、【投石】だ。これで最後だからとりあえず、見ててくれ」
「は、はい!」
ここまでのノール先生の『日課』を目にしたことで私は半ば途方に暮れていた。
何もかもが、私の常識からはかけ離れているからだ。
でもきっと、これがノール先生にとっての当たり前の日常なのだ。
教えを乞う私はこれから、その世界に入っていかないといけないのだと改めて覚悟を決めようとしていると、ノール先生は無造作に足元の石を数個拾い上げて、一つ一つ空へと放り投げていく。
「……ノール先生? 今のは一体、何を……?」
「ん? ああ、石を投げたんだ」
「は、はい。それはわかったのですが……何故、上に?」
「昨日、何も食べていなかっただろう? そろそろ腹が減ったなと思って。ついでに朝食の魚を取る」
「そういえばそうでしたね……でも、魚とは? 魚が空の上にいるのですか?」
「いや? 普通、そんなことはないと思うが……?」
「……そっ、そうですよね……?」
私たちは互いに首を捻り合った。
そうしてしばらく何も起こらない時間だけが過ぎた。
「まあ見ててくれ。そろそろだ」
「は、はい……? えっ?」
突然、激しく空を切る音がしたかと思うと静かな湖面に激しく水飛沫が上がる。
見れば魚が水面から一斉に跳ね上がり、バラバラのタイミングで降り注ぐ無数の小石がその頭部に綺麗に直撃し、一匹、また一匹と気絶させていく。
「9匹か。まずまずだが、悪くない」
「……ノ、ノール先生。い。こ、これは……?」
「見ての通り、これは食事の為の狩りを兼ねてるんだ。だから、やることは池の中の魚の少し後の居場所を予想して、当てる。それだけだ」
「魚の居場所を……予想する?」
「ああ。一匹目の居場所は想像しやすいが、二匹目から先がちょっと難しい。それぞれの魚の性格なんかもよく観察して、それぞれの反応や逃げ方を予想するのがコツだろうな」
「……観察、ですか……?」
「それと今日は腹が減っていたからすぐにしたが、できれば、朝投げてお昼頃に魚に石が当たるようにしたいな」
「お、お昼……? それは、どうしてですか?」
「どうしてって……魚を昼飯にするなら新鮮なほうがいいと思ったんだが……?」
私たちは再び互いに首を傾げ合った。
本当にこの人は……何を言っているのだろう?
今回ばかりは素朴に疑問に思った。
朝投げた石を、昼に当てる?
まるで何を言っているかわからない。
────いや。
もし【弓聖】ミアンヌや【雷迅】の二つ名を頂くシレーヌさんであったなら、もしかしたら近いことはできるのかもしれない。でも……それも当然、手入れされた弓と形の整った矢を使う前提があってのことだろう。弓すら使わず、そこにいるかどうかすらわからない獲物の頭部を狙って貫く、なんて。いくら【弓聖】ミアンヌでも「難しい」と答えるに違いない。それどころか、その辺りで適当に拾っただけの粒の揃わない石を無造作に放り投げ、それぞれバラバラに泳ぎ回る魚の頭を狙っておおよそ数時間後に命中させる?
最早、それは単なる予測などと呼べるものではない。
限りなく『未来予知』に近い何かだ。
いったい、どうすればそんなことが可能になる?
……まるでわからない。
私とノール先生ではそもそもの次元が違いすぎる。
意識も。認識も。実力も。
あの大きな背中を見つめ、少しは近づけたものだと思い込んでいた。
でも……実際はさらに絶望的なまでに差が開いてしまっている。
「悪いな。ちゃんと最後まで食べるから」
先生は犠牲になった魚たちに手を合わせると、蔓で編まれたカゴの中に大事そうに入れていく。
「まあ、俺が毎日やろうとしているのはこんな感じだ。どれも大雑把な説明で悪いが、一応、これで全部見せたつもりだ」
「ありがとうございます。では、私はこれから今教わったことを精一杯────」
「その前に一つ、いいか?」
「………………………………はい」
「リーンは本当にここにずっといるつもりなのか?」
「……はい。ノール先生にとっては、大変ご迷惑かとは思いますが……家を追い出されてしまった今、ここに身を置かせていただく以外、どこにもいくところがないんです」
そう言って俯く私を前に先生は困った顔で頭を掻く。
「実は……前の食事会の時、リーンのお父さんから『娘のことを頼む』と言われていた」
「父から……ですか?」
「ああ。酒の席での話だからどこまで本気かはわからないが、少なくとも、最近のリーンに元気がないことを心配していたようだった」
「そうですか。父がノール先生にそんなことを……?」
「だから、俺はちゃんと家に戻った方がいいと思う。きっと心配している」
先生はそう言って私を気遣いつつ、俯く私の願いを断った。
……そう。私とこの人の差が開くことなど当然だ。
世界の頂点にいるという表現すら生ぬるいこの人物ですら常に努力と研鑽を惜しまず、前に進もうとしている。だというのに……その人物に教えを乞おうする私は徒らに俯き、立ち止まるばかり。
これでは、追いつきようもない。
でも、最後にもう一度だけもうしばらくの滞在を懇願しようと顔を上げると、ふと目の前で心配そうに私を見つめる人物の姿が目に入り────途端に、私の心を覆っていた不安が綺麗さっぱり吹き飛んだ。
「…………えっ…………?」
「……? どうした……?」
────何故、私はこんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。
そうだ。
私の目の前にいるのは、あのノール先生なのだ。
大陸に広範な被害をもたらした【厄災の魔竜】をたった一人で調伏し。神聖ミスラ教国という大国を建国時から数百年にも及び裏で操っていた邪悪な『聖ミスラ』を完膚なきまでに打ち砕き。そればかりか、長き眠りから目覚めた『忘却の巨人』の強靭な体躯を軽々と跳ね返して商都を守り抜き、内奥に封じられていた『古き神々』の一柱さえかすり傷一つ負わず、屠り去る。
この穏やかな外見の人物は人智では計り知れないほどの巨大な力を秘めており、その底は誰にも見えはしない。
そんな人物の前では私の心に抱いている不安など、取るに足らない瑣末なことでしかない。
というより……きっと私自身、そんなことを考えるだけ無意味なのだと思う。
何故なら、ここにノール先生がいるのだから。
……私ごときが一体、何を心配するべきことがある?
少なくとも、私が今すべきことが俯くことではないのは確かだった。
むしろ────
分かりきったことにようやく気づいた私は目の前の人物へとしっかりと向き直る。
「────いいえ、ノール先生。申し訳ありませんが……あと少しだけ、ここにいさせてください。今の私にとっては先生の暮らしぶりを直に見せていただき、そこから学ばせてもらうことが何よりも大事なんです」
私の改めての懇願に、ノール先生はついに諦めたように小さくため息をつく。
変わらず困っている表情の先生だが、その顔を見てさらに心が軽くなってしまう。
何故なら────
「……わかった。じゃあ、そうしよう。というか、そもそも、ここは俺の家というわけでもないし。リーンの好きなようにしてくれたらいい」
「ありがとうございます! 決して、ご迷惑にはならないようにしますので!」
目の前にいる人物には何一つ不可能という言葉が当てはまらないことを、私はもう知っている。
であれば……私はただ己の力の続く限りこの人についていけば良いのだ。
ただ、それだけの話。
「それでは、ノール先生。早速ですが、私はここで何をすればよろしいでしょう? 何なりとお申し付けくだされば」
「…………とりあえず、朝食を摂ったら街に日用品を買いに行こう。流石にずっと昨日のような寝床というわけにはいかないだろうし。まずはそこからだ」
「はい!」
そうしてようやく当たり前すぎる事実に辿り着いた私は、安堵半分にこの先に待ち受ける厳しい試練の二ヶ月へと目を向けた。






