22 黒死竜
11/17 少し改稿
王女の【隠蔽除去】によって突如現れた生物の姿に私は息を呑んだ。
「あれは……まさか、黒死竜……!?」
あれは、まるで巨大な黒い蛙のような姿をしているが、獰猛な性格を持つれっきとした『竜種』──『黒死竜』だ。
黒死竜は鉄よりも硬い爪で獲物を引き裂き、頑丈な牙で岩をも噛み砕き、本能のままに、動くものなら何でも喰らうという。
何よりも恐ろしいのが、その喉の奥の嚢に蓄えられた瘴気を吐き出すブレス──そのブレスを浴びた生物の身体はあっと言う間に焼け爛れ、黒い死体と化す。
しかも、瘴気はきちんとした処理をしなければその土地に留まり続け土を黒く焼き続け、辺り一帯を不毛の土地に変えてしまう。
二次被害も甚大──。
その為『黒い死をもたらす者』として『黒死竜』と呼ばれ、この大陸に生息する魔物の中でも最も凶悪な生き物の一つに数えられる。
竜種故の戦闘能力の高さもさることながら、広範な地域に被害を及ぼす瘴気ブレスの危険性から『特A級』の脅威度として扱われる、超危険種。
だが、通常なら毒沼地帯の奥深くにしか生息しておらず、滅多に遭遇することはないと言われている。
どうしてこんな人里に近い場所で。
──まさかあの子供は。
あの外見の特徴。
聞いた話でしかないが、おそらく間違いない。
「──『魔族』が、どうしてここに」
百年前に神聖ミスラ教国と大きな戦を起こし、大敗して国を失い、世界中に散らばり忌み嫌われる亜人族──『魔族』。
彼らは人と同じような姿をしているが、決定的な違いがある。
魔獣と自在に心を通わすことができるという特殊能力──それを誰もが、生まれながらにして持つという。
生まれながらにして、魔物に近い存在。
凶暴な魔物を手足の如く操り、多くの都市を危機に陥れたという記録が残っている。
それは誰しも、学校に通えば知っている程の常識──だが、本物を目にした者はほとんどいない。
私も実物を見るのは初めてだった。
『魔族』は狩り尽くされ、ほぼ絶滅したと言われているからだ。
とはいえ完全に絶滅したわけではない。
聖魔大戦の生き残りが復讐の為、何処かに息を潜めているとも言われる。
よって、見つけ次第討伐が推奨され、もし生捕りにして、魔族を目の敵にしている神聖ミスラ教国に引き渡せば莫大な褒賞が渡されるという。
その為、『魔族狩り』を標榜する冒険者までいるというが。
「まさか──あの黒死竜は、あの魔族が操ってここまで──!?」
そうに違いないだろう。
黒死竜はあの魔族の子供がここに連れてきたのだ。
あれをこのまま放っておけば、近隣の街は壊滅する。
だが──
打つ手がない。この人数では。
瘴気のブレスを浴びればどんな屈強な人間でも即座に命を落とす。
何の対策もなく自ら近づくのは自滅しに行くようなものだ。
なのに、あの男は──!
「──先生!」
「リンネブルグ様、駄目です」
男を追って飛び出そうとする王女を、私は咄嗟に【神盾】で生み出した光の盾で行く手を遮り、強引に止めた。
自身の行動に矛盾と葛藤を感じる。
本来、同行者を守ることは自分の役目──。
それに、先ほど、あの男のことは自分が守ると言ったばかりだ。
でも、それよりも何より、今はリンネブルグ王女を守らなければならない。
──あの男のことは諦めるしかない。
自分にそう、言い聞かせる。
──飛び出して行ったあの男、ノールは今、黒死竜の爪を片手剣で弾いている。
それはとても信じられない光景だった。
自身の師、【盾聖】──【不死】のダンダルグがかつてそれを手にした時、全力を振り絞って両手で一振りするのがやっとだったと言うあの『黒い剣』を──。
あの男は片手で軽々と振っている。
そして、その『黒い剣』を使って、まともに受ければどんな武器も叩き折られるという竜種の爪を、いとも簡単に真正面から弾いているのだ。
あのギルバートをして「冗談のような強さ」と言わしめ、あの『ミノタウロス』をたった一人で退けた実力は本物だ。
疑いようもない、強者。
だが、それだけでは──
「それだけでは──死にに行くようなものだ」
黒死竜の本当の脅威は、あの巨体から繰り出される爪や牙でない。
あれを目にしたなら、すぐさま反転し、逃げるべきだったのだ。
今の戦力では為す術もない。
王都に本隊を呼びに帰って──いや、だめだ。
今、全ての兵は出払っている。
だからこそ、私はこの任務を言い渡されたのではなかったか。
私は王子から『密命』を受けている。
──これから、王都は危機に陥る。
もし、王都壊滅の報が届いたら、その時はすぐさまノール殿と共に『神聖ミスラ教国』に亡命せよ、と。
お前は何よりも王女の命を守れ、と厳命された。
王女に状況を説明することも禁じられた。
これを言えば、あいつは国に残ると言い出すから──と。
葛藤はあった。
王女の身の安全を幼少より護り続けた私が、一番適任だということもわかる。
だが、悔しい。王都に残してきた者を思うと、後ろめたい。
同僚が、部下が死を賭して戦っている間、自分だけが逃げおおせるなど──。
いや、これは任務だ。
王女を護り、安全な場所まで送り届けるという仕事。
国のために命を捧げる点では彼らと一緒なのだ。
──そう思って、ここまで馬車を走らせてきた。
だが、行く手に『黒死竜』が現れた。
これは想定外だった。
恐らく魔族による誘導によって、配置されていたのだ。
もしや、敵は王女のこの逃走ルートを見越していた?
いや、それはわからない。
だが、もうどの道、このルートは亡命には使えないだろう。
引き返さざるを得ない。
もう、諦めるしかない──色々なものを。
ここは山岳都市に近い。
『黒死竜』は人里の近くに出現したなら、最低でも街の一つ二つの消滅を覚悟しなければならない。
──それほどの脅威。
それを、敵は放ってきたのだ。
あの魔物を放っておけば、街にも多大な被害が出るだろう。
だが、それも諦めるしかない──
近隣の街の多くの人間の命が奪われるのを知りつつ、逃げなければいけない。
この少人数でどう頑張っても、まともな対処はできないのだから。
今、できることは、ただ一つ。
全力での撤退。
それなのに──!
「あの男はいったい、何を考えているのだ──!」
苛立ちで思わず、男を責めるような声が出た。
あの男が飛び出して行ったことで、完全に撤退のタイミングを逸した。
男が馬車を離れ、王女もそれを追い、かろうじてその行動を止めたはいいが、馬車とは離れている。
今から態勢を整え、逃げようとしても、すぐには出発できそうもない。
あの男は、きっと何も考えずになりふり構わず飛び出していったのだろう。
それも、恐らくあの魔族の少年を助けるために──だ。
──愚かだ、あの男は。
そう思わずにはいられなかった。
きっと、あの男は知らない。
あの黒い竜は、あの少年が連れてきたのだと言うことを。
目の前で、殺されそうになっている子供がいるから、助けに行く──。
そんな単純な思考で、いや思考する間も無いほど瞬時の判断で助けに向かったのだろう。
それは一応理解はできる。
でも、この脅威の元凶となった者を、自らの命を投げ出してまで助けに行く。
その行為はどう考えても矛盾していた。
──もし、知らなければ、私だって助けに行ったのに。
次に沸き起こったのは、嫉妬のような感情だった。
自らの身体を張って人々を守る──それが自分たち防衛職のあり方だ。
私だって、目の前で怯えている人間がいれば、守りたいと思う。
そんな姿に憧れこの仕事を選び、この役職まで上り詰めたからだ。
だが、御伽話の登場人物でもない人間に、出来ることなど限られている。
身を呈して誰かをかばった結果、かえって誰かを危険に晒す場合だってある。
それが、今に他ならない──なのに。
──なんと愚かなのだ、あの男は。
リンネブルグ王女を気安く「リーン」と呼ぶあの男。
王女が危機の時に駆けつけ、命を救い──
王が愛用していた『黒い剣』を手渡された男。
私は、あの男の名前をずっと前から知っていた。
尊敬する師、育ての親でもある【盾聖】のダンダルグがあの男の名前を口にする度に、苛立ちを憶えていた。
訓練中も、討伐遠征中も──事あるごとにあの男の名前が出た。
「こんな時、あいつ……ノールが居ればなぁ」と。
それが、彼が私に対してだけ漏らす口癖のようなものだった。
それを聞くたびに思った。
──ここに、私がいるのに。何故そんな奴の話をするのか、と。
自分が、その名前しか知らない男に嫉妬が入り混じった醜い感情を抱いているのには気がついていた。
そして、その男が目の前に現れると、私は更に嫉妬した。
リンネブルグ様を気安く呼び捨てにし──私の長年の役目であった筈の、彼女の隣に立つ男。
それがあの「ノール」だと知り、全てを取られた気分だった。
馬車の中でわざわざ護る必要のないあの男を、自分が守る、などと言い出したのも、そんな気持ちがあったのだろう。
あの男が飛び出す瞬間に──その醜い感情が、顔を出したのかもしれない。
だから一瞬、判断が遅れた。
有無を言わさず、あの男の前に『盾』を出現させていれば、止める事はできたはず。
それをしなかったのは──。
もし、あの男が一人飛び出して、命を落としたら、などと。
──私はそんな事を思っていたのだろうか。
いや──違う。
全く逆だ。
私は思ってしまったのだ。
もしかしたら、あの男なら──王に認められ、王女に認められ、ギルバートにも、義父ダンダルグにも、【六聖】全てに認められているという、あの男なら──あの厄災──黒死竜をなんとかしてくれるのではないか、と。
そう思って、一瞬、止めるのを躊躇した。
期待してしまったのだ。
嫉妬とも羨望ともつかない感情を載せて、自分勝手な夢を抱いた。
私はあの男の行動を、あの瞬間、認めていたのだ。
確かに、あの男は愚かだ。
それと知らずに死地へと赴いたのだから。
でも、あの男を愚かというのなら。
──それよりもずっと愚かなのが、私なのだろう。
それと分かっていて、あの男を死地に行かせたのは私なのだから。
男が対峙している、黒死竜の口が大きく開くのが見えた。
喉の奥に見えるのは、漆黒の瘴気の渦。
最も恐れていたもの──それが今すぐここで、放たれる。
「リンネブルグ様、瘴気が来ます。備えてください」
「先生──!」
「諦めてください! もう、あの男は助かりません──」
黒死竜から放たれた、漆黒の塊のような瘴気のブレス。
それは男に直撃し、爆発するように霧散した。
辺り一帯があっという間に黒い霧で覆われる。
「来ます──リンネブルグ様、私の後ろへ。【神盾】──ッ!」
咄嗟に私は【神盾】を発動し、黒死竜との間にありったけの光の盾を生み出す。
光の盾が重なり合い、光の城壁と化すほどに。
だが、それだけでは瘴気は完全には防ぎきれない。
隙間からやってきた瘴気を、王女が【僧侶】系スキル【浄化】で中和していく。
それでなんとか、自分たちと馬車を引く馬は守り切れている。
でも──それだけ。それが精一杯だ。
「先生……!」
「諦めてください──もう助かりません」
「でも──」
「ダメです! 今は、ご自分が生き残ることだけ考えてください──ッ!」
私は王女を怒鳴りつけるように諭しながら、唇を噛んだ。
この事態は、予測できた。
あの男が一人で飛び出していったその時から。
だからこそ、怒りを感じる。
後先考えず飛び出していったあの男に。
そして、それをすぐさま止められなかった自分自身に。
結果、王女の命まで危険にさらしている。
結局、誰も護れていない。
──私は、護衛失格だ。
瘴気は一層、濃密な塊となっていく。
あの男はもう、完全に助からない。
黒死竜の瘴気は一息吸っただけで、致命。
高位の【僧侶】でも治療は不可能に近い。
これほどの濃い瘴気の中では、数秒と生きてはいられないだろう。
「先生……!」
王女はひたすら男の身を案じている。
だが、もう助からない。
それどころか、自分たちも危ない。
今はただ、王女を守り抜く、それだけを意識する。
──ふと、黒い霧の奥で、音がした。
おそらく、あの男が黒死竜と戦っている音──否。
最後の力を振り絞って、抵抗しているのだろう。
音は鳴り止まない。
時折、何かが弾けて、割れるような音がする。
「何の音だ……?」
聞きなれない音に、疑問を覚えた。
不意に、辺りの平原に風が吹いた。
濃密に立ち込めていた瘴気が一瞬、晴れる。
黒い霧の奥で黒死竜が爪を振り下ろすのが見えた。
そして、それを片手剣で弾く男の姿も。
信じがたいことに、男は黒死竜の前に、まだ立っていたのだ。
──全身のあらゆる所から、多量の血を吹き出しながら。
あれはもう、助からない。それが一目で判るほどの、重症。
それなのに、竜を静かに見据え──その前に立ち続けている。
立ち込める瘴気が少しずつ晴れていく間、ずっと──
背後に座り込む魔族の少年を守るようにして、男は立ち、ひたすら手にした剣で、襲い来る黒死竜の爪を弾いている。
その姿に、王女も私も言葉を失った。
そして、理解した。
あの奇妙な音──それは、黒死竜の爪が一本ずつ砕ける音だったのだ、と。
──私はもう、その姿を愚かとは言い切れなかった。
なぜなら、それは自分がずっと憧れ、追い求めた姿──。
自らを顧みず、危険に飛び込み、命を代償にしてでも誰かを守りきる──。
──そんな自身の思い描いた理想の防衛職の姿が、そこにあったのだから。