218 眠る王都
夜の食事会にはまだ少しだけ時間があったので、俺たちは一旦別れて、それぞれが必要な準備を済ませてから向かおう、ということになった。とはいえ他の人と違い、準備というほどには特にすることがなかった俺はただしばし時間を潰した後、迎えにきてくれたリーンと一緒に会場のお店に行くことになったのだが。
「……本当に俺は、この格好でよかったのか?」
「はい。これは、私が気分を変えたかっただけですので」
普通の格好でいい、と言われたので俺は本当に普段通りの格好だが、リーンは飾りっ気はあまりないものの上品なドレスを着ている。おかげで本当にいつもの服のままでよかったのだろうか……と不安になるが、聞けば単純に、リーンが場所に合わせて格好を変えたかった、というだけの話のようで、かしこまった場ではないので特に格好のマナーなどはないという話だった。
とはいえ、さほど目立つ感じではないもののリーンはさりげなく所々に装飾品なども身につけており、この短時間でそういう準備ができてしまうあたり、流石は良い家のお嬢様、といった感じだ。
「こちらです、ノール先生」
そうしてリーンの案内に従っていざ目的の店に辿り着くと、思ったより、こぢんまりした個人経営のレストラン、といった雰囲気だった。
「ああ、ありがとう……意外と、小さい店なんだな?」
「ここはいつも、家族で利用するお店なんです。ロロはずっと、このお店で修行していたんです」
「なるほど」
窓から中を覗くと他の人も普段通りの格好だったので、まずはほっと胸を撫で下ろす。
見知った人たちとはいえ、周りは偉い人たちだらけなので、そう考えるとちょっとだけ緊張するが、具体的にどれぐらい偉いのかも未だによく知らないので俺はいつも通りにするだけだ。
冷静に考えると、多分皆、国の重要な仕事を任されるぐらいには偉いのだろうと思うが、まあ、流石にどれだけ偉いと言ってもリーンのお父さんが「実はこの国の王様でした」なんてことはないと思う。
……ないよな?
「どうぞ」
勝手知ったる様子のリーンに導かれるまま、扉を開けて店の中に入ると、カランカラン、とベルの音が軽快に鳴り響く。
中へと進んでいくとたまに知らない顔の人もいるが、中にはリーンのお父さんや男性用給仕服を着たロロなど、見知った面々がいる。
だが、リーンのお父さんはロロと何やら真剣な表情で話し込んでいる様子だった。
「……なるほど。ララが『嫌な匂い』を感じ、急に興奮し出した、か」
「うん。急にすごく機嫌が悪くなって。今まで、こんなことはなかったんだけど……」
「わかった。心に留めておく。レインも聞いたな?」
「はい。確かに気になる話です。念の為、私はカルーに警戒を要請してきます」
「ああ。頼んだぞ、レイン」
険しい顔のリーンのお兄さんが俺たちと入れ違いで店の扉を開け、出て行った。
「お父様。ノール先生をお連れしました」
「おお、ノール殿。よく来てくれた」
「ララが、どうかしたのか?」
「……うん。ちょっと、機嫌が悪くって」
「リーンのお兄さんも忙しそうに出て行ったが……彼は食べないのか?」
「いや、後で合流する。何、こちらのことだ。ノール殿は気にせず楽しんでくれ。今日はもてなされる側なのだからな」
「じゃあ、そうさせてもらう……席は?」
「ひとまず、好きに座ってくれ。コース料理ではないから、あとで自由に動ける」
「わかった」
店の中を見回すと、ミルバがリーンに大きく手を振っている。
「おお、ようやく来たか、リンネブルグ! こっち! こっちじゃ!」
「……ノール先生、私はミルバ様とご一緒しても?」
「ああ、別に俺に構わず行ってきてくれ。俺は適当にやるから」
「では、失礼して」
リーンが俺に一礼してミルバの元へ行くのを見届けると、隅っこの方にポツンと座っているイネスを見つけた俺は『黒い剣』を邪魔にならなそうな場所に置き、彼女の所に向かう。後ろの壁にはレイが静かに立っている。
「イネス、昼ぶりだな」
「ああ」
「隣は空いてるか?」
「構わないが、ノール殿はこの席でいいのか?」
「好きにと言われたからな。しかし……昼にも思ったが、イネスが鎧姿じゃないのは新鮮だな?」
「……今は休職中の身だ。紛らわしい格好はするべきではない」
「なるほど。じゃあ、仕事を忘れていつもより気楽にいける、というわけか」
「いや、流石に顔ぶれを見ると気楽というわけにはいかないな」
イネスの視線の先では、ミルバがリーンと楽しそうに談笑している。
一方、こちらでは寡黙なイネスの背後でレイが所在なさそうに立ち、伏せた目で店内の様子をじっと伺っている。
賑やかな雰囲気のお店の中で、ここだけが静かだった。
まあ、だから俺もここにしたんだが。
「レイはずっとそうしてるのか? 椅子はあるし、座ればいいと思うんだが」
「……えっ? い、いえ。私はここで十分です。あくまでも護衛ですので」
「そうなのか?」
「いや、レイ。私はロロからは貴女の分の料理も用意すると聞いていたが」
「えっ? そうなのですか?」
「うん、そうだよ。レイさんもちゃんとお客様のリストに入ってるよ。料理も人数分用意してるから、どうぞお好きな席に」
「か、かしこまりました……? もしや、ロロさんも私のことが?」
「うん。姿は見えないけど、心の声はけっこう聞こえてた」
「────えっ」
テーブルの準備をしにきた給仕服姿のロロが微笑むと、レイは恥ずかしそうに俯き、しなしなとイネスの隣の椅子に座った。見れば、店の奥では同じく女性用の給仕服姿のシレーヌがいそいそとお客に出すであろう料理を準備しているのが見える。
「そういえば、ロロとシレーヌは食べないのか? お店の人のような格好だが」
「ううん。ボクらも一緒に食べるけど、今日はどちらかというと料理を作る側だから。実はそっちの方が楽しくて……シレーヌさんもお店を手伝ってくれてるし、最初はサービスさせて」
「そうか。じゃあ、楽しみにしている」
そうして用意された椅子がだいたい埋まったところで、リーンのお父さんが酒盃を片手に立ち上がる。
「では、ささやかではあるが宴を催そう。今日は隣国『魔導皇国』のミルバ殿を迎えた。大っぴらにはできない形での訪問なのでこぢんまりとした祝宴となったが、こういうのも個人的には悪くないと思っている。今日は気軽な会だ。皆、気兼ねなく楽しんで行ってくれ」
リーンのお父さんの短めの挨拶が終わると厨房から一斉に料理が運ばれてくる。
俺は早速、ロロの手で運ばれてきた大皿から美味そうな肉を皿に盛り、かぶりつく。
「────ロロ。この肉、すごく美味しい」
「それ、ボクが作らせてもらったんだ。ノールにそう言ってもらえると嬉しいよ」
「本当に腕を上げたな。俺も自炊はしていたが、こんなに上手くできる気がしない」
俺が照れるロロを褒めちぎっていると、背後ににこやかに笑う男性が立っている。
「……貴方がノールさんだね? ご来店ありがとう」
「ロロ、この人は?」
「このお店のオーナーで、ボクに料理を教えてくれたライオスさん」
「貴方のお噂は、かねがね。ロロくんからも妻からも、色々な話を聞かされていて、もう他人という気がしないけど……今日が初めましてだから、ぜひご挨拶をと」
「妻から?」
「……私から聞かせてたのはあんまり、いい種類の話じゃないけどね?」
店の奥に【狩人】の教官が立っている。
「そうか、じゃあこの人は教官の……え? 教官、結婚してたのか?」
「何よ。そんなに意外? 子供も3人いるわよ」
「勝手にもっと若いイメージを持っていたんだが……確かに、計算するとそれぐらいか。でも、見えないな?」
「……ま、今日はたくさん食べていきなさい。ロロも頑張ってたから」
「ああ、そうする」
教官の当たりが心なしかいつもよりも優しい。
おそらくは先日、お金を得た俺がようやく正しい使い道を見出し、子供の頃に俺が大量に壊した弓などの設備類の修復を申し入れたからだ。
教官は最初は「ああいうのも必要経費だから別にいらない」と断る姿勢だったが、最後には根負けして受け入れてくれた。
呆れつつもどこか嬉しそうにはしていたので、もうちょっと早くやるべきだったと思う。
「ノール殿」
そこに小さめの酒瓶を携えたリーンのお父さんが歩いてきて、俺の前に立った。
「どうだ、己と一杯? 貴殿がくると聞いて、倉庫から持ってきた」
「ああ、ありがとう。じゃあ、いただく」
「……では、私は一旦、席を外します」
「む? 気を遣わせて悪いな、イネス。そんなつもりではなかったのだが……」
「いえ。お邪魔にならないよう、失礼します」
イネスがそっと席を立ち、他のテーブルへと移っていく。
一緒にレイもそそくさと去っていく。
小さな酒瓶を手にしたリーンのお父さんは少し残念そうにするが、また笑顔となり俺の隣にどかっと座ると、早速盃に酒を注ぐ。
「どうだ? そこそこ値の張る酒だそうだが、初めて開けてみた」
「うん、確かに美味い……気がする。でも、俺は酒に詳しくない。正直、良い悪いはわからないな」
「はは、実は俺もそうだ。どれも腹に入れば一緒だと思っている。だが、これが俺が持っている酒の中で一番良いものでな。いい機会だから、持って来た」
「なんだか、悪いな? 大して違いもわからないのに」
「何、こういった機会でもないとずっと倉庫の奥に眠らせておくだけになる。ノール殿は酒は苦手か? 弱ければこれ以上は控えるが」
「いや、弱くはない。苦手でもないし、どちらかというと好きなほうだ」
「ではこの際、他のものも空けてしまおう。遠慮はいらない、どんどん呑んでくれ」
そう言って、リーンのお父さんは俺の空になった盃に豪快にドクドクと注いだ。
「もう、聞き飽きたかもしれんが……ノール殿の活躍には、改めて礼を言わねばならん。娘のことも含めてな」
「何度か言ったが、俺は大したことはしていないぞ。むしろ、リーンには世話になり続けている」
「はは、貴殿はそう言うだろうと思ったが。ここにいる誰一人、そのように思っているものはおらん。この己を含めてな」
そう言って傷だらけの顔に笑みを浮かべ、自分の盃にも酒を注ぐ。
「それにしても、誰かと酒の席を共にするなど本当に久々だ。いや、酒自体が久々か」
「普段は飲まないのか?」
「ああ。立場上、心配事だらけで酒を飲む気にならん」
「大変だな?」
「まあ、上の役職になると、心配が仕事のようなものだからな。本来、能天気な己には向かん。こうして何も考えず、のんびりと過ごすのが性分には合っている」
しばらく俺たちは盃の酒に口をつけつつ、何をするでもなく賑やかな店の中を眺めていたが、リーンのお父さんが俺の盃に酒を注ぎ、こう切り出した。
「……実は、ノール殿に少し話があってな。いや、話というか、どうにもならん愚痴のようなものだ。少々酒を不味くするような話題ですまんが、他にこんなことを話せる相手も見当たらん」
「ああ。俺でよければ聞く。そういうのは得意だ。翌日にはすぐ忘れるが」
「はは、それで構わんよ。まあ、酒の席でよくある中年のつまらぬ戯言とでも思ってくれ。話というのは……他ならぬ、娘のことだ」
「リーンの?」
俺は盃片手に、無言で話を促した。
「……リーンは、イネスのことで、だいぶ気に病んでいる。例の『恩寵』の力を失ってしまったのは自分のせいだと」
「どうして、そうなるんだ?」
「なんでも、サレンツァで『砂の巨人』と対峙したのは間接的にはリーンの命令だったのだそうだ」
「そういえば、砂の巨人がイネスと同じような『光の盾』を使っていたが……やっぱり、あの時無くなってしまったのか?」
「ああ。そのタイミングだろうと聞いている」
リーンはミルバと談笑しつつ、時折、チラチラと窓際に立つイネスに視線を注ぐ。その顔は笑顔ではあるものの、よく見ればいつものような元気がない感じがする。
「……確かに。あまり楽しんでいるようには見えないな?」
「貴殿と一緒にいるときは多少、表情が明るくなる。だが、普段はずっとあんな感じだ。イネスの一件に責任を感じ、自分がどうにかしなけばと思い詰めているようだ」
「なるほど。リーンはちょっと、真面目なところがあるからな」
「ああ、思いやりがあるのはいいことだが……その中には大抵、自分のことは含まれていない。己はそこが心配でな」
「そういえば、ミスラの時も凄かったな。あの『骨』の怪物を倒した時はドレスも腕も、すごいことになっていた」
「……あの子はいつもそうだ。自分がこうだとやるべきことを決めたら、何を犠牲にしてでも成し遂げようとする。全く、誰に似たのやら」
俺はリーンのお父さんの酒盃が空になっているのを見て、酒を注ぐ。
「……イネスもリーンも、己にとっては両方が娘のようなものだ。だから、今の状態が不憫でならぬ。どれもこれも、送り出した己に責があるのでな」
「そんなふうに考えなくてもいいんじゃないか? いくら立場が偉くたって、起きることを全部予想しようだなんて無理がある」
「はは、そうだな。ノール殿の言うことはどれも真理めいて聞こえるが。染み付いているのだろうな。責任を問われる立場は甘んじて理不尽を受け入れねば、務まらん」
「よくわからないが、大変だな。偉い人というのは」
「己も向かない役職についてしまったものだ。時折、本気で誰かに代わってもらいたいと思う時がある……どうだ、ノール殿? 一日ぐらい、俺の代わりをやってみる気はないか? いや、一日と言わず、一年ぐらいでも」
「……それは流石に無茶だろう? 第一、何をしていいかわからない」
「はは、冗談だ。だが、貴殿の立場が本当に羨ましくてな。自由というものは失ってみて、初めてその尊さがわかる。俺も権力の座についてわかったが、本当に不自由だぞ? 引き換えにできることは多少、増えるがな」
「……今の立場が気に入ってないのか?」
「いや。俺の人生に概ね、悔いはない。だが……そうだな、そう言えなくもないか。可能なら今からでも自由になって、やりたいことはある」
そう言って、リーンのお父さんは顔を上げた。
「あの子のためには、己が王都を去るべきだったのかもしれない。あんなに母親に懐いていたというのに……可哀想なことをした」
そうして、しばらくリーンの横顔をじっと見つめた。
「……すまん、ノール殿。少々酔いが回ったようだ。今のは忘れてくれ」
「別に、愚痴ぐらいならいくらでも聞くが」
「……いや。約束で、死ぬまで秘密にしなければならない話だった。まぁ、どの道、湿っぽい話だ。この場にはそぐわん……せっかくの楽しい酒を冷ましてしまったな」
「いや、そんな事はない」
「どれ、景気付けに新しい酒を開けよう。今日はとことん……」
リーンのお父さんはテーブルに置かれた新たな酒瓶の口を開け、俺に注いでくれようとした。
だが────
「────……」
「……どうした?」
急にリーンのお父さんの上体がぐらりと揺れ、のけぞったかと思うと、そのままドカン、と勢いよくテーブルに突っ伏した。
心配して声をかけるが、全く返事がない。
酒に酔って、寝てしまったのだろうか……?
とも思ったが、どうも様子がおかしい。
「……これは……?」
誰も騒がないことを不思議に思った俺が店内を見回すと、他の人も同じように様子がおかしくなっていることに気がついた。
まず、リーンがミルバと一緒にぐったりと椅子の背もたれにもたれかかり、気持ちよさそうに寝息を立てている。その横で、給仕の途中だったのか、ロロが銀色のトレイを持ったまま床にうつ伏せに寝転がり、窓際に立っていたイネスもその場に崩れるようにして自分の腕に顔を埋めている。
他の人もテーブルに突っ伏すか、或いは料理が盛られたお皿に顔を埋めたまま、ぴくりと動こうともしない。
皆、それぞれがおかしな格好でスヤスヤと寝息を立てている。
全員が、少しの物音では目覚める気配がないほどに、ぐっすりと眠っているようだった。
おまけに夜だというのに窓の外がやけに明るく、奇妙に思った俺が慌てて窓から外を眺めると、王都中に濃い霧のようなものが立ち込めている。
(まずい)
異変を感じた俺は咄嗟に店の中に置いた『黒い剣』に歩み寄ろうとしたがその途中で足がもつれ、顔から床に突っ伏した。
軽い衝撃と同時に、強烈な眠気が俺を襲う。
これは一体、なんなのだろうと思っているうちに、どんどん瞼が重くなり、体中から力が抜けていく。
「…………う」
そうして、周囲の様子に慌てふためく一人の女性を視界に入れたのを最後に、俺の意識はプッツリと途切れた。