211 出版依頼
「────念の為、言っておくが。これは俺が実際に見聞きし、体験した話だ。そういうものだと思って聞いて欲しい」
建築資材の山の上に俺が立ち、その前で子供から大人まで、幅広い層の聴衆が静かに耳を澄ませている。
今、俺が話しているのは『砂の巨人と俺』という新作だ。
恒例の『土産話』の時間だが、どういうわけか前よりもずっと人数が多くなっている。
「砂の巨人が振り下ろした腕が、俺の視界いっぱいに拡がり、砂漠の街の空を覆い隠した。だが────」
俺は『黒い剣』をゆっくりと下から上へ、軽く打ち上げるような動作をした。
「俺はこの剣を、こう振るった。すると巨人の腕はたちまち爆散し、半身ごと消え去った。そうして、俺は何度となく再生しては襲いくる赤黒い巨人の腕を打ち払い、その度に巨人は二歩、三歩と後ずさった」
俺はそのまま身振り手振りを交えながら話を続ける。
『黒い剣』を振るたび、前の方に座っている子供達がきゃっきゃと笑い、俺の話を聞き慣れた同僚たちが、いつものように笑顔でヤジを飛ばしてくる。
「おいおい、ノール。今回のはまた一段と話のスケールがデカいじゃねえか? 流石に盛りすぎなんじゃねえの?」
「この馬鹿馬鹿しさがいいんじゃねえか。盛り上がってる所で口挟むんじゃねえよ」
「しかし、いつも感心するけど、本当に見てきたように話すよなぁ……?」
「実際、自分の目で見てきたことばかりだからな。分かりやすくするために、ちょっとばかり脚色はしているが」
「これで、ちょっとか。お前、本当にそっちの才能あるんじゃねえの?」
「ちょっと、おじさんたち! 邪魔しないでよ!」
「ねえ、続きは!?」
「お、おう。悪い悪い。つい、いつもの調子で……ノール、続けてくれ。おい、お前らも真剣に聞いてる子供達の邪魔すんじゃねえぞ?」
「……最近、客層、変わってきたもんなぁ……?」
確かに、子供の数が圧倒的に増えている。
以前から話を聞いてくれている強面の同僚たちは、肩身が狭そうに身を縮め、俺はそのまま話を続ける。
「────砂の巨人と俺の剣が触れ合うたび、辺りに小規模な地震がいくつも起き、周りの建物はいくつ崩れたかもわからない。でも、そいつはまだ楽な方の相手だったんだ。図体は雲を貫くほどに大きいが、一撃の重さは意外に大したことはなかったからな。困ったのは、そいつの次の行動だ。なんと急に空へと昇り、「星」になってしまったんだ」
「星?」
急な話の展開に小さな聴衆たちは一斉に首を傾げた。
先ほどヤジを飛ばしてきていた大きな聴衆たちも後ろで一緒に首を傾げている。
「と、言っても、本当に星になったわけじゃない。そこの露店で売っているキザギザした砂糖菓子みたいな形の物体が、いきなり空に浮かび上がったんだ。ソイツはまるで本当の星のようにキラキラと輝きながら、俺の遥か頭上にじっと留まり、何かを企んでいるようだった。でも、そんな時にも頼れるヤツはいる。途方に暮れた俺が空を見上げると、そこにはたまたま空飛ぶ船に乗った、頭がボサボサの片目片腕の知り合いが────」
「……空飛ぶ船? そんなの、あるわけないじゃん」
最前列に座っている細目の少年がボソリ、と呟いた。
一方、その隣に座っていた女の子が目を輝かせて声を上げる。
「あっ、それ知ってる! ミスラの『飛空艇』でしょ!」
「そうだ。よく知ってたな? 空飛ぶ船に乗ったソイツは名前を『【星穿ち】のリゲル』と言って、その名の通り、一撃で輝く星を撃ち砕たんだ。あれは本当に綺麗だった。砕けた星の破片はまるで雪のように砂漠の街に一斉に降り注ぎ────」
「それで、ハッピーエンド?」
「……だと、俺も思った。でも、そいつはまだ生きていた。全てを貫かんばかりの強烈な一撃を受けながら、『光の盾』で身を守っていたんだ。そうして、一層強烈な嵐を身に纏ってより凶暴化し、近づくモノ全てを切り裂かんばかりの大災害となった」
「じゃあ、もう無理じゃん」
「……そう思うだろう? でも、とんでもない弓の達人である、【雷迅】のシレーヌがそんな嵐の中で数千では効かない大量の矢を一斉に舞わせ、あっという間にそいつにトドメを刺したんだ。結果、辺りに舞っていた強烈な砂嵐は綺麗さっぱりなくなって、今度こそ全部終わり…………と、思いきや」
「まだ、何か出てきたの?」
「ああ。最後の敵の出現だ。なんと砕けた石の中から、銀色の鎧を着込んだ人形みたいな化け物が飛び出てきて、そいつは目にも止まらぬ速さで俺に斬り掛かってきた。だが────」
俺は片手に持つ『黒い剣』を水平に寝かせ、ゆっくりと薙ぎ払うような動作をする。
「俺はその度にこうして剣を振るい、そいつが振り回す銀の刃を砕いていった。そうする内に相棒がそいつを切り刻み、ヤツは結局、粉々の光の破片となって、あっという間に消えた。まるで、最初から夢か幻だったかのように跡形もなく。でも、そいつは最後に笑っているように見えたんだ。まるで世界の全てを祝福するかのように、とても幸せそうに消えていった」
「……変なの。敵なのに?」
「そういう話なんだ。これが『砂の巨人と俺』という新作だ」
そうして俺は一息つくと、熱心に聴いていてくれた子供たちに向き直った。
「悪いが今日はここまでだ。また聞きたければ明日同じ時間に来てくれ」
「……ちぇ、もう終わりかよ。また明日とか、だるぅ」
ここのところ毎日聴きにきてくれている少年は、そう言ってつまらなそうに席を立った。口ではそう言っているが、いつも早くから最前列に陣取り、一番熱心に話を聞いてくれていて、俺はここのところ、彼のために話術を磨いているようなものだった。
少年が立ち去ったのを合図に他の人々もまばらに散り、何事もなかったかのように去っていくが、その顔はどこか晴れやかで、少しは楽しんでくれたんじゃないかという気持ちになる。
「今日もなかなか良かったぜ、ノール。サレンツァで噂になってる『砂の巨人』とか、微妙に実話を入れ込んでるのも巧妙だった。やっぱお前、創作のセンスあるよ」
「そう言われると照れるが……全部、本当にあったことだからな?」
「わかってるって。そのうち、本当にそう思い込むヤツが出ちまってもおかしくねぇってぐらい臨場感たっぷりだった。最後列に居た爺さんまで盛り上がってたぞ?」
「それは嬉しいな」
「また話芸に磨きがかかってんじゃねえのか? もう大道芸として金取れるレベルだろ」
「いや、そういうのはいいんだ。金をもらおうと思って始めたことじゃないし、俺は皆に楽しんでもらえればそれでいい」
「お前、本当に変わってるよ。ま、だんだん子供の数も多くなってきたし、それでいいのかもなぁ?」
辺りを見回すと、話を聞いていた子供たちが満足げにそこらの木の枝を手に取り、互いに振ってはしてはしゃぎあっている。
それと俺が話の中に出したせいか、露天の星形のお菓子がいつもより売れているらしく、店番が忙しそうだった。
「そうだ。例のお前の話を「本にしたい」って話、考えてくれたか?」
「本? なんだ、それは」
「おいおい、前に言ったろ? 『印刷ギルド』の職員がお前の話を出版したがってるって」
「ああ、そういえば。そんなことも聞いたような?」
「その人、ウチのカミさんの昔からの知り合いでさ。今日、会いにくるって言ってたんだけど……おっ、噂をすれば」
ふと、同僚の男が手を振った先にいる、数冊の本を抱えた眼鏡を掛けた女性と目が合った。
彼女は足早に歩いてくると、まずは俺に小さくお辞儀をした。
「ご挨拶が遅れて失礼いたしました。ノール先生でしょうか?」
「ああ、ノールは俺だが……先生?」
「私、王都の『印刷ギルド』の企画室長をしております、アカリと申します。先生の創作された『巨きなゴブリン』、『竜と戦った話』、いつも大変面白く拝聴いたしまして、また本日の『砂の巨人と俺』も大変興味深く聞かせていただきました」
「ありがとう。そう言ってもらえると自信がつくが……でも、念の為に言っておくが、俺の話はどれも創作じゃなく、本当にあった話だからな?」
俺が念の為、眼鏡をかけた上品な女性にそう言うと、女性はパッと目を輝かせた。
「な。こいつ、普段からホントに言うだろ?」
「は、はい。噂は本当だったんですね……!」
同僚の男と何やら笑顔で目を合わせた女性は、真剣な表情で俺に向き直る。
「先生の聴衆の夢を壊すまいとする、創作者としての真摯な姿勢に改めて感銘を受けました! つきましては、是非とも、弊ギルドでの出版をご検討いただきたく……まずはどうぞ、こちらをご覧ください!」
「これは?」
俺は女性が大事そうに抱えた本の内の一冊を受け取り、パラパラとめくる。
「過去に弊ギルドで実際に出版に至った書籍です。弊ギルドの特色として、王都で人気のある『冒険活劇もの』を多く取り扱っております」
「……凄いな。最近のはこんなに挿絵が入るのか」
「弊ギルドは「誰でも読みやすい本を」をモットーに制作しておりまして、物語作品の挿絵には特に力を入れるようにしております。先生のお話は特に子供から大人まで幅広く人気があり、すでに複数の版画作家さんが乗り気になってくれています」
「それは、面白そうだな」
「それと……できれば、こちらもご覧ください」
四角い革鞄から分厚い紙束を大事そうに取り出した女性は、それを俺にさ差し出した。
「これは? なんだか、見覚えのある文章だが」
「実は、こちらは先生が広場で口述されていた物語を、勝手ながら私が書き起こしたものとなっております」
「……君が?」
「大変お恥ずかしいのですが、あくまでも、先生にイメージをつかんでいただくための仮のものでして。正確性などはご容赦いただければと思います」
「……すごいな、もうほとんどできてるんじゃないか?」
「実際に書籍にする際は文章のニュアンスなど先生のご意見を慎重に伺いながら、専門の職員と一緒に進めていけたらと思っております。仮のものですが、もちろん、先生のお話の定番のフレーズ、『────これは、俺が実際にこの目と耳で見聞きし、体験した話だ』から始まるようになっております」
「本当だ」
俺は女性に渡された本をしばらくの間、眺めていた。
どれもとても丁寧な作りで、最後には『著者あとがき』がついていて、その本が出版された経緯が簡単に記されている。
女性が言い出しにくそうに、俺の顔を覗き見る。
「……それで。私としては是非とも、先生のご著作を弊ギルドにて出版を頂けましたら、と思っているのですが。もちろん、大事な作品かと思いますので、慎重にご検討いただいた上で────」
「わかった。もう、このまま進めてくれ。面白そうだ」
「────よっ、よろしいのですか!?」
女性の眼鏡の奥の瞳が輝いた。
「ご承諾、ありがとうございます! ……と、この場で申したいところですが。事前に弊ギルドにて出版の際に先生にお支払いする報酬などを詳細にまとめさせていただき、正式なお返事はその時にいただければと!」
「報酬? いや、そういうのは別にいいんだが」
「お、おいおい。流石にもらっとけよ? 慈善事業じゃあるまいし。この人らもそれで儲けようって話だぞ?」
「はい。先生のお話は初版での売り上げが見込めますので弊ギルドとしては、最大限に先生に有利な条件でおまとめし、再度ご提案させていただきます。ではひとまず、私はこれにて失礼致します! まずはご検討いただき、ありがとうございました!」
女性は忙しく頭を下げると、大量の本を抱えながら足早に去っていった。
「なんだか、忙しい人だな」
「でも、悪い人じゃなさそうだろ?」
「ああ。それにしても俺の話が本に、か。夢みたいな話だ」
「別に不思議でもなんでもねえだろ。『巨きなゴブリン』なんて、王都の子供ならもう誰でも知ってるぐらいに人気だしな。それで、わざわざお前の話聞きに来るよりも、いっそ、本として欲しいっていう客がわんさかいるんだよ。せっかくだから、儲けとけ」
「でも、俺はそういう目的で始めたわけじゃないんだが」
「おいおい。欲がねえのも、いい加減にしとけよ? そのうち悪い奴に利用されて、何もかも……」
「────ふむ? 貴様が、あのノールか」
気づけば、傍に小柄な少女が立っている。
少女は俺を足先から頭までまじまじと見つめ、鼻から小さく息を吐き出した。
「ふん。体格はなかなかのようじゃが……思っていたより、のほほんとして覇気がないのう? こんなのがあの『黒い剣』を片手で振るい、【厄災の魔竜】を手なづけたというのか?」
腕組みをしならじっと俺を見上げている少女に、俺と隣の男は目を見合わせた。
「ノール。誰だ、この子?」
「いや。俺も知らない」
「ん〜? あぁ、となると。なるほどなぁ。お前も随分と有名になったじゃないか。友達として鼻が高いぜ」
「どういうことだ?」
「どう考えても、ファンだろ。お前の」
「ファン?」
「どうやらその子、完全にお前の話を信じ込んじまってるみたいだな。はは、創作者としちゃあ、光栄なんじゃねえか? じゃ、俺はもう帰るが……くれぐれも、子供の夢を壊すんじゃねえぞ。ま、お前には言うだけ野暮だろうが」
男はそう言って、笑いながら手を振って去っていった。
残るはふんぞり返るように腕を組んで足場の上に立つ、偉そうな口調の少女のみ。
見たところ、彼女の年齢は十歳前後と言ったところだが。
「君と俺は、前にどこかで会ったことはあったか?」
「いや。直接の面識はないかのう? 話は人伝てに聞いただけじゃ」
「この辺ではあまりみない服装だが。もしかして、遠くから来たのか?」
「ほう。よくわかったのう? 儂の住まいはここから少々、遠くてのう」
「じゃあ、今日はどこかに泊まってるのか? お父さんやお母さんは?」
「父も母も既にこの世にはおらぬ。儂が物心つく前に逝ってしまったのう。寝所は今日のところはまだ決めておらぬが、最悪、星空を眺めて眠るのも悪くあるまいて」
「……帰る家はあるのか?」
「あるにはある。しばらく帰らずとも良いよう、しかと家人に書き置きは残してきたから、安心せい」
……なるほど。
つまり話を総合すると、この子は『家出少女』ということになる。
「……参ったな」
「ノール先生?」
困った俺が頭を掻きながら少女と向き合っていたところ、背後から聞き覚えのある声がした。振り返ると、そこにはリーンがいた。
「リーン。久々だな」
「はい。ご無沙汰しております。この前のサレンツァの件では本当にお世話に……えっ? そっ、そちらの方は!?」
「おお、久しいのう! リンネブルグではないか! 奇遇じゃのう。先日の会合以来じゃな」
「ん? 二人とも、知り合いか?」
「は、はい。し、しかし、陛下がなぜ、王都に……?」
「陛下?」
「本来であれば、国を挙げてお出迎えしなければいけないはずですが……まさか、お一人で?」
リーンに陛下、と呼ばれた少女は少し渋い顔をした。
「良い良い。リンネブルグ。堅苦しいことは苦手じゃ。外交の場でもあるまいし、このような街中で儀礼的なやり取りなど必要なかろうて」
「し、しかし……?」
「どいうことだ、リーン。この子どもは……?」
「……このお方は、隣国、『魔導皇国』の第四代皇帝ミルバ様です」
「皇帝? この子が?」
俺は腕組みをする少女の顔をまじまじと見つめた。
そういえば、あの老人の後は孫が継ぐ、と言っていた。その孫はまだ幼い子供らしいというのも、なんとなく覚えがある。
「ってことは。例の、金ピカ老人の?」
「……はい。ミルバ様は先帝、『デリダス三世』のお孫さんでいらっしゃいます」
「本当に良いところであった、リンネブルグ。あとでお主の父君にも、ちと頼み事があるのじゃ」
「は、はい。陛下のご希望とあれば、もちろんお連れいたしますが……?」
「じゃが、まずはその前に。儂がここを訪れた最初の目的を果たさねばなるまいな」
腕組みをしていた少女はゆっくりと姿勢を正し、俺へと真っ直ぐに向き直った。
「……ノール。お主にはまず、儂から心からの謝罪を伝えておかねばならぬ。儂が、この国を訪れた第一の目的はそれじゃ」
「謝罪?」
「我が友リンネブルグより伝え聞いた通り、儂の祖父はあの『デリダス三世』じゃ。祖父の暴走を食い止めてくれたのは他ならぬ、お主じゃと聞き及んでおる……本当に迷惑をかけた。この通りじゃ」
そう言って、少女は俺の前でしっかりと頭を下げた。
「……ミ、ミルバ様?」
「いやいや。待ってくれ。別に俺は何も気にしてないぞ?」
「お主がそういう人物であるということは聞き及んでおる。じゃが、身内のしでかしたことがしでかした事じゃ。孫の儂も、本来であればこの場で王都の民に首を落とされようと文句は言えぬ。じゃが……儂も既に多くのことを負わされた身。ただ赦しを乞い願うしかないのが歯痒いところじゃな」
街中で幼い少女に頭を下げさせている俺に、周囲を行き交う人々がざわざわと横目に視線を注いでいる。
「……いいから、頭を上げてくれないか? 第一、お爺さんがやったことは孫には関係ないだろう」
「そうは言うがのう。彼奴に『血』が連なる者としての責、というものもある。当人が望む望まぬに関係なく『生まれ』として与えられたモノからくる責任がな。儂はすでに祖父から多くのものを受け継ぎ、負うている。お主への心からの謝罪もその中の一つじゃ」
周囲からの奇異な視線にも関わらず、ミルバはずっと俺に頭を下げ続けている。
「このような場での、簡易的な謝罪となったことも詫びねばならぬ。ランデウスの奴が、皇帝としての威厳を保てと煩くてのう。十かそこらの小娘に威厳も何もないものじゃが、既に一つの国家を代表する身となり、私的な理由で好きに頭を下げるわけにもいかぬ。すまぬが、理解してくれ」
「……わかった。もういいから」
見かねた俺に抱き起こされたミルバは、うっすらと目に涙を溜めた顔を上げると、俺ににっこりと笑みを向けた。
「────と、いうのは半分は建前でのう。あんなのでもやはり、儂の祖父なのじゃ。お主の働きがなければ、祖父は既にこの世にはなかった。命を救ってくれたお主に、一人の孫娘として礼を言わねばなるまいと思ってな。戦争犯罪人への情など、あまり表立っては口にできぬが……正直にいえば、お主にはいくら感謝してもしきれぬと思っておる。実のところ、そちらが本題じゃよ。監視付きでは、満足に感謝も伝えられぬからのう」
そう言って微笑みつつ、自分の目から落ちそうになった涙を指先で拭った。
「あの老人は、元気か?」
「……あの体たらくを元気と言っていいやら、皆目わからぬが。世話役の話では毎日何をするでもなく、ただ空をぼーっと眺めてばかりいるそうじゃ。あのまま密やかな余生を過ごすつもりなのじゃろう。前のような過ちだけは、二度と起こさぬと断言できよう」
「元気ならいいんだ。あの後、彼がどうなったのかと心配していたところだったんだが。ひとまず、無事でいてくれたようでよかった」
俺の答えに、目元を泣き腫らした少女は小さくふん、と鼻を鳴らした。
「────本当に、聞きしに勝るお人好しじゃ。ランデウスの奴があれほど持ち上げておった理由がよくわかる。いかにも奴が好きそうな裏表のない男じゃな……うむ。儂も好いたぞ、ノール。お主は今時珍しい、なかなか気味の良い好漢じゃな!」
年寄りくさい口調の少女はそう言ってバンバン、と嬉しそうに俺の背中を叩いた。
少し痛いが、その顔に年相応の笑みが戻ってホッとする。
だがふと、背後に刺すような気配を感じ、思わず俺は振り向いた。
「……ん?」
見れば、建物の影の中に白い髪の女性が静かに佇んでおり、こちらをじっと見つめている。
「ノール先生? どうかしましたか?」
「さっきから、妙な視線を感じていたんだが……あの人がなぜか、ずっとこっちを見ているんだ」
あの人も俺に何か用事だろうか? と、思ってこちらを覗いている女性を見返すと、彼女はまずは不思議そうな顔をして、ハッと気がついたように自分の背後の壁に素早く振り返った。
当然、そこには誰もおらず、女性は怪訝そうに首を傾げながら、また俺に目を戻す。
……何をしてるんだろう、あの人は。
「あそこに、誰かいるのですか?」
「ん? ほら。あそこに不思議な雰囲気の、背が高くて髪の長い女性がじっと動かずにこちらを見つめているだろう?」
「儂にも何も見えんぞ」
「見えない? そういえば、どういうわけか、けっこう目立つ格好なのに、行き交う人はまるで彼女のことが見えてないみたいに────」
……と。
俺はそこまで口して、ハッとした。
これは、非常にまずいかもしれない。
おそらくリーンにもミルバにも、彼女の姿が全く見えていない様子だった。
街ゆく人たちは引き続き、妙に目立つ格好の彼女の前をそこに何もないかのように素通りする。
この状況はどう考えても、怪談などでよくある『対象と絶対に目を合わせたらいけない』種類のやつだった。
「……い、いや。やっぱり、あそこには何もいない。気のせいだった」
「ノール先生?」
「誰も立っていないし、彼女もこちらを見ていない。リーンも、頼むから何も聞かなかったことにしてくれ」
「は、はい……?」
「────あ、あの」
「ッ!?」
────ほら、来た。
…………来て、しまった。
遠くに立っていたうっすらとした存在感の彼女は、いつのまにか音もなく俺の背後まで回り込み、不思議そうに俺の横顔をじっと眺めている。
やはり目を合わせたのも、話題にしたのすらいけなかったらしい。
全力で無関心を装う俺の肩越しに、女性の細い声が届く。
「もしかして……私が、見えていますか? まさか……声も?」
「だ、大丈夫だ。俺は何も見ていない。た、頼むから、もう────」
────この世に未練なく、安らかに向こう側に旅立ってくれ。
と真剣に願いつつ、震えながらチラリ、と声のする方に振り返ると。
「ん? 人間か?」
「えっ? ほ、本当に?」
どうやら、それはちゃんとした生身の女性のようだった。
「……なんだ、俺はてっきり……」
「な、なんじゃお主……!? なぜ突然、虚空に向かって話しかけては驚いておる……!?」
「ノ、ノール先生……? そ、そこに誰かが……?」
一方、二人は青ざめた顔で俺を眺めて狼狽えるばかり。
じゃあ、やっぱり彼女は幽霊では……?
と、また一瞬だけ思ったが、俺はその女性のことを思い出した。
少し前に、この人には会った憶えがある。
「君はもしかして。あの時の?」
「……あ、あの時、とは?」
対して、向こうは忘れている様子だった。
「ほら。ずっと前、俺が街中の『牛』を倒した後に。確か、他の数人の怪しい男たちと俺の後を追いかけていただろう? あれは君じゃなかったかと思うんだが」
「ま、まさか……私のことを覚えていてくださったんですか……?」
「ああ。一人だけ、他の人と違って目立つ格好だったから」
「……めっ、目立つ? わ、私のことが、見えるだけでなく?」
女性はしばらく、放心したように硬直していた。
だが、やがて胸の前で握った両手をわなわなと震えさせると、突然、しくしくと泣き出した。
「……どっ、どうした?」
「すみません。思わず、嬉しくて」
そう言って、女性はしばらくそのまま、静かに泣き続けた。
……どうしよう。
どう考えても、俺が泣かせた格好になっている。
理由が全くわからず、俺はただその場に立ち尽くすしかなかったが、その女性はハッとしたように涙を拭うと、すまなさそうな顔で俺に向き直り、深々お頭を下げた。
「────大変、失礼いたしました。私は、『隠密兵団』副団長を務めております、レイと申します。実は上の者より暫くノール様の身辺の警護をせよ、と仰せつかりまして」
「俺の身辺の警護?」
「……は、はい。つきましては、誠に勝手ながら、もし、何も不都合がなければなのですが、お邪魔にならない程度の範囲でほんの少しの間だけ、可能な限りおそばに置かせていただけましたら……と」
「なるほど? よくわからないが、仕事なら別に構わない」
「……なっ、なのに。私は人知れず、護衛を務めるお役目であるはずなのに! こ、この度は大変、目立ってしまい! ご、ご迷惑をおかけして……!」
「いや、いい。大丈夫だ。特にそんなに目立ってない」
路上に手をついて本気で謝罪を始めようとした彼女の姿は、不思議なことに時折、うっすら透けて見える。
存在感が希薄、というのもちょっと違う気がするが。
やはり、行き交う人々は彼女のことを全く視界にも入れておらず、俺を訝しい目で見てくる。
一方、俺の様子をずっと伺っている二人は真っ青な顔になっている。
「……ノ、ノールよ。一体、さっきから誰と話しておるのじゃ?」
「やっぱり、二人には彼女が見えていないのか?」
「は、はい……彼女? 失礼ながら、どなたか伺っても?」
「彼女自身はレイ、と言っている。俺を護衛してくれるつもりだと」
「……レイさん? あっ、そういうことですか!」
「なんじゃ、リンネブルグ。心当たりが?」
「ええ。王都にはそういう方がいらっしゃるんです。誰にも姿を認識されないという、イネスと同じような『恩寵』をお持ちの方が」
「……そうなのか?」
「は、はい。リンネブルグ様のおっしゃる通り、私は生まれつきそういう体質でして。そのせいでこれまで誰にも……はっ!? し、失礼いたしました……! このように、ただの護衛役が、護衛対象と馴れ馴れしくお話しするのはいかがなものでしょうね! わ、私は引き続き、そのあたりの適当な壁の隙間にでも挟まっておりますので、おっ、お気遣いなどは今後とも結構です……!」
「じゃあ、そうさせてもらうが」
「あ、あくまでも私は護衛役として、ノール様の身辺をお守りするためにいるだけの、ごくつまらない存在ですので。ど、どうぞ今後とも壁のシミのひとつだとでも思ってお気になさらず……!」
「……なるほど?」
女性は少々卑屈なことを言いながら、器用に人混みを避けながら素早く後ずさっていった。
「そういえば、リーンはどうしてここに?」
「実は……少し前から、イネスにあまり元気がなくて。何か栄養がつくものを家でロロに作ってもらおうと思って、市場まで買い出しに行こうとしていたのですが」
「……イネスはまだ、体調が悪いのか?」
「身体自体はもう、なんともないそうなのですが……最近はあまり外にも出ていない様子なので、心配で」
「それは確かにちょっと心配だな」
「なので、ミルバ様を父のところにご案内した後、また市場に行こうと思うのですが……」
「こら、リンネブルグよ。気を遣うでないと言うたであろうが。用事があるのであれば、済ませてからで良い。儂のは特に急ぎではないからのう」
「であれば……王都のご案内も兼ねて、ぜひ市場をご一緒しましょう!」
「うむ。頼む。楽しみじゃ!」
「じゃあ、ついでに俺も一緒に行っていか? 久しぶりにロロとも会いたいし」
「ありがとうございます。彼女もロロも、きっと喜ぶと思います」
そうして、俺たち四人は市場でちょっとした買い物を済ませると、リーンの家に向かった。