19 不穏な動き
王子は外出用の灰色の外套を身につけたまま執務室の机に向かい、難しい顔をしていた。
つい先ほどまで、王子は自ら街へ出て情報を集めてきた。
だが、有用な情報は一つとして得られなかった。
目にした王都の姿は平穏そのものだった。
だが──。
「一刻も早く手がかりを得て、対処をしなければ──」
王子は思う。
これから必ず、何かが起こるはずだ。
その予兆を探さなければならない。
諜報部隊員には出来る限りの情報を集めるように指示をしてある。
最近起きた、どんな小さな異変も見逃すな、と。
市井に転がる些細な情報から重要な出来事に連なる断片を拾い上げること。
それが今の自分の仕事だ。
七年前に一五歳で成人を迎えてからというもの、「お前は国内の状況を誰よりも理解し、部下を使って適切に対処しろ──」──それが父である国王が自分に命じた、唯一のことだからだ。
今行なっているのは、人を使った市民への聞き込みだ。
堅実な手順であることには違いがない。
だが、そんな悠長な調査をしていて、この逼迫した状況で成果が上がるのか……不安にも思う。
──時間が足りない。手も足りない。
王子は今、焦っていた。
「誰か来た……な」
不意に廊下に足音を感じ、王子は読んでいた機密扱いの調査資料を棚に戻した。
この軽い足音、参謀のダルケンではない。
とすると、調査の指示を出した諜報部隊の誰かか。
少し待つと、誰かが扉をノックする音が聞こえた。
「火急の報告に参りました」
「入れ」
「は」
男は扉を開けて執務室の中に入ると敬礼し、口を開いた。
「……申し上げます。『魔獣の森』に『ゴブリンエンペラー』が出現しました」
王子はその報告に驚いて立ち上がり、被ったままになっていたローブのフードを払いのけた。
「ゴブリンエンペラーだと……? 被害は……!?」
「既にゴブリンエンペラーはリンネブルグ様とノール殿の手によって討伐された、とのことです。その為、表立った被害は確認できておりません。近場で待機していた監視役が駆けつけ、後の調査と対処をしています」
「リーンと、あの男が……?」
ゴブリンエンペラーは少なくとも、『ゴブリンキング』と同じ「A級」の危険度に分類される。
金級冒険者が束になって対処して、初めて討伐できるレベルだ。
確かに『ミノタウロス』を仕留めたあの男と一緒であれば、倒せても不思議ではない。
だが、もし一人であったなら。
──リーンが一人であれば、最悪、殺されていたかもしれない。
王子の額を冷や汗が伝った。
「その後、我々もリンネブルグ様とも接触し、状況を確認したところ、これを手渡されました。ゴブリンの額に埋め込まれていたものです。先日と同じ、かなり高純度の魔石です」
「例の、『ゴブリンエンペラー』に力を与える為に埋め込まれる魔石、か──待て、なんだこれは……!? こんなものが、ゴブリンに埋め込まれていたというのか……!?」
『ゴブリンエンペラー』の製造は、ゴブリンの表皮に魔石を埋め込み、膨大な魔力を注ぎ込むことで『ゴブリンキング』と同等以上の力を持つ魔物を人為的に作り出す邪法──制御不能になりやすく、多大な被害をもたらすとして多くの国で実験することも禁止されている外法。
王子にもその知識はあった。
だが、そこにあったのは、目を疑うほどの純度と大きさを誇る魔石だった。
「──これほどのものとなると、どれ程強力な『ゴブリンエンペラー』になるのか……想像もつかない、な」
「──は。調査に向かった者の話だと、現場に残されていた魔物の遺骸は通常の『ゴブリンキング』の体躯の数倍はあったとのことです」
「そうだろうな。こんなもの──異常だ」
これほどの魔石、そうそうお目にかかれる代物ではない。
先日の『ミノタウロス』召喚に使われた『魔術師の指輪』に仕込まれた魔石も馬鹿げたほどの高純度だったが、こちらは大きさが桁外れだ。
どちらも、国宝級の魔道具に使われる物にも匹敵するほどの最上級品。
こんな魔石を、どうやって手に入れた?
しかも、ゴブリンに埋め込むなど、使い捨てにするような真似をするとは──。
誰が──こんなことを?
事件は魔導皇国の手引きによるもの。
そこは考えずとも、状況から導き出せる。
だが、これほどの魔石──現状、知られているものとしては、神聖ミスラ教国で稀に産出するという『悪魔の心臓』以外にない。
まさか、本当に手を組んでいるのか。
──いや。
今そこを考えても埒があかない。
「……余程の脅威だっただろう。よく二人だけで討伐できたものだ」
「──は。しかも、魔物は最初、高度な【隠蔽】で身を隠し、誰に気づかれることもなく『魔獣の森』に潜伏していたということです。リンネブルグ様の見立てでは、おそらくは数日か──それ以上前から」
「……なに? 潜伏だと……!?」
王都内に、数日前から『ゴブリンエンペラー』が潜伏していた──。
それも【隠聖】配下の王都の諜報部隊ですら、感知できないほどの【隠蔽】だと?
いったい、どうなっているのだ。
魔導皇国が迷宮遺物から知識を得て開発しているという未知の魔道具によるものか。
そもそも、奴らはそんな巨体を、どうやってこの国まで運んできた?
馬車に積んできたわけでもあるまい。
まさか、魔物を操って歩かせたとでも?
──いや、もしかするとあり得るかもしれない。
でも、どうやって?
それとも──駄目だ、考えることが多すぎて埒があかない。
こんな時、頭に血が上り熱くなるのは自分の悪い癖だ、と王子は思う。
こういう時こそ、冷静になる必要がある。
「数日前から【隠蔽】で潜伏、か……何か、その予兆はなかったのか?」
「今の季節の『魔獣の森』は薬草などの採集時期から外れているので、奥まで立ち入る冒険者はほとんどおらず、行方不明者などは出ていなかった模様です。
ですが、冒険者ギルドのマスターが三日前に「『魔獣の森』のゴブリンの数が減っているので調査を要請する。結果によっては『ゴブリン退治』の依頼受注数を制限したい」という旨の報告書を王都警備隊に送ってきていました。
時期によってゴブリンの個体数が減少することはよくある話なので、対処は後回しにされていたのだと思われます」
「三日前か……他の地域でも、同じようなことが起きている可能性もあるな」
「まだ整理しきれていませんが、ご指示いただいた「近日起きた行方不明や不審な事件の情報」は報告書に纏めてあります」
「ご苦労、見せてくれ」
「は、ここに」
王子は男から差し出された分厚い資料の束を手に取り、一枚一枚、素早く捲りながら目を通していく。
同時に一つ一つの報告を注意深く読み込み、頭に入れて整理していった。
──それらは一見、無関係に見える話ばかりだった。
夜、不審な物音がして眠れない。
迷い猫・迷い犬が増えている。
祖父が昨日散歩に行ったきり帰ってこない。
近所の森が急に静かになった。
真面目だった夫が、突然の失踪。
ここ数日、家畜が異様に怯えて困っている、等──。
王子はそれを一つ一つ丹念に読み込み、出来事の起きた場所を一つ一つ、頭の中に広げられた王都の広大な地図に書き込んでいく。
一見、何の関連もないように見えたそれらの無数の出来事。
だが、疑いを持った目でそれを整理して並べていくと──。
少しずつ、まとまりが出来てくる。
それぞれ、近隣の「ある場所」を中心として起きている──それがだんだんと見えてくる。
近日起きている、普段では考えられない不可解な現象を纏めた報告書の束。
諜報員たちが集めた、それらの情報を地図に重ね合わせていくと──
ここ数日、王都内で不可解な現象が急に増えている地点が「数十箇所」あった。
その意味を理解した時、王子の肌は粟立った。
「──今から私が指示する場所に【隠蔽探知】と【隠蔽除去】を使える隊員を編成してすぐに調査部隊を派遣しろ。それと【六聖】を呼べ……緊急招集だ。彼らが集まり次第、国王の状況への判断を仰ぐ。わかったか……? ──わかったら、急げッ!」
「──はッ」
王子が声を荒げると、男はすぐさま執務室を後にし、廊下を走って去っていった。
思わず、大きな声が出てしまった。
自分のような立場の人間は、冷静にならなければならない。
そう思いつつも王子は今、激しく苛立っていた。
「──くそッ!!」
王子は拳を振り上げ、資料の束の載る執務机を叩いた。
拳に血が滲む。
いつも人前で冷静に振舞うことを心がける王子としては珍しいことだった。
だが、もはや王子は平静ではいられなかった。
──この状況を前にして、誰が冷静でなどいられるものか。
──何故、もっと早く気がつかなかった。
もっと早く気がつけば、対処のしようもあっただろうに。
だが、これでは。
この状況では。
最早、全てが後手になった。
今から、最速で行動を起こしたとしても──
全ては手遅れなのかもしれない。
王子の心に湧き上がる不安と、怒り。
この激しい苛立ちは、王子自身に向けたものであり──
そして、これを引き起こした人物に対してのものに他ならない。
王子の苛立ちは、誰もいない執務室の中で限界に達し──爆発した。
「──なんだ、なんなんだ、これは……!? 奴らはここまでのことをするのか!? 我が国が一体、何をした!? あいつら、人の命をなんだと思っている!?」
魔導皇国が『還らずの迷宮』の遺物を欲しがっているのは認識していた。
だが、ここまでのことを、するのか──。
今まで、要求は厄介ではあるものの、同じテーブルにつき、交渉ぐらいはできる相手だとばかり思っていた。
だが甘かった。
相手はもう、こちらを同じ目線の高さで話をする相手とは思っていないのだ。
──そんなに、迷宮の資源が欲しいのか。
王子の頭の中に描かれた、潜在的な「脅威」が潜伏しているであろう配置。
その、意味するところ。
それは──
「これでは……これではまるで……!!」
王子は自分の血の滲む書類の積まれた執務机に突っ伏し──絶望の滲む声で呟いた。
「この国を、丸ごと滅ぼしに来ているようではないか」