169 サレンツァ家の人々
「……あれは、事実なのでしょうか?」
「はは、そんなはずはないだろう。あの荒唐無稽な光景を信じろと?」
「こういうの、新作の創作映像で見ましたわ。やはり作り物では?」
首都サレンツァの中央部に広がる、目を疑うような森林地帯。
不毛の砂漠のただ中にあるとは思えないような輝く湖を湛えた豊かな緑地帯の中に他の街区とは明らかに違う造りの数々の宮殿郡があり、中でも一際目を引く純白の石と黄金の彫刻で彩られた巨大な宮殿の内部には透明な半球状の屋根に覆われた広大な中庭が設られている。
その一見のどかな草原のように見える人工の場所は各地から集められた種々様々な木々と花々で日々彩られ、中央に位置する白く磨かれた石畳が敷き詰められた区画に、そこで飼育される鮮やかな鳥たちの色彩をも凌駕する眩いばかりの宝飾を散りばめた衣服で身を着飾る人々が集っている。
その場に集っているのは、商業自治区サレンツァという国を運営する『サレンツァ家』の面々だった。
この地で華々しい躍進の歴史を重ねてきた一族はそれぞれ一人一人の為に特別に設られた豪奢な椅子に優雅に腰掛け、その場の前面に設置された迷宮遺物『物見の鏡』に映し出された、とある町を上空から俯瞰した光景を冷ややかに眺めていた。
そこでは黒い剣のようなものを手にした男がサレンツァ家の権力の象徴である、『始原』のゴーレムを片っ端から叩き潰している。
何の説明もなく不可思議なものを観せられた人々はそれぞれ、その意図に考えを巡らせた。
「……全く。ザイード様もお戯れを。また我々親族を試そうとされているので?」
「ああ。よくできているが、よくある創作の類に違いない。『始原』のゴーレムの躯体は聖銀の剣も通さず、王類金属の槍でさえ容易に弾き返す。騒ぐのは、そんなことすら知らぬ無知だけだ」
そう言って若きサレンツァ家の一員たちは、己が今観た物を一笑に付した。
彼らが巨大な『物見の鏡』を通して目にしているのはザイードの長男、ラシードが管理する遊興都市『時忘れの都』周辺を監視していたゴーレムバードが持ち帰ってきたとされる記録映像だった。
だが、その場に居る誰一人そこに流れるものを事実として捉えていない。
このように何の前触れもなく余興めいたものが振る舞われるのはこの場所では度々あることであり、またこれも家長ザイードの気まぐれの戯れの一種だろうという表情で、幾人かは久々に会う知人と楽しげに談笑していた。
そうして何度となく同じ場面を繰り返す、鮮明さを欠く真偽不明の映像に皆が飽き始めた頃、不意に『物見の鏡』が映し出すものが切り替わる。
「お集まりのご親族の皆様方。大変お忙しいところ、ご足労いただき感謝いたします」
それは彼らサレンツァ家の家長、ザイードの姿だった。
『物見の鏡』のすぐ下には種々の装飾を凝らした黄金の演台が設えられており、そこには今鏡に映し出されているふくよかな人物が立っている。
幼い頃からの厳しい躾により、正しい礼儀作法を身につけた人々は皆、お喋りに興じていた口を一旦閉じ、落ち着いた所作で自分達の代表に目を向けた。
「さて、突然、あのような珍奇な映像をお見せして大変に困惑されたことでしょう。しかしながら、賢明なる皆様がお察しの通り、あれは事実ではありません。完全なる作り物です。どういうわけか、巷にこのような偽の映像が出回り始めておりまして、あらかじめ皆様に注意喚起をと思いまして、お集まりいただいた次第です」
壇上で人々の視線を浴びるザイードはそう言って、映し出される映像の中で血の繋がった親族達に穏やかな笑顔を向けた。
演壇に一番近い椅子に座る白髪の老人から、家長ザイードに声がかかる。
「なるほど、儂の方にも同じようなモノが回ってきたが……全て作り物だと言うのか? ザイードよ。最近のものは随分と良くできているのだな」
「ええ、そのようです。大叔父様」
この集いの場での家長との席の近さはすなわち、彼が家長に次ぐか同等程度の権力を保持していることを示している。
声をかけられるほどの位置に椅子がある意味をよくわかっている他の面々は白髪の老人が言葉を発する際、注意深く物音すら立てぬよう静かに二人の会話を見守った。
「では、この偽物の出どころと意図は? 掴めているのか、ザイード」
「はい。ことの仔細については確認中ですが何者かによる策略によるものと考えるのが自然かと。おそらく、出どころは例のあの国────」
「例の、クレイス王の国か」
「はい、お察しの通りかと」
老人の顔色が曇る。
「……忌々しいことだ。大丈夫なのか、ザイード。長年断絶していたあの国との国交を再開したいだなどと急に言い出したのはお前だが」
「もちろんです。このような稚拙で卑怯な真似をしてこようとは、夢にも思いませんでしたが。しかしながら、皆様。どうぞご安心ください」
壇上のザイードが手を軽く上げて合図をすると、敷地の中一杯に突然、数千体の『始原』のゴーレムが現れた。
一部の者を除き、普段は目にすることすら稀なその威容がずらりと立ち並ぶ姿を目にした親族たちは皆驚き、各所から静かな歓声が上がる。
「同時期に私の息子たち、アリ・ニードが与えられた『始原』のゴーレムを失ったとの根も葉もない噂が流れました。それも、もちろん事実ではありません。この通り、ゴーレムは全て健在でございます。我が国の秩序は常に保たれております。皆様にお預けいただいたこの力を使い、どのような輩が入り込もうとすぐにねじ伏せてご覧に入れましょう」
自信に満ちた笑顔で語るザイードを見て、親族は皆、安堵の表情を浮かべた。
「そうか、そうか。単なる噂と信じてはいなかったが、この目で見て大いに安心したぞ、ザイード」
「それはよかったです、大叔父様」
「ほほほ、だから言ったでしょう? この商都で起きる全てのことは私たちの家長、ザイードに任せておけば良いのです。あの子は小さい頃から、とても頭がよかったのですから……商売だって、この中の誰もザイードに敵いませんのよ?」
「ははは、大叔母様。それは流石に褒めすぎです」
久々に顔を合わせる親族は互いににこやかに、和やかに互いのことを褒めあった。
「では、私はこれで失礼する。巷に蔓延する怪しげな情報が誤りだとわかってひと安心だ。くれぐれも、後始末はしておくのだぞ」
「もちろんです。大叔父様。ご教授痛み入ります」
「それでは、ザイード。わたくしもこれで失礼しますわね」
「大叔母様も、どうぞお帰りはお気をつけて」
一番前の席に座っていた老人夫婦が大勢の召使いたちと共に退場すると、他の親族も彼らに倣って家長ザイードに挨拶を交わし、次々に退席していく。
そうしてしばらくして親族の数もまばらになった頃、黒い服に身を包む初老の男がザイードの脇に立ち、上品に整えられた白い口髭を自らの主人の耳許に寄せた。
「……旦那様。少々、お耳に入れていただきたいことが」
「なんだ、ワイズ。手短にしろ」
黒服の初老の男はザイードに、声を低く囁くように言った。
「……大叔父様、並びに大叔母様はあのように仰られていましたが────既にどちらも主要な資産を商都の外にお移しになられています。倣って、ご親族の何名かも良からぬ動きを見せている気配が。皆様、今回の異変には既にお気づきのご様子かと」
「なんだ、そんなことか。あれはいつもの化かし合いだ、真に受けるな」
ザイードがため息の代わりに鼻から大きく息を噴き出すと、ワイズと呼ばれた初老の男は頭を小さく下げながら一歩後ろに引いた。
「は。申し訳ございません」
平静を装うザイードとて、有力な親族たちが商都に所有する土地や不動産を手放し、資産を外部に逃し始めているのは承知のことだった。
周囲の言葉をそのまま真に受ける底抜けの間抜け以外、誰もがこの状況を理解している。
もちろん皆が噂を信じているわけではないが、表立って口にしないだけで、一部は確信すら持ち始めている。
サレンツァ家が長い時間をかけ積み上げてきた権力が、基盤ごと覆されることすら少ない可能性として見ていない。
それは国の秩序が崩壊する一歩手前の状況と言っても過言ではない、とザイードは考えている。
故に、この茶番なのだ。
こんな後手後手に回る状況を作ったこと自体に苛立ち、歯噛みをする。
「おっ、お父様。こ、この度は……その」
ふと気づけば、この事態を作った要因でもある二人の愚かな息子とその母親が傍に立っていた。
「……おお、アリ。ニードか」
ザイードは努めて穏やかな笑顔を作り、振り返る。
「どうした、そのように改まって」
「ほ、本当に申し訳ありませんでした。私たち兄弟の失態を、あのような形で……その」
「はは、良い良い。若い時には失敗はつきものだ。だが、二度目の尻拭いはないぞ?」
「は、はいっ! あ、ありがとうございます!」
ザイードは、本当に二度目はないな、と冷ややかに思いながら無能な息子たちとその母親が足早に立ち去るのを見送った。
そうして、しばらくして賑やかな饗宴が過ぎ去った後には、その場にはザイード一人しか居なくなった。
ザイードは頃合いを見計らい、中空に声を掛けた。
「……ルード。ルードはいるか」
「はい、ここに」
ザイードが黒いローブに身を包んだ男の名を呼ぶと、その瞬間に男はザイードの背後に立っていた。
いつもどこからともなく影のように現れる男に内心不気味さを感じながら、ザイードは自身が気がかりなことを問いかけた。
「例の件の進捗はどうだ」
「……はて。例の件、と言いますと」
「『忘却の迷宮』の、ゴーレムの話だ……! 言わせるな!」
「ああ。それですか」
顔の見えないローブの中から、ルードと呼ばれた男はザイードの顔色を窺った。
「もちろん進めております。しばしお待ちを」
「急げ。この状況では、もう持たん」
「まさか、今のお呼び出しはそのようなことを確認するために?」
「そうだ。他に何がある?」
「状況は存じております。故に、急ぎ、進めておりますが」
「早くしろ。貴様らの急ぐという言葉は信用ならん」
長寿の種族の急ぎという言葉ほど信用できぬものはない、と思いながら、ザイードは続く罵倒の言葉を飲み込んだ。
最早苛立ちは隠せなかったが己の頼みの綱はもう、この不気味な男のみであることが明白であるからだ。
そのような、己の弱腰にも腹が立つ。
「……では、そのように。もし結果を急ぎたければ、これ以上、無用の呼び出しはご遠慮を」
冷ややかにそう言ったローブの男の気配が煙のように消えたのを感じると、ザイードは歯噛みをした。
「……ちぃ! どいつもこいつも、使えぬ奴らばかりだッ……!」
ザイードは、他人を信用しない。するべきではないと考えている。
己以外に信を置くことなど、弱みと不確実さを作るだけで不確定な未来をさらに不安定にするだけのことだった。
故に、ザイードはあらゆるものを操ってきた。
会話ひとつとっても、言葉巧みに相手の心理を汲み取りながら、相手の希望と欲望に寄り添いながら捻じ曲げ、最後には自分の望むように動かすのを主旨とした。
その方が、自分の望む結果を手繰り寄せることができるからだ。
故に、対話が不可能な相手は悉く力で叩き潰してきた。
非があると責め立てるものは、容赦無く口を塞ぎ、それでも足りなければそれを動かす首から上の頭を切り離す。
それがザイードが秩序を維持する唯一の手段だった。
そうして、ザイードはサレンツァ家の今の地位を築いていったのだ。
故に、ザイードには心から頼れる部下など存在しなかった。
それどころか、今もかつても、単に優秀と認めるものすら世に数えるほどしか存在しない。
自分の他は全て能力で劣っており、操る対象でしかなかったからだ。
仮に認めたものは居たとしてもその、尽くが敵だった。
ザイードにとって己が操作できぬもの、支配できぬものは害悪に他ならない。
だからこそ、ザイードにとって嫉妬するほど能力に秀でる者は、すべからく害敵なのだ。
仮に今はそうでなくとも、いずれは必ず敵となる。
強い者は強い者同士、必ず喰らい合う。
ザイードは今もそう考えている。
現に今も、自分が親族で最も優秀と認めた者が、目の前に立ちはだかっているのだから。
「……ラシードめ」
ザイードの頭の中にあったのは、最初の妻との間にできた最初の息子のことだった。
あれは確かに優秀だった。
幼少期からあらゆる分野において才能を発揮し特に商人として優れていた。
だが、あまりも優秀すぎたのだ。
親であるザイードと競い合えるほどに。
馬鹿揃いではあるがアリとニードは素直で、御し易い。
故に、ザイードの敵たりえない。
だが、あのラシードは逆に幼少期から聡明で、簡単にはザイードの支配の対象とはなり得ない存在だというのがわかった。
試しに商売をやらせてみると、ラシードは人の心を読むばかりか操り、己の望み通りの流れを作り出した上で一人だけ良い結果を得て勝利する。
ザイードと全く、やり方が同じなのだ。
だから、本来は不確定なはずの商売の世界で、ラシードは必ずと言っていいほど勝ち残った。
故にザイードも最初は目をかけていた。
才能に恵まれた我が子を可愛いとも思い、自ら商売の手ほどきもしてやった。
だが、ラシードはあまりにも勝ちすぎたのだ。
勝つ、負けるが当然の商売の世界で十回の機会を与えられればその十回をすべて勝ち上がる。
最初の頃はザイードもそういう幸運もあるだろう、と楽観視していたが、やがて商売を覚え始めたばかりのラシードが多くの親族の資産を大きく喰らい始めるのを見て、ザイードはすぐに考えを改めた。
息子のラシードは紛れもなく、商売の天才であった。
それも、サレンツァ全体を牛耳るザイードですら遥かに及ばないと感じるほどの。
同時にそれは、ラシードがザイードの最も嫌いな支配の及ばない者であることも示していた。
それがわかってからというもの、ザイードはラシードを自分から遠ざけるようになった。
棲む場所を分け、ラシードを産んだ女も遠ざけた。
そうして、しばらくの後、ザイードが容姿だけが気に入り最初の妻として娶った女が死んだ、という知らせを受けた。
おそらくラシードをよく思わない親族の誰かが盛った毒を、女が代わりに口にしたのだろうとザイードは思った。
そのことがきっかけなのかは定かではない。
だが、母親が死んでからというもの、ラシードはそれまであったたががはずれたかのように商売に精を出し始めた。
最初の頃こそ種々の商品を売り買いする程度にとどまっていたが、やがて商店を一軒買うようになり、またそれに飽きると商会ごと買うようになり、売り買いを始めて数ヶ月もする頃には、街区ごと買い占めるようになり、ラシードが10歳の誕生日を迎える頃には、ほぼ商都の半分がラシード個人の所有物となる勢いだった。
当然、親族たちはその事態をよく思わなかった。
サレンツァ家の親族たちには古来より互いに侵してはならない暗黙の線引きがあった。
だが、まだ子供であるラシードはそれを全く意に介さず、荒らしまわる。
自分の縄張りだと思っていた領域を好き放題に荒らされ、憎悪を隠さない親族の者も多かった。
にもかかわらず、ラシードは家長であり親であるザイードの言葉にも耳を貸さない。
手に余る事態だった。
サレンツァ家が一族として維持しなければならない秩序からすると、既にラシードの存在そのものが危険だった。
そうして利益共同体である『家族』を顧みないラシードの振る舞いは多くの者の反感を買い、自身の資産を力づくで取り戻そうとする親族たちの手引きにより、数多くの暗殺者を送り込まれることになったのはごく自然な流れであった。
だが、それでもラシードは生き残った。
そればかりか、自身に差し向けられた数々の暴力までも金の力で取り込み始め、ザイードをはじめ、親族の中で最も力を持つ者にさえどうしようも無くなっていた。
ラシードは弱冠十二歳で、実質的にこの商都の半分を支配するまでになったのだ。
とはいえ、そんな時だった。
ラシードが自ら『時忘れの都』の管理者となりたいと申し出て、商都を離れ、ままごとのギャンブルの世界に移っていったのは。
それは多くの親族にとって驚きであり、同時に幸いなことだった。
親族たちはそのラシードの行動を、自身がいつまでも商都に留まり続けていれば危険だと判断したのだろう、と解釈した。
商都に留まることで自身が負うリスクと利益を秤にかければ、自らの命を守る為に儲けを切り捨てることは理に適っている。
あの悪童ラシードも、ようやくその判断がつくほどには大人になったのだ、と。
だが、ザイードはその解釈を信用していない。
ザイードにはあのラシードが何を考えているのか、わからない。
あれをわかる、と思う方が間違っていると考える。
だからこそザイードはあれを遠ざけたのだ。
自らの支配する地に、己より優れた者が存在してはならないから。
敵対しうる者は、存在してはならないから。
支配者が理解できないなどという不確定要素は排除して然るべきだから。
とうに、親子の情の域など越えている。
ザイードはとっくに、あれを自分の息子などとは見做していない。
あれは脅威だ。
ザイードにとって、得体の知れない恐ろしい存在。
────クレイス王によって送り込まれたあの男と、同種の化け物なのだ。
「……あの、狸めが。あんなものを送り込んでおいて……何が外交の再開だ」
映像の中で、暴れ回っていたあの男。
あれは王女リンネブルグの護衛などという器ではない。
あの男の存在自体が、かつてないほどにこの国の秩序を脅かす、途方もなく危険な武力だとザイードは断じた。
聖銀や王類金属でも簡単には傷のつかない『始原のゴーレム』を易々と砕いていることを考えれば、その手に持っているのはクレイス王国の秘宝『黒い剣』であることに間違いはなかった。
クレイス王の無二の所有物であるあれを何故、あの男が手にしている?
その理由は定かではないが、そちらはそこまで重要ではない。
重大なのは、それが既にここに存在してしまっている、ということだ。
自ら、あのような脅威を自分が支配する地に連れ込んでしまったことが信じられない。
あの【神盾】にしても、王女の護衛にしては武力が過ぎる。
なぜ、自分はあのような判断をした?
……そう。
やはり、信じたからだ、とザイードは思った。
ザイードはあの長命種の口車にまんまと乗せられたのだ。
そして、その結果、損をしている。
あんなものをのうのうと国内に入れてしまったばかりか、あのラシードと手を組ませてしまったのは、どういうわけかあの不気味なエルフの提言をそのまま信じ込み、呑んでしまったからに他ならない。
自らの信念を曲げた結果、今や、最悪の組み合わせがそこにある。
……ああ、そうだ。
おそらく、ラシードは『裁定遊戯』でも、あの男に負けたのではないのだろう、とふと思った。
体よく、自身らの資産を譲渡したのだ。
自身が幼少期に溜め込んだ資産がザイードを始めサレンツァ家の一族の手によって全て凍結状態にあったのは、既に本人も承知していたことだろう。
その資産の合計額は、少なく見積もっても数百兆ガルドを下らない。
故に、一旦その使えない資産をサレンツァ家に差押えさせてリセットし、敢えて自らの『負債』としてあの男に投げ渡し、それを掛け金として商都に進み出た。
そこまでのリスクを冒す理由は、一度きりの大勝負に出るために他ならない、とザイードは感じる。
かつてラシードが商都を離れたのは、商都に戻ることを諦めたからではないのだろう。
おそらく、あれはずっと諦めず、虎視眈々と機会を窺っていた。
つまり、その機会が今なのだ。
そう考えると、今の状況がより深刻に感じられる。
……そう。
息子、ラシードは何も諦めていなかった。
だから、今から国を獲りに来る。
この自分から全てを奪いに、商都に戻ってくるのだ。
そう、ザイードは思った。
途端に手足に震えが起き、呼吸が浅くなり、心臓の鼓動が早まっていくのを感じる。
それも当然のことだろう。
今や、考えうる最悪同士が手を組んでいるのだから。
始原のゴーレムを片手で薙ぎ倒す最悪の武力と、幼少期の戯れで商都を買い占めかけた最悪の商才。
それが、一斉にここに訪れる。
「……だが……このままで終わると思うな……!!」
それでも、まだ再起の芽はあるとザイードは感じている。
だが、それはザイードの嫌悪する、不確定極まりない賭け事でしかなかった。
あの信用ならないエルフの言葉を、この自分が信じるということに他ならない。
それでも諦めるなどという選択肢はザイードにはない。
あの息子相手に。
あのにっくきクレイス王相手に勝負する前から屈することなど、あり得ない。
故に────冷静にならなければならない。
こちらも、手札を揃えなければならない、と考える。
誤魔化しによる先延ばしの限界はとうに見えている。
だが、それでも今は時間を稼がねばならないのだ。
どんな、屈辱的な手を使ってでも。
「……ここまでのことをして、ただで帰れると思うなよ……!」
ザイードは誰もいなくなった自らの宮殿の中心で、苛立たしげに憎悪を呟いた。