167 奴隷商館にて 2 兄と妹、弟と姉
「……皆さん、遅いですね。奥でまた何かあったわけじゃないですよね?」
暗い廊下の奥に向かったリンネブルグ王女たちを待ちながら、シレーヌは波打つように折れ曲がった金属製の大扉を椅子にするようにして腰掛けていた。
その膝の上にはすやすやと気持ちよさそうに寝息を立てる獣人の少女が寝そべっており、彼女たちから少し離れた場所にはつい先ほどその歪な形のベンチを作り上げた片腕片目の獣人の男が立っている。
「問題はないだろう。もう何かが潜んでいる気配はない。それに今はこいつらがここにいる。何かあれば締め上げればいい」
「……そういえば、そうですね」
冷たい床に力なく座り込む男たちにシレーヌと男がチラリ、と視線を向けると男たちは怯えて一斉に体を震わせた。そんな男たちの哀れな姿に目をやったあと、シレーヌは自分の膝の上で静かに寝息を立てる獣人の少女、ミィナに目を戻した。
「……それにしても、本当にぐっすり眠っちゃってますね。相当疲れてたんですね」
「無理もない。先ほどの路上での扱いに加えて、今の騒動だ。肉体の傷は癒えても、精神の負担までは無くならない。そのまま休ませてやるといい」
「そうします」
少女は出会ってからずっと緊張に身を固くしていたが、先ほどの騒動の後、気を失うようにして眠り込んでしまった。
二人は疲れ果てて眠っている少女を起こさぬよう静かな声で会話しているが、多少の物音では目を覚ましそうにないほど、少女はシレーヌの膝の上でぐっすりと眠っている。
子猫のように丸まった姿勢ですうすうと寝息を立てる少女を邪魔しないため、シレーヌはいつもは肌身離さず持っている弓を脇に置いているが、若干不安定な場所に置いたままにするのは不安らしく、先ほどからチラチラと視線を送っている。
そんなシレーヌの姿を見て横に立つ男が声をかけた。
「……その弓、支障がなければ手の空いている俺が預かっておくが。そんな場所に置くと痛みが早くなるだろう」
「えっ、いいんですか? ……じゃあ、お願いします」
シレーヌは男の申し出にほんの少し逡巡したものの、すぐに自分の弓を差し出した。男は無言でそれを受け取ると、しばらくの間片方しかない目でじっと眺めていたが、やがてボソリと声を漏らすようにして呟いた。
「……この弓、かなりいいものだな」
険しい表情に似つかわしくない賞賛の言葉を口にした男に、シレーヌは少し表情を緩ませた。
「あっ、わかります? 弓、詳しいんですか?」
「……いや、少し扱ったことがあるという程度だ。だが、この弓が良い品だということはわかる。素材からして普通の弓ではないが、造りがいい。持っただけで手に馴染む」
男は独り言のようにそう言って、まじまじと自分の手の中にある弓を見つめた。
シレーヌはそんな男の横顔を視界に入れながら、数少ない自分の大事な持ち物を褒められて嬉しくなってまた口を開く。
「その弓、就職祝いにって私の師匠からもらったものなんですけど、結構貴重なものらしいんです。なんでも『還らずの迷宮』の深層でたまたま見つけたものだったとか」
「……『還らずの迷宮』の深層? となると、まさかお前の師はあの【弓聖】ミアンヌか」
「あれ? 団長のこと知ってるんですか?」
意外そうな表情で首を傾げたシレーヌに、男は静かに首を振る。
「知っているわけではない。だが国を跨ぐほどの有名人だ。北のクレイス王国には『ミアンヌ』という、数人の仲間と共に世界最難関と言われる『還らずの迷宮』の深層に挑みながら全くの無傷で戻った女の弓使いがいる、と」
「……本人的には、あそこから無傷で帰れたのは仲間がすごかったからだ、って言ってましたけど」
「噂に聞いた程度でしかないが。その気性は常人を寄せ付けぬほど苛烈にして、たった一本の矢で山の向こうの渡り鳥の群れを同時に射落とすことができる、というが……真実か?」
「へぇ、そんな噂になってるんですね。でも、本当のところ──その百倍はすごいと思います。……性格も」
「そうか」
シレーヌが自分の師の話題に若干照れつつも率直に答えると、無表情だった男の顔にも僅かな笑みが浮かぶ。
「なるほど。つまり、これはそんな人物に認められた証、ということか」
「……認めてもらってるんですかね? 正直、普段の態度見てるとそんな実感ないんですけど」
「この弓を与えられたことが何よりの評価だ。自信を持てばいい」
シレーヌは照れ臭そうに頬を掻くが、男は真剣な表情で改めて預かった弓を眺め続けた。
「お前が彼女に技術を教わった、というのは長い期間なのか」
「……はい。弓は小さい頃からミアンヌ団長に習ってて、風の読み方はお母さんに習って……あ、でも二人ともコツを教えたらもうあとは自分なりに好きにやれ、って感じだったので、あとは自分なりに工夫して、って感じですかね」
「そうか」
「母は離れ離れになった兄にも、ちゃんと教えてあげたかったって言ってましたけど」
シレーヌがそう言って自分の首飾りに手をやると男は推し黙り、俯いた。
「……その首飾りの件、悪かった」
「えっ?」
「処分しろと言ったことだ。出過ぎた真似をした」
シレーヌは男の唐突な謝罪に少し目を見開いた。
「その首飾りを身に着けることには、多くの危険がつきまとう。だが、それを知った上でどうしようが所有者のお前の自由だ。本当に余計なことをした」
「……いえ、全然いいですよ。多分、本当のことを言ってくれてたと思うので」
「やはり、それを手放す気はないのか」
「はい、一応。兄からもらったものですし、せっかくならとっておこうかなと」
シレーヌの返答を聞くと男は無言で視線を外し、シレーヌは再び意外なことを言い出した男をじっと眺めた。
「……ところで。シャウザさんはもう弓は使わないんですか?」
「なんだ、急に」
「弓、好きみたいなので。あと『ミオ族』は弓が得意だったとかって聞いて」
「逆に聞くが。この腕で満足に弓が引けると思うか?」
「…………そうですよね」
シレーヌは男の無い方の腕を見て気まずそうに目を逸らしたが、しばらく考えた後、何か思いついたように顔を上げた。
「……じゃあ。腕がないなら、歯で、とか?」
「……無茶を言うな」
「ですよね」
「確かに俺もかつては同胞たちと同じく弓を扱った。腕にもそれなりに自信はあった。だが、それも取るに足らぬ己への過信でしかなく、その驕りが多くの同胞とその家族を死に導いた。結局、俺は弓では何もできなかった」
男は物思いに耽るようにして手の中にある弓を見つめながら、また眉間に深い皺を寄せて俯いた。
「────仮に今、弓を持てたとしても俺にそれを引く資格などない。死せる同胞たちがそれを赦しはしないだろう」
シレーヌは男に対して何も言わず、しばらくの間ただじっと男の横顔を見つめるだけだったが、やがて意を決したように口を開いた。
「あの、シャウザさん。やっぱり、シャウザさんって、私の────?」
「いい加減諦めろ。お前の兄リゲルは死んだ。この国のどこを探そうが、骨の欠片すら出ることはない」
「…………でも」
「────はえっ? わっ、私、ここで何を……?」
シレーヌが何かを言いかけた時、膝の上で眠っていた少女がうっすらと目を開け、首を傾げながら周囲を見回した。そうして自分自身の状況を理解した瞬間、驚いたように飛び起きた。
「ひぃっ!? ごっ、めんなさいっ!? わ、私、寝てたんですかっ!? すぐ降りますっ!」
「……大丈夫、そのまま寝てていいから。疲れてるでしょ?」
「……そっ、そうですか? いっ、いえいえ! さ、流石にそんなに甘えるわけにはっ……!」
少女は若干まだ名残惜しそうにしながらも、シレーヌの膝から飛び起きるようにして地面に降り立ち、いそいそと居住まいを正して自分に寝心地の良い臨時の寝床を提供してくれていたシレーヌに丁重に礼を言おうと顔を上げた少女だったが、その瞬間、視線の先に自分とよく似た姿の少年が歩いてくるのを目にして大きな声を上げた。
「リゲルっ!!?」
「「……リゲル?」」
少女は突然誰かの名らしきものを叫んだかと思うと、シレーヌたちの元から急いで少年の元に駆けていった。
そうして自分と背格好のよく似た少年の前で立ち止まると、改めて驚きの声を上げた。
「あっ、足は!? 病気は!? あ、歩けるの、リゲル?」
「うん。全部、あの人たちが治してくれたんだ」
「……あの人たち? はえっ!?」
驚いたミィナが顔を上げると、少年の背後にはつい先ほど自分を助けてくれた人たちが歩いているのが目に入る。
ミィナは慌てて向き直り、少年の背後に立つ人々に向けて頭を下げてお礼の言葉を口にした。
「……あっ、あのっ……! こっ、このたびは、お、弟を助げでぐだざり……! う、ゔぅっ……! あっ、あびっ……あびばどう、ございばずぅ……!!」
だが、その声はだんだんと溢れ出る涙に遮られていき、最後の方は聞き取れるような言葉にはならなかった。
当の礼を言われようとした人々は微笑みながら小さく手を振るだけだったが、ミィナに顔色を窺われていることを察した新たな主人となった男が無言で頷くと、ミィナは目の前の少年に向き直り、飛びつくようにして抱きついた。
「……うぅ、リゲルぅ……! よっ、よがっだよおぉ……! も、もう、二度と……会えないがもっでぇ……!!」
「心配かけてごめん、お姉ちゃん。僕はもう大丈夫だから」
痩せた少年はそう言って、自分の胸元で泣きじゃくる姉に優しく声をかけた。
「……ゔゔん……! ごっぢごぞ、ごべんねぇ……!! 私だけ、先に買われぢゃっでぇ……!! ……でっ、でも! わだじね……あの人が、代わりに買ってくれたおがげでぇ……!」
「うん、知ってる。あの人達はお姉ちゃんが連れてきてくれたんだよね? 聞いたよ、ありがとう」
「……ぢっ、違うの……! わだじはぜんぜん、何にもしてなくて……! さっぎだっで、そこで一人だげ寝ちゃってでぇ……!」
そうして少女は目に涙をいっぱいに溜めた顔で振り返り、自分をここに連れてきた人々に向き直った。
「……う、ゔうぅ……! あっ、あのぅっ! ……ご、ごのだびは、ほっ、ほんどうに……! ……うぅ……あびばどう、ございばずぅぅぅ……!!」
その後も何度も弟に謝ろうとしたり、周囲の人々にお礼を言おうとしたりとせわしなかった少女だったが、そのどれもが涙で濁ってちゃんとした言葉にはなってはいなかった。