156 新・経営者ノールの挨拶 2
俺はリーンとメリッサに手伝ってもらいながら、従業員の皆の前で読み上げる文章を作ることになった。
と言っても、俺が言ったことをすぐに専従のスタッフが書き起こしてくれ、それにリーン、メリッサが手早くチェックを入れてくれたので、挨拶原稿自体はあっさり完成した。
おかげで多少時間ができたので、本番前に原稿を読み上げる練習をしたところ、どうも俺は紙に書いてある文章を読み上げながら話すとかなり動作がぎこちなくなるらしく、その場にいた全員からなるべく原稿を見ないで話すことを勧められた。
メリッサによれば、一応、挨拶の前に原稿は作るがそれは話をする内容の備忘録のようなものなので、基本的には自分の言葉で丁寧に話してもらえればそれでいい、ということだった。
なので、最終的には時折手元の原稿をチラチラと見つつ、とにかく俺が話しやすいように話せばいいだろう、ということに落ち着いて、本番を迎えることになったのだが。
「……こんなに、人が居たのか……?」
挨拶の会場となる『時忘れの都』の中央講堂に辿り着いた俺は、集まった従業員の数を目にして固まった。
登壇者用の控室の窓から、ホールで従業員が整然と立ち並んでいるのが見えるのだが……その数がすごい。
広いと聞いていた中央講堂だが、湖のあった部屋よりもずっと広い部屋に、押し込められるようにして所狭しと人が並んでいる。
あれはおそらく、数百人程度じゃ効かないだろう。
数千人? いや、もっと?
とにかく、とても数え切れないほどの人数が集まっていた。
「……随分と、多いな?」
「はい。この中央講堂には『時忘れの都』全館の従業員を集めておりますので。館の維持のための重要業務を担う常任職員に加え、各種施設の管理を行う技術職の者、日々の整備を行う者、必要な物品の取引を行う者、料理・娯楽といった各種サービスを提供する者、その下で働く任期付きの臨時職の者────等々、全ての職員を合わせるとおおよそ人数は三万近くなりますが、急遽ここに集められたのはその三分の二程度……と言ったところでしょうか」
「……なるほど。そんなにか」
今さらながら、自分がとんでもない買い物をしたことに気がつく。
確かに、言われてみると、これだけ巨大な施設なのだし、表に出てこない裏方で働いている人も含めたら、きっとこれぐらいにはなるのだろうが。
それにしても、人の数がすごい。
こんな数の人は王都でも見た覚えがない。
「……俺はこれから、どうすればいい? 彼らに挨拶をするという話だが……あの後ろの方まで聞こえるように大声で話せばいいのか?」
一応、人前で話すことには慣れているつもりだが……あんなに遠くまで声が届く自信はない。
「その必要はございません。中央に演台が御座います。そこに集音器がありますので、そこに向かって通常の声量で話していただければ、隅々まで届く仕組みです。ちなみに、お姿も大きく映し出されますので立ち振る舞いには十分、お気をつけください」
「なるほど、便利だな」
「では登壇のご準備を。急遽、休日に呼び出しをかけて出席させている従業員も少なくありませんので、あまり待たせるのはよくありません」
「わかった」
この国には色々と便利なものがある、と思いながら、俺は挨拶の原稿を抱き抱えてリーンに向き直る。
「じゃあ、リーン。行ってくる」
「はい。私たちはここで待たせていただきます」
「この原稿、本当に助かった」
「少しはお役に立てれば良いのですが」
俺は最後まで熱心に挨拶の原稿を仕上げてくれたリーンに一言お礼を言うと、すぐに控室から広い講堂の中に出て敷かれた赤い絨毯の真ん中を歩く。
すると、会場に立ち並ぶ従業員の皆が一斉に頭を下げてくるが、とにかく人数が多いために迫力があり、それだけで壮観な光景だった。
一方、会場は静寂そのものだった。
人の姿はたくさん見えるのに、館内で飼っているらしい、鳥や動物の鳴き声ばかりが遠くから聞こえるだけで、本当に人がそこに居るのかと疑いたくなる程静かだった。
「ノール様、こちらへ」
「ああ」
メリッサの誘導に従ってとにかく広い会場の中を進み、中央にある塔のような場所の階段を少し登って演台に立つと、例の映像を映し出せるとかいう板に、俺の姿が大写しになった。
演台についた俺に、一斉に皆の注目が集まるのを感じる。
人の背丈の5人分ほどの高い位置にある台から辺りを見渡すと、立ち並ぶ従業員たちの表情がよく見えたが、どうも皆、見慣れぬ人間が自分たちの前に立ったことで少し緊張しているようだった。
俺の方はというと、元々、人前で話すのはそんなに苦にならないし、あまり緊張しない方なのだが……今回はあまりにも人の数が多すぎて、どこを見ながら話せばいいのか迷う。
それと、俺が立つ演台が思ったより高い場所にあり、下を見るとほんの少し怖い。
だが、そんなことを気にしてもいられない。
とりあえず集音器の位置を確認しながら前を見て、恐る恐る、話を始める。
「……新・オーナーのノールだ」
予想よりずっと大きく俺の声が会場に響き、少し驚く。
メリッサが言った通り、普通に会話するぐらいの声量でも良さそうだった。
何も知らず、いきなり大声で話し始めたらとんでもないことになるところだった。
先に聞いておいて本当によかった……と思いつつ、今ので遠くにいる従業員にも聞こえたはずだが、誰からも反応がないのを不思議に思う。
演台から見える従業員たちの表情はさらに強ばり、会場にも怯えるような空気が漂っている。やはり、見知らぬ人間がいきなり自分たちに命令できる立場の経営者になってしまった、ということで不安に思っているのかもしれない。
不安なのは俺も一緒だし、とりあえず、変な命令はしないつもりなのでそこだけはわかってもらいたいと思いつつ、リーンが一緒に準備してくれた演説原稿の一枚目をめくる。
「……色々あって、俺はラシードからここの経営者を引き継ぐことになった。成り行き上、いきなりここのオーナーにはなったが、あまり変なことは命令しないつもりだ。ちなみに、ラシードが言っていたように、確かに俺は魚は好きだが、それを獲らせるために人を一生船に乗せようなどとは思わない。そこも安心してもらっていい」
今の後半部分は、先ほど不安そうにしていた黒服の従業員に対しての言葉だったので、ほとんどの従業員は全く意味がわからない、という表情をしていたが、黒服の従業員たちの数人はほっと胸を撫で下ろした様子だった。
……もしかして、本当にやると思われていたのだろうか?
「……それと。もう知っている者もいるかもしれないが……俺はこの国の人間ではない。だから、普通の習慣のこともよくわからないし、正直、この館のことは何もわからない。だから、館長はこれまで通りメリッサにやってもらうことにした。皆には今まで通り、彼女の指示に従って働いてもらえればそれでいい」
ここまで、意外といい調子だった。
少しの練習の割には、上手くできているかもな……と思いつつ、演台の上に載せた原稿をチラチラ見ながらの話を続ける。
「……だが、少し変えたいこともある。この中には借金を抱えている者もいると聞いた。メリッサ、あとは頼む」
「は────ザザ。リーア。前へ。オーナーがご質問の件について、御説明を」
「はい。財務担当のザザと申します」
「人事担当のリーアで御座います。まず、私から」
メリッサの合図で俺とメリッサの前に、二人のそっくりな女性が進み出た。
「現在『時忘れの都』職員として働く者3万0165名の内、僅かでも借金を抱える者の総数は、当人事部が把握している限り1万2014名となります」
「また、先ほどオーナーがご指摘になられた金額をお調べしましたところ、従業員全体の債務総額は利子を含めまして、78億6千9百27万ガルドとなっております。その全てを館の運営資金で賄うとなれば、かなりの損失となるのは確実ですが……今回は全て経営者個人の費用でお支払いいただける、というお話をいただいておりますので、それならばなんの支障もございません」
「なら、それで頼む」
「かしこまりました」
事前に決められていた簡単なやり取りをすると、二人はすぐに下がっていった。
彼女たちは俺とは初対面だが、事前にメリッサからどんな話をするかは伝わっているので、スムーズだ。
当初、こんなやり取りはせず、単に借金を抱えた従業員に俺の余った金で代わりに支払うことを考えていたのだが。
かえって、妙な噂が立たないように金の出所は明らかにしておいた方がいい、ということでこんな風に人前でやることになった。
一般の従業員にまでは広まっていないので、今のやり取りで会場が少しざわつくが、そのまま話を続ける。
「それと────もし、ここに集まっている者の中で他にも借金で困っている者がいたら、俺かメリッサに言ってくれ。今のように、俺が出せる範囲なら出そう。金ならまだ余っているからな」
次の俺の一言で皆がぽかん、とした表情になり、一斉に静まった。
今の反応はどうなんだろう……と思いつつ、原稿の文章の続きに目を戻す。
「……次に、遊技場の闘技場で戦っている者たちの中にも、人によっては大きな借金を背負い、無理矢理ここに連れてこられたというが。彼らについての俺の考えなんだが────」
そうして俺は最後の原稿を、と思ってページを捲る。
(…………ん?)
だが、どういうわけか、何度めくっても最後のページが出てこない。
というか、全部で三枚あるはずの原稿が手元に二枚しかないことに、今気がついた。
どうしようか、と俺が考える中、だんだんと俺に注目が集まってきているのを感じる。
……これは、まずいかもしれない。
「……まあ、あれだな。多分……なんとかできそうなので……とりあえず。彼らは全員解放しようと思っている」
「「「……多分……?」」」
「「「……なんとか……?」」」
「「「……とりあえず……?」」」
急に雑になった俺の演説に、会場の皆は隣の者と目を見合わせた。
メリッサも、俺に怪訝な顔を近づける。
「……ノール様。原稿はどうされたのですか?」
「……たぶん、どこかに置いてきた」
「…………置いてきた?」
見れば、俺たちが出てきた控室の扉の前で、リーンがプルプルと肩を震わせながら原稿の最後の一枚を持ち、青い顔でこちらを眺めていた。
そういえば、俺が控室を出て行ってからリーンの様子がおかしかった。
俺に向かってやけに大きな身振りで手を振ったり、ぴょんぴょん、その場で元気よく跳ねてみたり、時折、奇妙な振り付けのダンスを踊ってみたりで、いつになく不思議なことをしているな……? とは思っていたのだが。
あれは、俺を励まそうとしてくれていたんじゃなくて、これのことを伝えようとしていたのか。
(すまない、リーン)
あの原稿を一緒に仕上げてくれたリーンには悪いと思いつつ、もうあそこまで取りに戻れる気がしない。
急に話をやめてメリッサとこそこそ話し始めた俺を見て、会場がざわつく。
「……仕方ありません。最後はご自身のお言葉でどうぞ」
「わかった」
「ただし、ご発言はくれぐれも責任をお取りになれる範囲で」
「……そうだな」
俺は会場に集まった従業員たちに向き直り、話を再開した。
「すまない。用意した原稿を忘れてきたので、ここからは原稿なしで話す。大事なことだから、静かに聞いてくれると助かる」
俺の一言で辺りが静まるのを見計らって、話を再開する。
原稿はないが、一応何度か練習したので、大まかな内容は覚えている。
「まず……最初に言っておくが。俺が経営者になったからといって、ここにいる従業員がまともな理由もなく解雇されることはない。俺はここにいる者と、皆の家族を飢えさせるつもりはないし、俺がここの経営者である限り、皆の身を一切、危険に晒すつもりはない。そこは安心してくれていい」
多少、細かい言い回しは違っているかもしれないが……リーンが用意してくれた原稿もこんな内容だったはずだ。
だが、メリッサは俺に疑わしげな目を向けた。
「……ノール様。そんな約束をして大丈夫なのですか?」
「……今のはどこか、おかしかったか?」
「概ね、所定の原稿通りですが……いえ、忘れてください。今のご発言の責任をご自身でお取りになってくれるのであれば、何も問題はありません」
「……?」
メリッサの発言がちょっと気になるが。
話を続ける。
「……それと。俺がいる間は、ここの誰一人、意に沿わない仕事につかせる気はない。もし、今の仕事に不満があるなら言ってくれ。すぐには無理かもしれないが、できるだけ、なんとかしようと思っている。もちろん、俺になんとかできる範囲でだが。困っている者がいれば、必ず力になる。何かあれば遠慮なく俺かメリッサを頼ってくれ」
話しながら皆の表情を窺うが、反応らしい反応は無い。皆、ぽかんとして会場は変わらず静かなままだった。
「まあ、経営者が交代して変わることといえばそれぐらいだ。もし、これから何かを変えるとしても……少なくとも、ここにいる皆に無理をさせ、困らせるようなことは決してしない。俺が約束できることは多くないが、そこだけは約束させてもらいたい。俺からは以上だ」
とりあえず、言いたいことも言い終わったのでさっさと演台を降り、元来た赤い絨毯を踏んで帰る。
会場はしばらく静かなままだったが、次第にざわつき始め、だんだんとあちこちで拍手が起きる。
静寂に包まれていた会場だったが、一旦拍手が広がり始めると、あれだけの大人数だ。
建物の中に嵐でも訪れたのかと思うほどのすごい音に背中を押されて、俺は控室に戻った。
『────以上、ノール会長の就任挨拶となります』
館内に響き渡る放送音声を聴きながら控室の入り口を潜ると、俺はまず振り返ってメリッサの顔を見た。
「……どうだ、メリッサ? あれで大丈夫だったか?」
「一時はどうなることかと思いましたが……上出来だと思います」
「……そうか?」
「はい。最後の発言は経営者の就任演説というより、どちらかというと日和見の政治家寄りの具体性に欠ける発言でしたが……むしろ、今回はそのほうがベターかと。結果的に大半の従業員に希望を持たせ、大きな不安は拭えた印象があります。とはいえ……あくまでも鎮静化は一時的なものだとお考えください」
「なるほど。一時的、か」
「あとはノール様が先程のご自身のご発言をどう守られるか、という、今後の実際の経営手腕を問われることになりましょう……ですが、今回はまずその『当たり前』の状況にまで持っていければ上出来でした。ひとまず、大成功と言えるでしょう」
「そうか」
メリッサが少し緊張を緩めた顔で微笑むと、俺も少し緊張が解ける。
そこにリーンが歩いてくる。
「ノール先生、お疲れ様でした」
「リーン、悪かった。せっかく準備してくれた原稿を忘れていってしまった」
「いえ。後半のお話、私が準備した原稿より、ずっとよかったと思います。さすがはノール先生です」
「……そうか?」
リーンのことなのでいつも通り多少お世辞も入っているのだろうと思うが、褒められると少し照れる。
「ですが、ノール様。くれぐれも、ご自身のご発言の責任はご自身でお取りになられますように」
「……ああ? そのつもりだが」
俺の返答にメリッサは少し変な表情をしたが、すぐにいつもの平静な顔に戻った。
「では、執務室に戻り次第、今後のご予定を伺っても? これからの館の運営に必要な各種打ち合わせと、リンネブルグ様御一行のスケジュールを調整せねばなりません」
「そうだな」
リーンは確か、この国サレンツァの首都に呼ばれている。
俺はそもそもリーンの付き添いでこの国を訪れているので、そこを考えるとここにいられる時間はあと僅かだ。
俺は自分自身が忘れかけていた都合にまで気を配ってくれるメリッサに感心しつつ、皆と一緒に執務室に戻ったのだが。
俺たちより先に執務室にいる人物がいた。
「……ラシード?」
執務室に入ると、ラシードが出迎えてくれた。
その後ろにはシャウザもいる。
「やあ。また会ったね。演説、とてもよかったよ」
「もう出て行ったんじゃなかったのか?」
「そのつもりだったんだけどね。さっき、『機鳥郵便』で僕宛に手紙が届いた。それで、君に相談したいことができたんだ」
「相談?」
ラシードはそう言って金属製の筒から小さく丸められた手紙を取り出し、俺に差し出した。
「これは何だ?」
「僕への出頭命令の手紙だよ。思ったより、家族会議の結論が早く出たらしい」
「……サレンツァ家からの呼び出しですか?」
「ああ。『本家』から僕に出頭命令が出た。今回の件について「詳しく事情を聞きたい」とね。まあ、僕についてはやったことに心当たりがないわけじゃないから、仕方ないと思っているけれど……実はノール。君にも出頭要請が出ている」
「俺に?」
「ほら、それの二枚目だ。それを君に渡せって」
言われた通りラシードから渡された紙の2枚目を広げてみると、確かに俺の名前があった。
それを脇からリーンが覗き込んで渋い顔をする。
「……確かに、これはサレンツァ家の紋章です。それも法的な拘束力のある簡易命令の様式ですね」
「その通り。リンネブルグ様はよく勉強をされている」
「じゃあ、俺もラシードと一緒に行ったほうがいいのか?」
「ああ。別に嫌なら断ってもいいけれど……実質強制かな。無視してもロクなことにはならない。まあ、応じたとしても悪いことが起きないなんて保証はないけどね」
「行って、何か聞かれるのか?」
「ここは国が関わる施設だからね。運営としてはある程度独立は保っているけれど、経営者となった君には簡単な面接や、資質の調査があるんじゃないかな」
「……なるほど?」
「どうだい?」
「まあ、いいんじゃないか? どうせ、リーンの付き添いで首都には行くことになっていたんだし……リーン。俺の用事もついでに済ませる感じになるが、問題ないか?」
「はい、もちろん。向かう場所は一緒ですので」
「じゃあ、これから皆で一緒に首都に行くことになるのか」
「そうなるかもね。でも、その前に────」
ラシードの言葉を遮るように、廊下を走る足音がする。
直後、大きな音を立てて扉を開け、慌てた様子のクロンが部屋の中に入ってきた。
「ラ、ラシード様ッ……! き、緊急事態です! こ、こちらをご覧くださいッ……!!」
「違うよ、クロン。僕はもうここの経営者じゃない。君が報告をするべきオーナーは、そっち」
だが、金属製の板切れを差し出したクロンにラシードは笑顔で俺を指さした。
「……ぐっ……! オ、オーナー……! こ、こちらをご覧ください……!!」
クロンが苦悶の表情で俺に差し出した板切れには、砂漠らしき風景が映し出されている。
「……なんだこれは?」
「……襲撃です」
「襲撃?」
俺の質問に答えるクロンの表情が、苦悶から焦りに変わる。
「……ゴーレムの大軍勢が、ここ『時忘れの都』に攻めてきているのですッ……!!」
そう言われてよく見ると、その板切れに映る広大な砂漠の向こうには、大きな砂煙をあげる沢山の何かの影が映し出されていた。