130 シレーヌの弓
シレーヌは幼い頃、母と二人でサレンツァの北にある『壁』を越えた。
物心つくかつかないかの年齢だったので当時の記憶はほとんどないが、とにかく山のように高い壁を目にし、歳の離れた兄と抱き合って別れの言葉を交わしたことだけはなんとなく憶えている。
父と兄はシレーヌたちを逃がすため、壁の向こうの国サレンツァに残った。
別れる直前、父と兄はシレーヌたちにこう約束した。
『いつか必ずお前達を迎えに行く。それまで待っていてくれ』
母とシレーヌは彼らの言葉を信じ、来る日もくる日も彼らが迎えに来てくれるのをじっと待った。
でも、何日待っても。何ヶ月待っても。
何年経っても、彼らの生存を知らせる手紙すら届くことはなかった。
……今思えば、そんなもの来るはずはなかったのだが。
それでも、シレーヌの母は辛抱強く彼らの迎えを待ち続けた。
時には父と兄を探しに行きたいと漏らしたこともあったが、女一人で幼い娘を抱え、そんなことは不可能だった。
ただ生活していくだけでも精一杯だった。
シレーヌたち女二人の家庭は裕福ではなかった。
母はよく働いたが元々体が弱く、仕事をするのにも限界があった。
それでも、幸いにもシレーヌたちが逃げ込んだクレイス王国では、王が敷いた仕組みによって、どんな子供も王立の図書館に通えば読み書きを覚えられ、希望すれば自由に好きな本を読むことさえできた。
その為、クレイス王国で育ったシレーヌは、着る物が他の同年代の子より少しみすぼらしい、という程度の多少の貧しさを除けば、何不自由なく過ごすことができた。
母は時折、父と兄がいないことを嘆いたが、彼らの記憶が薄いシレーヌは母と平穏に暮らせていれば十分に幸せだった。
そんなシレーヌがクレイス王国の『兵士』になることを決めたのは、まだ幼い5歳の時だった。
自分を助けてくれた『国』という仕組みに少し興味を持ち、早く働いて少しでも母親に恩返しをしたい……という感情も確かに少しはあったが、それが一番の理由ではなかった。
シレーヌはある時、『ミアンヌ』という人の話を聞いた。
この国を守護する王立軍、『王都六兵団』のうち【狩人兵団】の団長が『獣人』であり、この国で他に並ぶ者のない【弓聖】ミアンヌと呼ばれる偉人なのだと聞き、その人はどんな人物なのだろうと興味を持った。
彼女もシレーヌと同じ獣人で、女性だという。
それも、彼女も他国からこの国に流れ着いた身でありながら一国の重要な役割を担い、その道で最高の地位にいると聞いて単純に憧れた。
獣人は普人族と比べると頭は良くないが、彼女のように『弓』を扱う才能がある者が多いという。
それなら、自分も弓を使ってみたいと母に懇願し、当時のシレーヌの家庭にはかなり高価だったであろう練習用の弓を誕生日に買ってもらった。
その時、シレーヌの中に夢ができたのだ。
でも、目標の【狩人兵団】に入団するのは『王都六兵団』の中で最も難関とされ、入団には非常に高い弓の技術が求められるという。
母は昔、自分も狩りの為に弓を取ったことがあると言って、シレーヌに基本的な弓の扱い方を教えてくれた。
シレーヌは教わったことを素直に繰り返し練習し、見る間に上達していった。
でも、シレーヌは母から教わったことはすぐにできてしまい、もっと上手くなれる方法はどこかにないかと、毎日、買ってもらった弓を持って外を出歩き、あちこちを探検するようになった。
そんなもの、普通、そこらへんに落ちているはずがないのだが。
でも、ある日シレーヌは見つけてしまった。
母親から「危ないから立ち入ってはいけない」と言われた王都の近くの森に、弓を持った女の人が入っていくのを見つけ、こっそり後をつけていった。
そして、その人が金色に輝く綺麗な弓で空の彼方の雲を射抜いて散らすのを見ると、シレーヌは弓を教わるなら絶対にこの人だと思った。
きっと、この人の真似をすれば、自分はもっと上手くなれる。
そうすれば、将来、きっと憧れの【狩人兵団】に入団できるぐらいにはなれるかもしれない、と。
「あたしに弓を教えてください」
突然、背後から声をかけられた女性はシレーヌの顔をしばらく見つめ、静かに問いかけた。
「貴方、今いくつ?」
「えっと……5さいです」
「そう。弓を始めるには、遅くも早くもないわね……それで、貴方は弓を使ってどうなりたいの?」
「……どう?」
「何の目的もなく、ただやりたいだけなら私が教える意味はないわ。貴方には何か目標はあるの?」
それは当時のシレーヌには難しい質問だった。
「……ミアンヌさんみたいに、なりたいです」
幼いシレーヌが咄嗟に思いついた『目標』を口にすると、その女性は意外そうな顔をした。
「……ミアンヌって、どの? 同じ名前の人、たくさんいるけど」
「……【狩人兵団】の、団長のミアンヌさんみたいに、なりたいです」
「そう。なんの為に?」
「……え、えっと。そ、それは……?」
幼い自分に対して矢継ぎ早に放たれる質問に、シレーヌは言い淀んだ。
弓を始めた一つの目的は今口にした【弓聖】への憧れだったが、本当の目的はそれとは別にもう一つあった。
でも、すぐには言い出せなかった。
それは母から決して誰にも言ってはいけない、と言われていたことだったから。
でも、シレーヌはこの人の前では嘘をついてはいけない気がして、その秘密を口にした。
「……『壁』の向こうにいる、お父さんとお兄ちゃんに会いに行きたいから、です」
その女の人はしばらく無言でシレーヌの顔を見つめると、シレーヌが口にした理由には触れず、ただ弓を構えるように言った。
「じゃあ、構えてみて」
「……あっ、はい……こう?」
「姿勢はいいけど、持ち方が間違っているわ。握りはこうしなさい。それと重心も、あとほんの少し低く保って」
「……じゅうしん?」
「自分の身体が動くとき、真ん中にある感じがする場所よ」
「えっと……こういう感じ、ですか?」
「……そう。それで大丈夫、出来てるわ。それだけで精度が段違いになるから、常に意識して」
「…………せいど?」
「……狙った通りによく当たる、ってことよ」
それからシレーヌは母親に内緒で、毎日、その森に通うようになった。
当時のシレーヌから見れば、母親の弓の技術はまるで魔法のように見えたのだが、その女性の弓はそれすら遥かに凌駕し、幼かったシレーヌにも美しいとまで思えた。
その人は毎日その森にいるわけではなく、時には長い間姿を消すこともあった。でも、時折姿を見せてはシレーヌの弓の悪い癖を指摘し、それを直す為の練習方法を教え、またどこかに立ち去った。
シレーヌは、彼女に教えてもらったことを繰り返し繰り返し練習した。
手の皮が破け、指が擦りむけ血が滲んでも、母親には遊んでいて転んで擦りむいたと嘘をつきながら、ひたすら的に向かって矢を射続けた。
シレーヌには当時、それしかなかったから。
それは今も結局そうなのだが。
一つのことに打ち込む時間が楽しくて、夢中になることができた。
そうしてシレーヌは七歳にして風の読み方を覚え、矢は鋭く疾く空の彼方まで飛んでいくようになり、十歳になる頃には雲を貫いて散らすまでになった。
その間、シレーヌに弓を教えてくれた女性は一度も名乗らなかった。
シレーヌも聞かなかったし、シレーヌの名前を聞かれることもなかった。
とはいえ、シレーヌも流石にその人の名前が気になり、一度、尋ねてみたことがあったのだが。
「そんなの、誰だっていいじゃない。戦場に出たら、名前なんて誰も気にしてくれないわ」
と言われ、確かに……と思い、シレーヌはそれ以上聞くのをやめた。
シレーヌとしては彼女に弓を教われるだけで満足だったし、彼女が弓を扱う姿を眺めているだけでも楽しい。
それに、お互い煩わしいことを考えず、ただ弓にだけ打ち込める。
そんな関係がとても好きだった。
そうして彼女と一緒にいる間はだんだん弓のこと以外気にならなくなり、一緒に居ても一言も会話すらせず、ずっと弓から矢を射っているだけで一日が終わることがあった。
それもシレーヌにとっては、とても充実した日々だった。
そうして、お互いに名前も素性も知らないまま年月が経ち。
シレーヌは目標だった【狩人兵団】の試験を受けられる年齢、15歳になった。
そのことをなんとなく、雑談のような調子で隣にいた彼女に伝えると、突然、じっと顔を食い入るように見つめられた。
「貴女、名前は?」
「……はい。シレーヌと言います」
この人はずっと前に「名前なんてどうでもいい」と言っていたのに、いったい、どういうことだろう……と思いながらその人に初めて自分の名前を告げると、
「そう。シレーヌね。貴女、次の【狩人兵団】の試験を受けなさい。受かるから」
ああ、やっぱり、この人は【狩人兵団】の兵士だったんだな、と思った。
だからあんなに弓が上手かったんだ、と納得した。
元々、試験はいずれ受けるつもりだった。
でも難関として有名で、一発合格はとても難しいという噂の試験なので、もう少し上達してから受験しようか……と迷っていたところだったが。
その人に言われた通り、シレーヌは思い切ってレストランの給仕のアルバイトをお休みして、その年の『狩人兵団』の試験を受けることにした。
その結果、シレーヌは狩人兵団の入団試験を一回で通過した。
きっと難しい試験なのだろうと緊張していたシレーヌは拍子抜けした。
試験の内容が今まで彼女に教わってやっていた練習に比べれば、ものすごく簡単なことだったからだ。
試験の最中、もしかして自分は受ける試験を間違えたのではないか? そもそも、全然別の会場にきてしまったのではないのか……? と不安になり、試験の内容と場所を何度も試験官に確認したが、何回確かめてもそこで間違いはなかった。
それどころか、後でその試験が始まって以来の最高の成績だった、と聞かされた。
そうして、シレーヌは晴れて憧れの【狩人兵団】に入団することができ、試験の後、これから先輩団員となる自分に弓を教えてくれた女の人を見かけてお礼を言ったのだが。
その人から返された言葉に、思わず耳を疑った。
「じゃあ、シレーヌ。明日から貴女がウチの副団長だから。よろしくね」
────と。
シレーヌはしばらく、その言葉の意味がわからず、だんだんと意味がわかり始めてからも、聞き間違いかな、と思った。
そうして家に帰って試験の結果を母親に報告し、お祝いの夕飯を一緒に食べ、夜ベッドに入って眠りにつくまでずっとそのことを考え続けたのだが。
やっぱり、意味がわからない。
でも、それは聞き間違いなんかではなかった。
翌日、シレーヌが初めての自分の職場に出勤するとすぐに、集まった大勢の団員全員の前で、シレーヌに弓を教えてくれていた女性はこう言った。
「この子がシレーヌよ。今日から空席だった副団長をやってもらうことになったわ」
当然、団員の間でざわめきが起こった。
あまりに突然のことで腑に落ちない、という感じの反応がほとんどだった。
シレーヌも全く同じ気持ちだったが、その女性は皆に向けて言い放った。
「もし、他に副団長になりたいって人がいたら、この子と競って勝ちなさい。勝てたらその人を代わりに副団長にしてあげる」
一瞬、辺りが鎮まると、すぐに大きな歓声が上がった。
そうして一人、また一人と【狩人兵団】の猛者達の中から『副団長』への立候補者が出始めた。
名前を聞くと、シレーヌでも名前を知っているような達人ばかり。
うろたえて尻込みするシレーヌだったが、無茶を言い出した女性は「いいから騙されたと思って、試しにやってみなさい」とだけ言う。
本当に詐欺にあったような気持ちでシレーヌは渋々、競技台の上に立ったのだが。
────その結果。
シレーヌは勝った。
というより、誰も相手にならなかった。
意外すぎる結果に、本人も周囲の人間も呆然としていると、先程の女性がその理由を解説する。
「この子、私用の訓練メニューを毎日……それも、ここ十年近くずっと続けてるの。この結果は当然よ」
その言葉を聞き、皆が一斉に恐ろしいものを見るような目でシレーヌを見た。
そこでようやく、自分が弓を教わっていた師匠があの【弓聖】ミアンヌ本人だったということが判明し、結局その日から、シレーヌは最年少の新入りでありながら皆にしっかり『副団長』として認められたのだが。
◇
「……まさか、こんなに早く教える立場になるなんて」
それも、かなり切実な場面である。
自分にとってはそれほどでもないが、教えられる方にとっては生活に密接した問題だ。
最初はリンネブルグ王女に「小さな畑を守るために必要な弓術」と言われ、「まあ、それぐらいなら……」と慎重に請け負ったのだが、いつの間にか、あのノールという冒険者と一緒に畑の下見に行って『神獣』を狩ったあと、守らなければいけない畑の規模が信じられないほどに大きくなっていた。
もはや、ちょっとした軍隊に近い規模で訓練しなければ、あの広大な土地は守りきれない。
……そんなの、どう考えても自分の手に余る。
でも、イネスが「本当にクレイス王国の『王都六兵団』所属の人間がサレンツァの人々に武術訓練を行っても良いか」という判断を仰ぎに王都に行って帰ってきた時には、王女の『お願い』は「しっかりやってくれ」という内容の『王命』の手紙にすり替わっていた。
いや、あくまでも文面はお願いするようなニュアンスではあったのだが。
シレーヌを名指しした「結果の責任は王である自分がとるから、とにかく力を尽くしてくれ」という内容の王直筆の手紙を受け取ってしまった。
そんな手紙を貰ったら、もうどこにも逃げ場はない。
シレーヌは緊張で身が引き締まる思いを通り越し、重圧で心臓が圧し潰されそうな気持ちがした。
とはいえ一応、シレーヌはクレイス王国が誇る『狩人兵団』の『副団長』という大層な肩書きがあり、多くの部下を従える立場にある。
だから怖気付かずにやらなきゃ、と思う反面、本当に大丈夫か、という思いが勝る。
シレーヌは入団試験が受けられる15になった歳、『王都六兵団』の『狩人兵団』に試験を受けて入団した。
伝説的な存在【六聖】の一人、ミアンヌ団長の抜擢でいきなり『副団長』という分不相応としか思えない役職に就くことになった。
自分は実戦経験もろくにないのに、それはおかしい、と思ったが、聞いてみると『狩人兵団』はシンプル極まりない「単に弓の上手い者が上に立つ」という昇進ルールが敷かれていた。
王都六兵団の中でも珍しいぐらいに極端に偏った実力主義の集団であり、その集団の中で『試合』とはいえ実際に競い合って勝ち残ってしまったので、そこまでは百歩譲って納得はした。
でも、その後の自分の働きが肩書きに見合うものであるかどうかはいつも疑問に感じていた。
【狩人兵団】の『副団長』といえば『団長』に次いで地位が高い役職だ。
でも、普段のシレーヌの業務内容は『上に立つ者』のそれというより、完全に一兵卒としてのそれであり、他の団員と同じく単に団長の命令に従うだけだったり、たまに会議への出席など儀礼的に副団長っぽい仕事をすることもあったが、ほぼ担がれた神輿であり、必要な物は全て経験豊富なベテラン団員が準備してくれた。
よって、基本的に何もすることはなかった。
自分よりも他人に的確な指示を飛ばすことに慣れている熟練者は既に数多くいて、その人たちを観察していると、他人に弓の技術を教えるのが自分よりもずっと上手い。
彼らの気は優しく、ぱっと見でも人格者で細かいところにも気が回り、経験の浅い自分をいつも助けてくれた。
それだけに「なんで自分が『副団長』なんだ」と疑問に思う日々。
むしろ彼らが自分の上司である方が自然だと思うし、彼らの下で働ければきっととても快適だろうとすら思う。
自分が彼らに勝るのは、ただ「誰よりも正確に矢を射てる」、という一点のみ。
もし彼らがこの場にいたのなら、きっと自分より上手くやるだろう────と思いつつ。
「……そんなことも、言ってられないか」
シレーヌはゆっくりと辺りを見回した。
すでに、100人を超える村人が自分の周りに集まっている。
そして周囲を何度眺めても、今、ここには自分しかいない。
誰かに縋りつきたい気分でいっぱいだが、もう覚悟を決めるしかない。
「……えっと。とりあえず、見ていてください……」
シレーヌはとりあえず、自己紹介代わりにいつも自分がやっている訓練を見てもらうことにした。
でも、口にしたはいいものの、本当にこれで良かったのかという疑問は残る。
自分の弓の練習方法を伝えると大抵、皆が「信じられない」という顔をし、実際にやって見せると唖然とする。
そんな体験を多くしてきているだけに、シレーヌは少し不安だった。
でも、まずは彼らに自分が技を教えるに値する人物だと認めてもらわなければ、指導するにしたって話を聞いてもらえないだろう。
冒険者ノールが『神獣』を討伐したことで、クレイス王国から来た自分達への信頼感は今やかなり高まっているが、それはシレーヌ個人に対してのものではない。
というか、この村に来てから料理番ぐらいしかしてないので、完全にそういう存在だと思われてる可能性もある。
とにかく、自分にはこれ以外に取り柄がないし、他に信頼してもらう方法はないのだと、覚悟を決めて、シレーヌは空に向かって弓を引く。
「まず、一本目」
シレーヌの弓から真上に放たれた一本目の矢は空に呑み込まれ、見えなくなった。
辺りから小さな歓声が上がる。
彼らは弓を使うという。
正確に真上に矢を放つのは実は結構難しい、ということを多くの人が理解してくれている様子でほっとする。
シレーヌはここで、彼らの反応を伺いながら、彼らに伝えるべきことを考えよう、と思った。
何もあれやこれをしてほしいとシレーヌから言い出さなくても、相手に合わせて教えることを決めれば良いのだ。
きっと、そのほうがわかりやすい。
この大人数相手は大変そうだが、そのやり方なら自分でもできる気がする。
そう考えて少し気が楽になったシレーヌは、素早い動きで次に放つ矢を手に取り、弦を引く。
「────二本目」
二本目に放たれた矢も、正確に真上に飛んだ。
そして真っ直ぐに落下してきた一本目の鏃と音を立てて、ぶつかった。
先ほどよりも少し大きな歓声が起きる。
……これは「すごい」と思って反応しているのか、それとも「これぐらいなら自分でもできる」と思っての反応なのか。
シレーヌは疑問に思いつつ、二本の矢を弓の弦に載せる。
「次」
同時に放たれた二本の矢は、空の上でくるくると舞っている最初の二本の鏃を正確に捉え、火花を散らしながら空の上へと押し上げた。
先ほどまでの流れに沿えばここは「三本目と四本目」、と言うべきところだが、だんだん億劫になってきたシレーヌは省略した。
どのみち、ここから先はそんな余裕もない。
「次」
空で踊る四本の矢を目端に捉えながら、シレーヌはすぐに四本の矢を弓に添え、空に向かって同時に放つ。
四本の矢は空の上の四本を捉え、再び同じように空に上へと弾き飛ばす。
もう、辺りからの歓声はない。
……これはどういう反応なのか。
すごいと思ってくれているのか、同じことの繰り返しにそろそろ飽きたのか。
確認したくても、空の矢から目を離せないので周りの人間の表情が見えない。
とりあえず始めてしまったのだし、もう最後までやり切ろう、とシレーヌは決心する。
「────次」
合計八本になりバラバラと空に散る矢をじっと見つめ、シレーヌは一呼吸で八本の矢を弓に添え、そのまま迷うことなく真上に放つ。
放たれた矢はそれぞれ生き物のような軌道を描いて、上空の八本に命中した。
「よし──……次」
そこから間をおかず、シレーヌは更に十六本の矢を手に取り、すぐに空に放つと、用意していた矢束から三十二本の矢を掴み、空に向かって手で放り投げた。
放たれた十六本の矢が空の十六本に命中するのを見届けながら、シレーヌは一つ深呼吸をする。
……いつもの練習といえど、ここからはあまり気を抜けない。
別にこれは実戦ではないし、失敗したところで実害はないのだが……何だか、大勢の前では絶対に失敗できないという変なプレッシャーがある。
「────そこ」
シレーヌは手で放り投げた三十二本の矢を全て弓の弦で捉え、同時に空に解き放つ。それら全てが別々の軌道を描き、空の三十二本の鏃を正確に捉えた。
「次」
六十四本となった上空の矢を目の端で捉えながら、シレーヌは次の六十四本の準備をする。といっても、同時に六十四本は射てないので三十二本の矢の束を二つ、宙に浮かす。
そうしてシレーヌは一呼吸で二回弦を引き、合計六十四本の矢が同時に空へと放たれる。
それぞれがまるで意思を持つ生き物であるかのように空に拡がり、六十四本の鏃を同時に打って剣戟のような険しい音を空に響かせた。
「────次」
空に舞う矢の本数はこれで百二十八本。
それを落とす百二十八本を放って、全ての矢を安全な場所に集めて落とす。
それで、この練習方法の1セットは終わり。
ここまで失敗することなく出来て、あと少しで終わりだという安堵感と、ここまでやって失敗したら格好がつかない、という恐怖感が同時に襲い、それでもいつも通りにやればいいのだから大丈夫、と、自分の心を平静に持っていく。
そうして、次に射る矢束を掴もうと、無数の矢が舞う空を眺めながら、半ば無意識に矢束のある辺りを手で探るのだが。
「……よし、次……あれっ?」
シレーヌの指はスカスカと空気を掴んだ。
驚いて手元に視線をやると、そこにあるはずの矢がなかった。
……というか、矢が一本しか残ってない。
(えっ……これ、かなりやばいんじゃ……?)
上空で漂っている矢の本数は百二十八本。
それを打って軌道を変えるのに必要な矢は、同数の百二十八本。
でも、シレーヌが見たところ……あと、百二十七本ほど足りない。
ここが王都の練武場じゃないことを完全に忘れていた。
持ってきた矢の数には限りがある。
緊張のせいで忘れていた。
あれらは放っておけば、このまま落ちてくる。
つまり、ここでのんびりと空を眺めている村の人々に刺さる。
……それは、かなりまずい。
というか、完全に大事故だ。
「……ふう」
まだだ。まだ一本ある。
ちょっと予定が変わったが、これであの百二十八本を全部叩き落とせば……問題ない。
そう思ってシレーヌは自分の心を落ち着かせる。
「────当たれ」
直後、シレーヌは渾身の力を込めて弓の弦を引き、残った最後の一本の矢を水平に射出した。
上空から迫る百二十八本の矢とは全く違う方向に矢が放たれたことに、大きなざわめきが起きる。
だが、放たれた矢は弧を描いて大きく軌道を変え、突風を巻き起こしながら勢いを増し、シレーヌたちの頭上に舞い戻って空から降り注ぐ矢の群れに衝突した。
辺りから大きな歓声が上がる。
シレーヌが射った最後の矢は、地上に降り注ぐ百二十八本の矢を打ち払った後、強い風を巻き起こして辺りに小さな砂嵐を起こした。
その小規模の嵐が過ぎ去った後、空に放たれた矢は全て、じっと腕組みをして立つシレーヌの足元に突き刺さっていた。
それを見た獣人達からまた歓声が上がった。
(……今のは、けっこう、やばかった……)
結果オーライ。
トラブルめいたものはあったけど、最後にはなんとかなったので、全てよし。
……とはならないんだろうな。
『迷宮遺物』の弓の力を借りた力技でなんとかなったが、あわや大事故。
そもそも、持ってきた矢の本数を間違えるなんて、普段ならあり得ない。
もし、この場にミアンヌ団長がいたら……?
シレーヌが若干身体を硬くし、耳と尻尾の毛を逆立てながら頭の中で大反省会をしていたところ、弓を手に持った獣人たちが目を爛々とさせながらシレーヌの下へと押しかけてきた。
そして口々に弓を教えて欲しい、と興奮した様子で懇願した。
どうやら、自己紹介は派手に失敗はしたが、かえって自分のことを信じてもらえるという効果はあったらしい。
……少し効果がありすぎて、怖いぐらいだが。
そうして、シレーヌは若干の罪悪感を覚えつつ、彼らに手探りで弓の教練をすることになったのだが。
◇◇◇
シレーヌは結局、自分の師匠のミアンヌ団長から教わったことを教えることしかできそうもない。
自分はそれしかやってこなかったから。
ミアンヌ団長の弓の教え方は極度に感覚的で、一部の団員には暗号扱いされるほど不評だったりするのだが、どうやら同じ獣人であるこの集落の人々には割とすんなり伝わるらしい。
そういうわけで、村の獣人達にも自分がやってきた通りのことをやってもらったところ────
「シレーヌ先生! 教わった通りにやると、目を瞑っていても面白いように矢が当たります!」
「ははは、矢の飛距離が今までの数倍になりました!」
「おかげさまで砂丘の向こうの蠍を仕留めることが出来ました! まさか、自分にこんなことができるなんて……」
「ふほほ、ワシも若い時の数倍、矢が鋭くなりましたぞ! 死んだ婆さんにも見せてやりたかったですわい!」
獣人達の飲み込みは異様なほど早かった。
元々、彼らは弓を得意とする人々で、普段の練習量もかなりのものだった。
それがミアンヌから学んだシレーヌの教える『コツ』を得たことによって、飛躍的に能力を伸ばしていった。
彼らから相次ぐ無数の喜びの報告を「あ、そうですか、よかったですね」と他人事のように受け止めていたシレーヌだったのだが。
「……これ、かなりまずくない……?」
あまりにも重なる上達の報告に、シレーヌはだんだん危機感を覚え始めた。
自分が教えたことで上達してくれるのは嬉しい。
嬉しいけれど、あまりにも上達が早すぎる。
というか、既にクレイス王国の【狩人兵団】に欲しいぐらいの名人が何人もいる。
この人たちが、このまま上達していったら……?
シレーヌの目の前で『畑を護るための自警団』なんて遥かに超えた規模の軍事力が、みるみる育っていく。
なんだか、自分はとんでもないことに手を染めているのではないか、という気分になる。
「……いや。……まあ、これでいいのか。これはあくまでも王命、だしね……?」
とはいえ、王にベストを尽くせ、と言われたからにはその通りにやらないわけにはいかないし、王様は全て責任を取ると言ってくれているわけだし、そこを自分が心配することもないだろう。
……うん、だから、大丈夫。
きっと大丈夫に違いない。
そんな風に自分に言い聞かせながら、シレーヌは一応、彼らの指導者という立場上、平静を装うため腕組みをしてその場にじっと立ちつつ、内心「もうどうにでもなれ」という気分で砂漠の空に飛び交う無数の矢を眺めた。