128 神獣鍋
俺ははやる気持ちを抑え、その場に集まっていた皆とその後の『神獣』の処理のことを相談した。
遠くからも俺が岩エビを空に打ち上げるのが見えたらしく、ロロとシレーヌもリーンが呼びに行くまでもなく近くに来てくれていたので、話が早い。
料理人のロロと相談しつつ、『神獣』は食材に使う部分は斬り分けてリーンの氷魔法で冷やして運び、その他の部分はその場に放置して肥料に回すことにした。
一応、肥料の分もリーンが魔法で氷漬けにしてくれて、とりあえず放っておいても明日までは腐る心配はないらしい。
その後の処理は皆で色々と相談した結果、明日のイネスの到着を待つことにした。イネスのあの『光の剣』ならば硬い殻ごと斬り刻めるらしいし、その方が効率が良いだろう、ということだった。
そういうわけで、とりあえず俺たちは予定していた全ての作業を中止し、巨大な『神獣』が新鮮なうちに皆で味わってしまおうということにして、リーンのスキル『浄化』で解毒を済ませた岩エビの身を、多少味付けをして大鍋で煮るだけのシンプルな料理をロロに作ってもらうことにしたのだが。
「……これは、凄いな」
まだ調理中だが、火にかけられた大鍋からあまりにも良い匂いがする。
戦っている時から旨そうだとは思っていたが、想像以上だ。
その香りに引き寄せられるようにして、村の人々がぞろぞろと集まってくる。
広場の真ん中でもうもうと湯気を立てる巨大な鉄の鍋は、どんどんその旨そうな匂いを拡散し、村の人々の視線を釘付けにした。
「そろそろ、丁度いい頃だと思う。食べられるよ」
そうして、ほぼ全員村人が集まっただろうという時点で、ロロが料理の完成を宣言した。
鍋を熱していた火が弱められ、シレーヌが木製の器にその白く濁ったスープと、太陽の光を受けてプリプリと輝く白いエビの身を盛り付ける。
『神獣』と言われていただけあって器に盛られた姿が一層、神々しく見える。
「では、ノール先生、どうぞ」
「本当にいいのか? 俺が最初で」
「はい。あれは先生が仕留めたのですから」
「そうか……? まあ、毒味役という意味では俺がいいかもしれないな」
「い、いえ。先ほど解毒は完全に済ませてあるはずですので、そこは安心していただければ……?」
「いや、リーンを信用していないわけではないが……でも、もしかしたら辺りに毒を撒き散らしていた生き物ということで、不安に思っている村の人もいるかもしれない。その点、俺なら万が一、毒があっても大丈夫だし、実際に食べて判断してみれば万全だろう」
「……はい」
あの『神獣』と呼ばれていた岩エビは、一応、俺が仕留めたということで最初に俺が食べてもいいことになった。
とはいえ、あれを地中深くから見つけられたのはリーンのおかげだし、肉もリーンが『浄化』のスキルで解毒して食べられるようになったわけだし、俺一人の成果ではないのだが……長い間、ここ一帯に毒をまきちらしていた生物ということで、もしかしたらまだ、未知の毒が残っている可能性もある。
なので毒味という意味では、俺が一番に食べさせてもらうのがいいだろう、ということで俺も了解した。
そういうわけで────実食だ。
「では早速、いただこう」
俺に村中の注目が集まり、器に盛り付けられたスープを前に少しだけ緊張する。
リーンが解毒は完璧だと言っていたので問題ないと思うのだが。
気になるのは、むしろ味の方だ。
恐る恐る口に運ぶ。
だが一口、その白く濁ったスープを口に含んだ瞬間────俺の頭は真っ白になり、身体は石のように硬直した。
「────う?」
「……ノ、ノール先生……!?」
そんな俺の様子を見て周りの皆が戸惑い、心配する声が聞こえる。
俺はその声に反応できなかった。
……身体が、全く動かない。
とはいえ、俺が動けないのは皆が心配している原因とは違う。
このスープに毒はないと断言できる。
俺は子供の頃からありとあらゆる種類の毒を食べてきたが、このスープからは全く毒の味はしないので、はっきりとわかる。
リーンのスキルによって完全に解毒されている。
────代わりに感じるのは、口いっぱいに広がる濃厚な旨味。
まだ、俺はスープを一口啜っただけなのに、全身に落雷のような衝撃が走り、信じられないような未知の味覚の世界が口の中に広がっていく。
そのせいで身体が動かせない。
この壮絶な旨さを感じる一瞬一瞬が惜しく、言葉すら出せそうにない。
だが、周りで俺を心配してくれている人間を落ち着かせるため、俺はなんとか一言、絞り出す。
「これは────旨い」
それが精一杯だった。
このスープの味は簡単に言葉では言い表せない。
俺が知っているどんな言葉も、この深い味わいを言い表すことはできないだろう。
……美味い。
とにかく、美味いとしか言いようがない。
しばらく待ってみても、ちゃんとした言葉にはなりそうもない。
代わりに、俺の脳裏にはかつてこの地域で犠牲になったという生き物と、大昔に姿を消してしまったと言う豊かな森の姿がありありと描かれる。
長い時間を超えた、命の連鎖。
こいつはその歴史を全て、その身にぎゅっと詰め込んでいるのだ。
スープを口に入れたことで俺の頭の中に次々と浮かんでくる深い緑の森の世界。
そこで、やはり、と俺は確信する。
おそらく、この村の青年から聞いたこの地域に肥沃な土地があったというのは本当のことだろう。
でなければ、ここまで深い味わいの生き物が育つわけがない。
────かつて、そこにはゆったりと流れる水があった。
その周りに樹々が生い茂り、育った樹木が実り、種が落ちてまた森が拡がる。
そこに鳥たちが集い、それを目当てに様々な動物が集う。
そうして森は更に深くなり、様々な生物がその豊かさを享受し、共に栄える。
そんな世界が確かにここにはあったのだ、と。
このエビのスープはそれを俺に納得させるのに、十分な味だった。
俺はしばし、その雄大な光景に目を閉じて浸っていたが、ふと、まだ自分の役目が終わっていないことに気がつき、スプーンを握り直す。
そして、木の器に盛られた白くプリプリとした『神獣』の身に視線を向け────戦慄する。
「……まだだ……まだ、これからなんだな」
このスープを一旦、口に含んだからこそわかる。
スープはまだ、この岩エビ本来の姿ではない。
ロロがこれを煮炊きした時間は、それほど長くはなかったと思う。
ということはつまり、旨味はスープの方にはまだそれほど流れ出してはおらず、身の方に凝縮したまま十分に残っている、ということだ。
……言ってみれば、白い身こそが奴の本体だ。
これから、それを食すことで俺の身にどれだけの衝撃が走るのか想像もつかない。
思わず鳥肌が立つ。
最初の一口目で危うく別世界に飛び立ちかけたが、まだ、俺はこのエビの真の姿には遭遇していないのだ。
それに気がついた俺は思わず息を呑み、緊張しつつ木製のスプーンを構える。
「いた……だきます」
そして、二口目。
もはや祈るような気持ちで、エビの身をいただく。
木製のスプーンで軽くほぐすだけで、身がほろほろと柔らかく崩れ、そこから立ち上る湯気だけでもう、うまそうだ。
勿体無いので少しずつ食べようかとも思ったが、待っている皆を待たせても悪いので、思い切って丸ごと口に放り込む。
「────う」
途端に強烈な旨味が口の中に広がる。
まだ噛んでもいないのに、この衝撃。
思わず身を噛むことを恐れて口の中を転がすが、料理人ロロの調理により最適な火加減で煮込まれたプリプリの身は、噛むまでもなく舌の上で自然にほどけ、それだけで身を貫くような旨味を感じる。
その刺激ですら気を失いかけるほどだが、もちろん、それで終わりではない。
弾力のあるエビの身は、そこから噛むとプツン、と炸裂するように弾け、その度に濃厚な旨味を含んだ肉汁が口の中で暴れまわる。
幸福をもたらす未知の味覚が二重、三重と俺の舌に襲いかかり、その世界から俺を一瞬も逃さない。
……これは、何といえばいいのだろうか。
────神の獣。
そう。こいつは、まさに『神獣』と言うにふさわしい。
語彙のない俺に、そんな感想を抱かせた。
そしてあっという間に、完食。
俺は毒味役という自分の役目も忘れて最後の一滴まで一息に飲み干した。
空になった器に気がつき、振り向くと皆が真剣に俺の顔を覗き込んでいた。
……無心になって食べていたので、少し、気恥ずかしい。
「……すまない、毒はないから大丈夫だ。すぐに皆にも食べてもらってくれ」
「は、はい」
ロロとシレーヌが大鍋からスープを掬い、たくさん用意された木の器に盛り付け、それを村の人々が受け取り、皆に行き渡るように配っていく。
夢中で食事に没頭していた気恥ずかしさもあり、俺も村の人々と一緒に皆に配って歩く。
「あ、ありがとうございます」
「……こ、これは……?」
「……う、旨そうな匂い……」
木の器を受け取り、最初は恐る恐る口にしていた村の人々だったが、その味を一旦覚えると老人までもが人が変わったようにスープを貪った。
無理もない。あれは美味い。
うますぎる。
正直、あと十杯は食べたい。
「おかわり、まだまだあるからね」
そこに、朗報を告げるロロの声。
一杯目を平らげた子供達が一斉に群がる。
遅れて、大人たちが鍋の周りに押しかける。
当然、俺もその中に混じる。
日差しは強いが、リーンの氷魔法で作られた氷柱があちこちに置かれており、快適だ。
大歓声の宴は夜まで続いた。
◇
『神獣鍋』は大好評だった。
リーンによれば『幻の生物』とまで呼ばれた『神獣』はもう二度と手に入らないと聞き、もう二度とあれが食べられないのが惜しいと、少し悲しく思ったが、新鮮なまま氷漬けにしておいたものを、空っぽになっていた村の倉庫に運び込み、まだまだ大量に保管してあるのだと聞き、明日からの希望が持てた。
もうしばらく、俺たちはあれを食べ続けることができるらしい。
料理人のロロからも、少しづつ味付けを変えながら調理してみるという提案があり、それもかなり楽しみだ。
そういうわけで満腹になった俺たちは、明日、イネスの馬車が到着してから作業に励むため、早めに休むことにしたのだが。
「……何だ? 馬の足音……?」
皆が眠りにつこうという深夜、宿の外で馬の足音がした。
俺たちは少し驚きつつ様子を見に顔を出したのだが、そこにはイネスが乗って出て行った馬車があった。
「イネス? もう、王都を出てきたのですか? 到着は明日のはずでは」
「はい。ですが、リンネブルグ様のご報告を受け、急ぎ目に戻ってまいりました。出来ればもう少し早く戻るつもりでしたが、種の手配に時間がかかってしまい、このような夜更けになってしまいました。申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ、心配をかけてしまったようですね」
イネスは遅くなったと言ってリーンに謝ったが、俺たちとしては予想よりずっと早かったので別に謝られる理由もない。
急いだ分、馬車を引いていた馬たちがかなり疲れた様子だったが俺が『神獣鍋』の残りを見せると少し興奮気味に器に顔を突っ込み、平らげると元気に嘶いていた。
馬でもあの旨さがわかるらしい。
とりあえず、頑張った馬たちと同じく疲れていそうなイネスにはすぐに休んでもらうことにして、俺は早速、彼女に頼んで王都から持ち帰ってもらった荷物を確認することにした。
みれば、俺が頼んでいたものを、しっかり集めてきてくれたようだった。
というより、想像以上に大量に買ってきてくれたようだ。
馬車の中の収納スペースに、これでもかというほどぎっちり詰め込まれている。
その中には大量の作物の『種』と、あの種屋の青年が半日で書き上げてくれたという手書きの分厚い『栽培計画書』があった。
「これは……凄いな」
そのメモには馬車に積まれていたそれぞれの作物を育てる注意点など、必要なこと全てが網羅してあった。
それも、痩せた土地で育てるときに特に気をつけるべきことが、土の作り方から病気の予防法まで、何から何まで丁寧に小さな文字で書き込んである。
俺は『マンドラゴラもどき』と似たようなものがあれば欲しい、ぐらいの軽い気持ちでイネスにお使いをお願いしただけだったのだが。
あの種屋の店番の青年と知り合いになって本当に良かった、と思った。
積んでもらった作物の種の袋に「そちらの環境がよくわからなかったので、とりあえず幅広く揃えておいたから色々試してみてくれ」という添え書きがついていて、確かにどれから栽培していいか迷うほど大量の作物の種類があった。
たまたま、とんでもなく良好な肥料が手に入ったので、これは本当にちょうどいい。
おかげで色々試すことができるようになった。
今から明日になるのが待ち遠しい。
そんなウキウキした気分で『栽培計画書』を眺めていた俺だったが、読み始めると面白く、作物の育て方の指示も具体的なので、あの何もない砂漠の真ん中でどんな畑ができるのか、色々と想像がわく。
俺の知らない作物も多いが、簡単な絵入りで実の食味や一般的な調理法、余った茎の利用方法まで描いてくれているものだから、それができたらどうしようか、と思わず考えてしまう。
一ページごとに、そんな想像ができるのだからたまらない。
読む手が止まらず、全てを読み終える頃には辺りはすでに朝になっていた。
「……しまった。もう、朝か」
一睡もしないまま、朝を迎えてしまった。
でも、全く疲れを感じない。
あの『神獣鍋』を十五杯も食べたからだろうか。
むしろ、いつもより元気なぐらいだった。
それがちょっと、不気味だが。
────とはいえ、朝の光を迎えたことで、改めて実感が湧く。
イネスが帰ってきてくれたことで、ここに必要な全てが揃ったのだ。
リーンのお父さんは例の水の出る魔道具、『湧水の円筒』を気前よく準備して、イネスに持たせてくれた。わざわざ「自分が責任を取るから、好きにやってくれ」という内容の手紙付きで。
そういうわけで、水はある。
肥料もある。
種もある。
ならば、あとは────
「耕すだけだな」
俺は昨日『神獣』のスープが見せてくれたあの豊かな森の姿を思い描きながら、これから一緒に働く『黒い剣』を掲げ、照り始めた陽の光に翳した。