秋の朝の空気
秋の朝は湿っている。春の朝も湿っているが、秋は春よりも少しばかり居心地が悪い。夫婦仲の悪い家のソファのような湿り方である。そんなわけで私は秋の朝はあまり好きではないがそのソファにももちろん良いところはある。そもそも朝というのは一日の中では爽やかな時間なのだ。矛盾しているような物言いではあるが、退廃的に生きる上で秋ほど、気持ちを高ぶらせてくれる季節はない。ある日、パタンと、夏のうだるような暑さが無くなる。ひんやりと冷たい風が頬を撫でる。永遠に続くかに思われる夏の熱は、一夜の恋のようなものだと知る。そんな風に夏が去ってからではないと人は全てが移りゆくことに気が付かない。それは悪いことではないし、そんな風に私たちは生きてきたのだろう。夏に冬の灯油の心配をする人はいない。
話を戻そう。秋という季節は私たちに時の移ろいを残酷に、それもできるだけ残酷に表現することに関しては他の四季を圧倒する。特に現代の私たちに。
つまりは消失の痛みは、かけがえのないものへの愛の表現であり、このことを認めない大量消費大量生産は、代替可能性という幻想を私たちに抱かせた。そもそもだ。変化の連続の中で生きていくことこそが人生の在り方なのではないのだろうか。先人の人々はその中で文化を作り、歴史を作り、国を作った。
私は家から差して離れていないコンビニの駐車場にある灰皿の前で煙草の煙を揺らしている。コンビニのコーヒーは酸っぱく、いかにも遠く東南アジアの人間のアンフェアトレードに対する怨念が詰まっている。少し先の国道をトラックが排ガスをまき散らしながら走っている。私はふと自分の体がここにいることを忘れてしまう。私はトラックの排気に嫌悪を抱きながら、煙草の煙をまき散らしている。今この瞬間だけは、禁煙推進論者の頭の悪そうな意見に納得しそうだ。秋のはじまりを知らせる風が吹く。