おしおきお姉ちゃん
一
学校近くの自然公園はマラソンランナーの良い練習場所である。真人も走るのが好きで、そこで休日を過ごすことも多い。今日はあいにく曇天で、通行人が少ないのは不幸中の幸いだ。梅の花がフライングしたようにぽつぽつと花をつけていた。
公園のベンチで真人とみのりは隣あって座った。みのりの手は真人の手の上に重ねられている。
校門での邂逅後、落ち着いた場所に移動せざるを得なかった。
一応何度か逃走を試みたが、みのりは素早しこく真人を確実に捕らえた。みのりの方から積極的に話を振ってこないため、真人は意を決し話を始める。
「どうしてうちの高校の生徒がサルと呼ばれているか知ってますか」
「君はサルじゃないよ。私の弟だもん」
前半はともかく至極まっとうな意見に真人は苦笑する。ある意味一番聞きたかった言葉だ。
「どうしたの」
「いや、別に。それより本当に大塚榮太郎のお姉さんなんですか?失礼ですけど、あまり似てないと思いまして」
みのりは真人の肩に頭を乗せた。
「今の私は君のお姉ちゃんだから。それより、榮ちゃんが何かしたの?」
お言葉に甘えるわけではないが、真人の口が少し滑らかになった。
「宇宙っていいですよね。俺、子供の頃から星を観測するのが好きなんですよ。遠く離れた場所から光が届くっていうのがロマンを感じさせるんです」
「うん、きっと私も見たこともない星がいっぱいあるんだね。見てみたい。望遠鏡持ってる? 一緒に見ようよ」
みのりは興味津々に身を乗り出したが、真人の表情は固かった。
「望遠鏡はもう俺の手元にないんです。去年の夏に観測しようとして学校に持ち込んだんです。屋上からならよく観測できると思って」
だがそれが大きな間違いであった。七万円の望遠鏡は紛失し、待望だった観測はできなくなった。
窃盗の疑いが濃厚だったが、真人はその時点でクラスメートを信じた。
残念なことにその信頼は悉く裏切られた。真人の望遠鏡が見つかったのは、雑居のビルの屋上だった。真向かいには女子校の敷地。最悪の用途で使われたことは想像に難くない。
「いいですか! 僕は覗きの濡れ衣を着せられたんです。サルどものせいでね」
当時の感情が思い出され、早口でまくしたてる真人にみのりは同情したように眉ねを寄せた。
「大変だったんだね。つらかったんだね。お姉ちゃんは君の味方だよ」
初対面ゆえ白々しく思えるほどの親身さに、真人は残酷な真実を突きつけるのを厭わない。
「味方、味方ねえ……、でも僕の望遠鏡を盗んだのは榮太郎君、貴女の弟なんだよ!」
みのりはショックを受けたように口元を手で覆った。
「俺に対して偉そうに振る舞う前に、自分の身内のサルの世話をなさるべきだ。それじゃ」
真人は鞄を手に立ち上がる。わき目もふらずにその場を後にした。
みのりは漂白されたような色のない顔で一人、拳を握りしめたままぶつぶつとつぶやいていた。
二
真人は予備校についてからも、みのりに対する仕打ちを多少悔いたが、非はないと自分に言い聞かせた。
悪いのは榮太郎であり、その口車に乗る姉も同罪だ。頭を切り替える。
真人が通うのは国立大学に多くの進学実績を持つ大手予備校の一つだ。都内にいくつも教室を持っており、真人が今いるのは五反田駅近くにあるビルの六階だ。
この日は六時半まで授業を受け、自習室で復習を終える頃には七時半を回っていた。
予備校のビルを出ると、宵闇が深く広がっている。
予備校の正面は二車線道路が伸びているが、車道に一台も見あたらない。
横断歩道の向かいから、グレーのチェスターコートの女性が真人に向けて手を振っている。歯が際だって白く映る。
「え!?」
目を凝らす前に車が横切り、走り去った後には幻のように女性の姿は消えていた。
恐らく見間違いだったのだろう。似たような背格好の女性はごまんといる。気にし過ぎるのはよくないと頭を振った。
不安を払拭するには行動するに限る。真人の信条は即断即決することだ。
明くる日、真人は真っ先に榮太郎に文句を言いに行った。腹立たしいことに榮太郎は非常識な姉のことを恥じていなかった。
「お前追い返したのか? 信じらんねえ」
「誰だってそうするよ。いきなり姉になるなんて言い出すし」
榮太郎は飄々とした笑みを浮かべる。
「気に入らなくても返品できないぞ。もうあの人はお前の姉だ」
「馬鹿言うな。お前と血のつながった姉だろ。平気なのか」
すると、榮太郎は予想だにしない返答で真人をさらに惑乱の渦に巻き込む。
「あの人は俺の血のつながった姉じゃねえ。シェア姉だ」
「……!? それは義理のとかそういう」
「だから違うって。あの人は何というか、シェアハウスみたいなもんなんだ」
榮太郎の解釈によれば、みのりは他人の姉に成りきることができる。
榮太郎もSNSを介してみのりと知り合い、姉としての契約を結んだという。
「俺も最初は冗談かと思ったよ。とんだ好き者の姉ちゃんが、男の家を転々としてんのかと。でも違ったんだ。おい、何だその目は。マジで何もないからな」
真人の疑いは自然なことだった。榮太郎でなくても、サルである男子なら真っ先に思い浮かぶことだ。
「エロいことはできないんだ。何かそういう雰囲気になりそうになると、向こうから察して上手くかわしてくるんだな。そのうちこっちもやる気なくなっちゃってさ、風呂も一緒に入ってる」
信じがたい事実の連発に、真人は頭を抱えた。みのりはどちらかというと美人の部類だ。榮太郎の話はよた話出ある方が、信じられる。
「ほんとにエロいこと以外なら何でもしてくれるから、うん。お前も世話してもらえよ。人生変わるから」
陽気にうっちゃっているが、一人の人間の所有権を気軽に譲渡するのはいかがなものだろう。みのりは本当にそれで納得しているのか。
「大塚、お前の言っていることが全て真実だとして、何故そんな便利な人を快く手放す」
「ぎくっ……!?」
わざとらしい挙動で榮太郎は立ち止まる。
丁度赤信号に変わった所であり、尋問するのに適当なタイミングと言えた。
「実を言うと怖くなったんだよね……」
榮太郎の横顔が不気味なけいれんを起こしている。
「え?」
「みのりさんが、何を考えてるのかわからない。ずっと監視されてる気がする。俺もう……」
突如、榮太郎の体が重力を失ったように前方に押し出される。
トラックの強烈なブレーキ音が警笛のように真人の耳朶を打った。
手を伸ばしたまま呆然とする真人の周囲は蛆のように人だかりができた。
急激なブレーキで停止したトラックの陰に倒れていた榮太郎の開ききった手はトマトをひき潰したような紅にまみれていた。




