わたしは、いい魔女
「アニス姫はわたしが責任を持ってアレイスターへお連れ致します」
ミモザの声がする。アニスは顔を上げた。
全身が打たれたように痛い。動くのがやっとで起き上がろうとしたが、ぬるりとした感触にぞっとして両手を見た。手が血だらけだった。
「何これ…」
呟いた声が自分のものではない。甲高い子供のような声だった。
膝をついたまま、血を何かで拭おうとスカートを見ると、黒いメイド服を着ていた。
「わたしのじゃない…」
茫然としていると目の前を馬車が去っていくのが見えた。そばではジョーンズが歯を食いしばってそれを眺めている。
「ジョーンズ…」
ジョーンズの無事な姿を見て、唇を噛みしめた。涙が溢れそうになる。
よかった。生きていてくれた。お師匠様、ありがとうございます。
アニスはふらりと立ち上がった。どうやら自分は人から見えない場所で倒れていたらしい。そばに寄って声が聞きたい。
アニスは足を引きずって人々がざわめく間へ入って行くと、ジョーンズが気づいて鋭い目で睨んだ。
声をかけられずアニスは立ち止まった。
背中を向けられ、無視される。
傷ついたアニスは一体何が起こったのかを思い出そうとした。
そうだ。お師匠さまが、わたしとメイドを入れ替えたのだ。
ショックのあまり、その場にしゃがみこんだ。
「大丈夫かね」
近くにいた年配の男性が声をかけてくれた。アニスは頷くのが精いっぱいだったが、こうしてはいられない、と力を振り絞った。
ミモザが言っていた。
何があっても、ジョーンズから離れてはいけない、と。
「ありがとうございます。わたしは大丈夫ですから」
「その血は? 手をケガしているんじゃ」
男の言葉にアニスは首を振った。
これはわたしの血じゃない。ジョーンズの血だ。
メイドがジョーンズを傷つけて、大量の血を奪った。
アニスは男性から離れて、手を洗うため水たまりを探した。宿はめちゃめちゃだった。
水たまりで手を綺麗にすると、やはり自分は傷一つなかった。
ジョーンズは覚えているだろうか。もし、傷つけられたことを覚えていると厄介だ。
この少女は魔法を使えるのだろうか。試しに、水たまりにしゃがみ込んで両手をかかげる。水たまりからぶくぶくと泡が吹き出した。
やはり、このメイドは魔女だ。
ところが、お湯にしたつもりの水たまりから、なぜかつぶれたバケツが飛び出してきた。
「きゃっ」
がらがらーんと飛び出したバケツが地面に転がる。
皆の注目を浴びてアニスはすくみあがった。
気をつけなきゃ、どうやらこの少女の魔法はユニークに飛んでいるわ。
その時、ジョーンズがつかつかと戻ってきた。
「おいっ」
手首をつかまれる。この少女の体は小さいため足が宙に浮いた。
「お前っ」
「痛いっ」
アニスは悲鳴を上げた。ジョーンズは激怒している。
「やめて、離してっ」
冗談みたいな甲高い声が出る。
「お前、魔女だな。あの嵐はお前の仕業だろ」
「めっそうもございませんっ」
突然、宿の主人が飛んで割って来た。
「この娘はわたしの姪でございます。両親に死なれ、わたしが世話をしています。お転婆で手を焼いていますが、魔女ではありませんし、この通り声が奇妙なので、かわいそうに誤解を受けることが多いのです」
声のせいだけではないだろうが、ジョーンズはパッと手を離した。
どしんとお尻から落ちる。
「痛ーいっ」
アニスは悲鳴を上げた。涙があふれる。自分は泣き虫じゃないのに、この少女は涙腺が弱いらしい。
ジョーンズは、少女を睨むとすたすたと行ってしまった。
背中を見て、ますます悲しくなってくる。
泣き出した少女を主人が優しくあやした。
「タンジー、大丈夫かい?」
タンジーという名前か。
アニスはお尻をさすりながら立ち上がった。なんとかして、ジョーンズの後を追わなくてはいけない。
「大丈夫よ、叔父さま」
「叔父さま?」
主人がぽかんとする。
「どこか、まずい所を打ったね」
主人が、アニスの頭を押さえてへこみがないか確認する。
「だ、大丈夫だから」
アニスは、あわてて主人から離れてジョーンズの姿を探した。
ジョーンズは疲れたような顔をして、人があまりいない場所で座っていた。
アニスはおそるおそる近寄った。
「あの、旦那さま…」
「ふん、何か用か」
ジョーンズの視線が厳しい。
「旦那さま、先ほどあなたがおっしゃられたように、わたしは魔女でございます。ですが、嵐はわたしの仕業ではございません。わたしはいい魔女なんです。いい事しかしないんです」
タンジーは正直ね、とアニスは思った。
これではジョーンズが不愉快に思うだろう。
しかし、ジョーンズは呆れた顔をした。
「そうか。君がいい魔女だったら、今すぐここからいなくなってくれ」
アニスはがっくりした。
中身はアニスだが、口を開くとタンジーがしゃしゃり出てくるらしい。
今は何を言っても無駄かもしれない。
アニスは仕方なくそばを離れた。こうなったら、こっそり後を追うしかない。
一方、ジョーンズは、メイドが離れてくれて安堵のあまり大きなため息が出た。
あのメイドは危険な匂いがする。夕べは思わなかったが、声が気に食わない。
ジョーンズは、もう一度息を吐いた。
アニスが行ってしまった…。
ろくに話しもできず、ミス・ローズと国へ帰ってしまった。呆気ない別れで現実だったのかどうかも分からない。
けれど、夕べのアニスは素晴らしくかわいかった。婚約者として見て欲しいと願うと、差し上げるわ、とあどけなく言った。
もう一度、会いたい――。
お互い、何も知らないまま別れるのは悔しかった。
ジョーンズは立ち上がると、従僕を探した。嵐に巻き込まれたが、幸い死者もけが人も出ていない。
本当ならアニスを行かせたくなかった。なぜ、何も言えず見送るしかできなかったのか。
今すぐに後を追いかけて、一緒にカッシアへ連れて帰りたい。
そう思いたつといても立ってもいられない気持ちになった。
アニスを追いかけよう。
アレイスターは聞いたことのある国だが行ったことはなかった。女性二人が移動出来るのだからたやすいだろう。
ジョーンズは決心すると旅に連れていくメンバーを選ぶことにした。
すぐにでも旅立ち、アニスを追いかけるのだ。また、あの女性と会うことができる。
目的が決まると、急に気持ちが明るくなってきた。