嵐の予感
敵はどう来るだろう。
宿を壊すか、もしくは、自分だけを狙うのか。
どちらも考えただけで恐ろしい。
こんな大勢の前でミモザを呼び出すのは不可能だった。
誰かを操るかと思ったが、人が多すぎて身動きが取れない。では、宿全体に大きな魔法陣を描くか。
駄目だ。
一人では守りきれない。
「アニス、僕から離れてはいけないよ」
ジョーンズが体を寄せて、かばうように包み込んでくれる。ジョーンズのぬくもりを感じた。
彼を巻き込むわけにはいかない。
先ほどのメイドが隣に座っていた。メイドは細い目でアニスをじっと見ている。アニスはちくちくする視線を感じながら、宿に近づく嵐の行方を探った。
身構えた時、ドカーンと雷が落ちた。周りから悲鳴が上がる。
ジョーンズはいっそう強く抱きしめてくれた。ローズは守られているので、落ち着いた顔をしている。
次に来たのは地震のような大きな揺れだった。ガタガタ横揺れがしたかと思うと、天井が落ちてきた。幸い、人々が避難している場所ではなかったが、玄関が押しつぶされた。同時に、大粒の雨が風に乗って中へ入ってくる。
全員びしょ濡れになり、耐えられなくなった人々が立ち上がって散り散りに逃げだした。
ジョーンズも立ちあがり体が離れた瞬間、メイドがナイフを持ってアニスに向かって襲ってきた。
「アニスっ」
ジョーンズがかばおうと間に入る。右、左とナイフを交わし、メイドの手首をつかんだ。その瞬間、ジョーンズの体が投げ飛ばされ地面に叩きつけられた。
「ジョーンズっ」
アニスはジョーンズに駆け寄ったが、メイドのナイフが自分のお腹目がけて突いてきた。
アニスは手を振り上げてメイドを弾き飛ばそうとした。だが、メイドは飛ばされまいと踏ん張っている。
この子、魔女だわ!
こうなったらミモザを出さないわけにはいかない。
「ミモザっ」
呼ぶと、ミモザが姿を現した。アニスの背後にまわり、メイドを投げ飛ばした。飛ばされたメイドはすかさず起き上がり、倒れていたジョーンズの首をつかんだ。
メイドがナイフをジョーンズの首筋に当てる。
「やめてっ」
アニスが叫んだ。
切りつけられたジョーンズの首筋から血が溢れだし、みるみるうちに顔が青白くなった。
「嘘…嘘でしょ? お願い、やめてちょうだい…」
「アニス…」
ジョーンズのか細い声が耳に届いた。
アニスは無我夢中でメイドに向かって飛びついた。メイドの両手を力いっぱい押し広げ、ジョーンズから離す。メイドを投げ飛ばすと、彼女は意識を失った。
「ジョーンズっ」
アニスは、ジョーンズを抱き起こした。
血が止まらない。ミモザがそばに来た。
アニスは涙ぐんだ目でミモザに願った。
「助けて…」
(アニス、だめです。助からない)
「助かるわ。死なせてはいけない。わたしたち知り合ったばかりで、これから一緒に過ごす約束をしたのよ」
ミモザが首を振る。アニスは空を仰いだ。
「お師匠さまっ。お師匠さまっ。どうか、お願いします。わたしの声を聞いてくださいっ」
アニスは必死で祈った。
いつもどこかにいる。白い魔法使い。師匠であるフェンネルに聞こえるよう叫んだ。
「お師匠さまっ。何処にいるのっ? 助けてっ」
――アニス。
静かな声が響いた。
師匠のフェンネルが答えた。アニスはハッとした。
「ああっ、お師匠さま、助けてくださいっ」
――その男を助ける価値はあるか。
「お願い、失いたくないのです。わたし、何でもするわ、どんなことも耐えてみせます」
――願いは一度だけだぞ。
フェンネルの声がしたかと思うと、アニスの前に杖を持った白い大魔法使い、フェンネルが現れた。
背中まである長い髪の先を小さくひとまとめにして、白いローブは光輝いている。若い青年であるが、本当の姿は謎に包まれている。
フェンネルは、倒れたジョーンズの傍らに膝をつくと、首筋に指先を添えた。すぐに血が止まり、えぐれた皮膚を再生していった。ジョーンズの頬がぴくりと動いて、意識が戻った事が分かった。
「ああ、お師匠様…、感謝いたします」
空は相変わらずとぐろを巻いた竜巻が近づいていたが、フェンネルが杖を一振りすると、たちまち空が晴れた。
――闇の力はまだ強力ではない。わたしでもまだ抑えることができる。しかし、アニス、今後はそうならない。これから、闇の力は次第に大きくなっていくだろう。その時は、誰がこの世界を守るのか。
フェンネルがそう言って、アニスの方を見た。
アニスは、膝の上に横たわっているジョーンズを強く抱きしめていた。
涙が止まらなかった。
ジョーンズを失うなんて、考えられなかった。
――アニス、ここへ。
フェンネルの静かな声が響いた。
アニスはジョーンズをそっと横に寝かせると、フェンネルの足元へ行き、膝を突いた。フェンネルは横たわっていたメイドを宙に浮かせ、正面になるように、アニスの前に跪かせた。
何をさせるの?
アニスは、不安に駆られフェンネルを見た。
瞬間、アニスは自由を奪われた。強大な力に抑え込まれ、息ができなくなる。正面にいるメイドも目覚めており、彼女もおびえた顔でアニスを見つめていた。
――お前たちは入れ替わる。
「え?」
――アニス、お前はまだ見習いの魔女だ。日頃勉強をさぼってばかりいるから、いざという時にこんな目に遭うのだ。わたしは何度も忠告をしたはずだ。よって、この娘と入れ替わり、零から学んでもらう。
「そんな…」
アニスが呆然としたが、フェンネルは容赦なかった。
――何でもする、どんなことも耐えてみせると言ったな。これから先は自分で立ち向かうことが、成長の鍵だ。
「お師匠様、兄上が…」
――分かっている。アニス、お前はノアと共に旅を続けよ。そして、何があってもノアを守るのだ。それと、自分がアニスであることを男に告げてはならない。告げた時、男は死を意味する。
「はい……」
アニスは青ざめた。
――ミモザはローズをアレイスターまで無事に届けるのだ。もちろん、アニスとともに。
「ミモザまで奪うのですね」
――そうではない。
フェンネルは小さく答えた。
――アニス、わたしは待っているよ。
アニスは強い力に引き寄せられた。メイドの頭ががくりと垂れる。
メイドの体がぼんやりと見えた。メイドは意識を失っているように思えた。
「ジョーンズ……」
名前を呟くと、珍しくフェンネルが口角を上げた。
――ほう、さすがだ。意識があるとは。
薄く笑った後、アニスの意識は途切れた。