魔法の手
夕方には町について、宿に泊めてもらった。
その上、ジョーンズは今後必要な物を取りそろえてくれた。
アニスには上品なアンクルブーツ、さらに新しいドレスも用意してくれた。新しいドレスはラベンダー色で、緩く襟元が開いたオーガンジーのロングスカートのドレスだった。
彼が自分で選んだろうかといぶかしく思いながらも、うれしさを隠せなかった。
言いつくせないほどのお礼をローズが代わりに言ってくれたが、アニスは思わずジョーンズに抱きついてしまった。
兄が見たら、きっとはしたないと叱りつけただろう。
宿は、ローズと同じ部屋を借りることができた。ローズはすぐさまバスタブを運んでもらい、先に汗を流した。
「ああ、生き返るわ」
メイドもおらず、アニスが手伝いをすると、ローズは頬を上気させて笑顔で言った。
「ねえ、ミスター・グレイって本当に素敵ね」
「嘘でしょ、ローズ。兄上はどうするの」
「そういう意味じゃないのよ、アニス」
ローズが苦笑する。
アニスは魔法でバラの花を湯船に散らしてあげると、彼女は目を閉じて思い切り花の匂いを嗅いだ。
「いい匂い、落ち着くわ」
ローズはアレイスターに戻るべきだろうか。
バスタブで無邪気にはしゃく彼女を見ていると不安に駆られた。
「ねえ、ローズ」
話しかけると、目をとろとろさせていた彼女は、はっと顔を上げた。
「アニス、ミスター・グレイとキスぐらいはしたの?」
「は?」
アニスはわが耳を疑う。
「なんですって?」
「挨拶のキスじゃないのよ、きちんとしたキスをしたの? って聞いているの」
「するわけないでしょ」
仰天すると、ローズが不思議そうな顔をした。
「あら、どうして? わたくしとノアは出会った時にはしたわ」
「まあ…」
アニスは赤面した。兄上とローズのことなど知りたくもない。
「やめてよ」
「いつまでも子供じゃないんだから。それくらい当り前よ」
ローズはお湯から出ると、女性らしいふっくらとした体にタオルを巻きつけた。茶色の髪の毛の水気を拭き取りながら、ちらりとアニスを見た。
「そんなみっともない姿では誰もあなたを見てくれないわ」
「そんなにひどいかしら」
「ひどいわ。白いドレスは灰色よ」
たしかに、ローズの言うとおりだった。まさか、こんな事が待ちかまえているなんて思いもしなかったので、ドレスになどかまけていられなかった。
アニスは淡い色の服が好きだった。なるべく軽くて動きやすいドレスを作ってもらい、コルセットもつけることはほとんどない。
「さ、次はあなたの番よ」
ローズはさっさとナイトドレスを着こんでしまった。
ローズの言うとおり、熱いお湯は疲れを癒やしてくれる気がした。
ごわごわしていた髪の毛も甘いバラの匂いのする石鹸でしっかり汚れを落とすと、滑らかな絹のような髪に戻った。
アニスは、ジョーンズに選んでもらったラベンダーのロングドレスを着た。
鏡を見る。久々に自分の姿を見た気した。
ドレスはアニスの顔の色によく似合っていた。
自分はどこか変わっただろうか。
変わっているはずはない。けれど、もう国へ戻れないのかと思うと、不安があった。
くよくよしていてはいけない。
アニスは髪の毛を横に束ねて軽く肩に垂らした。
ジョーンズに無駄な出費をさせてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。改めて、一言お礼を言いたかった。
ローズはすでにベッドに入って休んでいる。そっと部屋を抜け出した。
汚れを落としたアニスは別人のようだった。すれ違った店の主人も、最初に見た女性と同一人物とは思えず、彼女の優雅なうしろ姿をぼうっと眺めていた。
「ジョーンズ、もう、休まれたかしら」
部屋のドアをノックして、少し待つ。中でごそごそ音がしてすぐにジョーンズが現れた。彼もさっぱりとした顔をしていて、アニスを見て目を見開いた。
「驚いた。君はずいぶん汚れていたんだね」
アニスはむっとした。お礼を言いに来たのを忘れるほどだったが、すぐに目的を思い出した。
「お礼を言いに参ったのです。わたくしとローズのために、ドレスや靴まで買っていただいて、それに、お宿まで。本当に感謝の気持ちでいっぱいです」
「アニス」
ジョーンズがドアを開けて、中へと促した。
アニスは躊躇した。さすがに男性の部屋に入るのはためらいがある。しかし、ジョーンズはさっと手を引いて、中に招き入れた。
「僕は君に興味がある」
「え?」
「君のような女性は初めてだし、僕と対等に話ができる女性はいない。君がパースレインの姫だと言われても、それが本当かどうかも実は疑わしいけれど、君自身にはとても興味がある」
そう言いながら、ジョーンズは、アニスに見とれていた。
ローズよりずっと美しい。
ぱっちりとした瞳、長いまつげに縁取られた魅力ある深い緑色の瞳。柔らかい白金の髪の毛は一つにまとめてあるだけだったが、優秀なメイドがいたら、素晴らしく映える髪型に整えてくれるだろう。
「もし、君が嫌でなければ、僕を婚約者として立候補してはいけないんだろうか」
アニスは目をぱちぱちさせた。
今、彼は何を言ったのだろう。
困惑して顔を上げると、ジョーンズがアニスの柔らかい手をそっと握った。
「君の事がもっと知りたい。出会って数日しか経っていないし、僕の事も何ひとつ知らないだろうが、時間をかけて君に教えたいと思う。僕は君を守っていきたいんだ」
アニスはぼうっとしてジョーンズを見つめた。
「生まれて初めてだわ。わたしを女性扱いしてくれる男性と会えるなんて」
ジョーンズはアニスの言葉に顔をしかめた。
「君はこんなに愛らしいのに、他の男たちの目は腐っていたのか?」
「お世辞がお上手ね」
アニスはクスクス笑った。ジョーンズはアニスの笑みに打たれたような顔をした。
「君は笑顔でいる方がいい。気難しい顔よりずっとね」
「あなたは冗談を言っている時の方が楽しそうよ」
アニスはくすっと笑って、ジョーンズの手を握り返した。
「わたしはこんなお転婆でどうしようもないから、貰い手はいないと思うわ。あなたが貰ってくれるなら、どうぞ差し上げます」
「自分をそんな風に卑下にするものじゃない」
ジョーンズは顔をしかめた。
本当に彼女はどんな女性なのだろう。
ジョーンズは真剣に考えた。
思わず柔らかな体を抱きしめると、甘い花の匂いがした。アニスは固まって動かない。
「アニス?」
「あなたはいつも驚く事ばかりするのね」
耳に熱い息がかかる。ジョーンズは自分を抑えられない気分にさせられた。自分で抱き寄せておきながら後悔した。
「もう、部屋に戻った方がいい。ミス・ローズが心配するだろう」
「ローズは眠っているわ。わたしはもう少し、あなたとこうしていたいの」
アニスの声が囁く。
アニスの体が熱くなっているのは気のせいだろうか。
ジョーンズは困惑しながら、顔を覗き込んだ。彼女はぽうっとした赤い顔をしている。
「熱でもある?」
ジョーンズが、アニスの額に手を押し当てたが、さして熱くなかった。
「あなたの手は魔法の手かしら。すごく気持ちがいいわ」
アニスの声がジョーンズの体を刺激した。
もうこれ以上はまずい!
彼は心の中で叫んだ。
「今、何か聞こえなかった?」
不意にアニスが体を離した。
「えっ?」
ジョーンズは自分の叫びが聞こえたのだろうかとぎくりとしたが、そうではないらしい。後ろでドアをノックする音がしていた。
「誰か来たようだ」
ジョーンズは名残押しそうにアニスから体を離すとドアを開けた。
背の低い少女が立っている。年はアニスと変わらないようだった。
顔はそばかすだらけで顔は日に焼けており、黒い髪の色はぱさぱさで、決して美しいとは言えない。一重の目じりは細く小さすぎる唇は赤かった。
「夜分に失礼いたします。旦那さま」
メイドの顔は無表情だった。
「急ぎの用事か?」
ジョーンズが顔をしかめた。
「嵐が近づいています。お二階は危ないので、できれば一階の安全な場所に避難すべきだと主人が申しております」
「嵐?」
アニスは窓辺に寄って驚いた。
空が真っ暗だ。遠くの方でメキメキと木が折れる音がして、どこかで竜巻が発生しているようだった。木々をなぎ倒してこちらへ近づいている。
「ジョーンズ」
アニスは真剣な顔でジョーンズの腕に手を置いた。
「その子の言うとおりよ、危ないわ。ここを離れましょう」
「ミス・ローズを起こそう」
「ミス・ローズはすでに階下へ降りています」
少女の目がきらりと光った。アニスは警戒した。
「あなた、誰?」
「ミス・アニス、わたしの事よりも先に下へ」
ジョーンズが強引にアニスの腕を引いて廊下へと促した。
廊下はひやりとしていて、隙間風がいっぱい入っていた。湿気でじっとりした空気を感じながら下へ降りると、宿の客でいっぱいだった。
ローズを探すと彼女は泣きそうな顔でアニスに抱きついた。
「アニスっ」
「ごめんなさい、ローズ」
「怖いわ」
「大丈夫よ、あなたを守るわ」
アニスはテーブルに置いてあった水に指先をつけて、床に魔法陣を小さく描いた。ローズのために呪文を唱える。魔法陣はローズを取り囲み、彼女に穏やかな顔が戻った。
「敵に居場所を知られたらしいわ」
アニスは独りごちた。