赤ん坊
「殺させないわ」
「そいつをよこせ、ラベンダー」
ローワンが手を伸ばす。ラベンダーはその手を払った。
「嫌よ、この子は殺させない」
「そいつはアレイスターだ、この先何をしでかすか分からない」
「できないわ」
ラベンダーは悲鳴を上げると、ぎゅっと赤ん坊を抱きしめた。
「なんてことだ…」
ローワンが茫然と言った。
ラベンダーの腕の中で、アレイスターがぐずり始めた。
(お腹がすいているんじゃない?)
アニスが心配そうに言った。
赤ん坊はくしゃくしゃの顔で手を動かして何かをつかもうとしている。ラベンダーは優しく見つめた。
「国に連れて帰って育てるわ」
「頼むからやめてくれ」
ローワンが唸った。
「ラベンダー、そいつは魔法使いだ。連れて帰ってはならない」
「わたしが手放した瞬間に殺すの? 絶対にさせないわ」
ナーダスは、困ったようにラベンダーに近寄った。
「彼の言うとおりです。アレイスターを生かすことはできません」
「嫌よ…」
「何事だ」
その時、男の声がして振り向くと、フェンネルが呆れた顔で立っていた。
(お師匠さまっ)
アニスがフェンネルへと駆け寄った。フェンネルのローブをつかもうとしてするりと通り抜けた。
「遅いぞ、アニス」
フェンネルが目を吊り上げて怒ったが、その顔は優しかった。
(ごめんなさい…)
思わず涙ぐんでしまう。自分を認めてくれる人と会えてうれしかった。懐かしさに涙があふれてくる。
フェンネルは、アニスを見て顔をしかめた。
「その髪の毛は一体どうした。大方、意地悪な妖精にでも食わせたのであろう」
(話せば長いんです。でも…)
アニスは、フェンネルの後ろにいる黒いローブを着た男性を見て、息を止めた。
(ジョーンズ…)
「アニス…」
ジョーンズも息を呑んで、アニスを見つめていた。
アニスは信じられない思いで口を押さえた。
(ジョーンズ…なぜ…?)
「アニスっ」
ジョーンズが駆け寄って来てアニスを抱きしめたが、実体がないためするりと抜けてしまった。
しかし、ジョーンズはすぐにアニスの消えかかった手をそっと握った。
「アニス、君が生きていてくれてよかった」
(ジョーンズ…わたしを許してくれるの?)
「何を言っているんだ」
ジョーンズは、アニスの目じりにたまった涙をぬぐおうとした。
アニスは触れられてもいないのに、ジョーンズの温かさが伝わった気がした。
ジョーンズを見つめていると、彼が以前とまったく違う姿をしていることに気づく。
(ねえ、あなたどうしちゃったの?)
「何がだい?」
ジョーンズがくすっと笑う。
(前に会った時と雰囲気が違うもの)
「僕も話せば長いけど、アレイスター城主のおかげでこうなった」
(え?)
「アニス」
フェンネルの声に、二人ははっと振り返った。
「今はそれよりもアレイスターをどうにかせねばならない。どうやら厄介な事になったらしい」
ラベンダーが抱いている赤ん坊を見て、フェンネルは顔をしかめていた。
「妖精の女王よ、彼を返してほしい」
「でも…」
フェンネルは、ラベンダーの言葉を遮った。
「殺さないと約束する」
「本当ですね?」
「ああ」
フェンネルは頷いた。
(ラベンダー、お師匠さまは決して嘘は言わないわ)
アニスが背中をさすると、ラベンダーは一瞬悲しげな表情を見せて俯いたが、顔を上げてフェンネルに赤ん坊を差し出した。
「ありがとう」
フェンネルは、赤ん坊をそっと受け取りながら息を吐いた。
――さあ、どうしたものか…。
その呟きは誰にも聞こえなかった。
「アニス」
フェンネルが振り返ってアニスに言った。
(はい)
「次はお前の番だ」
(は、はい)
アニスは緊張のあまり足が震えた。
(怖いわ…)
みんながいてくれているのに、体が震えている。ラベンダーがそっと手を握った。
「何があっても助けるから」
(ありがとうラベンダー)
マーメイドは、フェンネルの手の中の赤ん坊をじっと睨んでいたが、大きく息を吐いて道を開いた。
「さあ、わたしについてきて」
リリーオブはまだ意識を失っていた。
「こいつはどうする」
ローワンが言うと、ナーダスが連れて行こうと言った。
「一人は危険だ」
「分かったよ」
ローワンは息をつくと、軽々とリリーオブを抱きあげた。アニスはラベンダーを見たが、彼女は無表情だった。
アニスは胸騒ぎを感じた。
彼女をこれ以上苦しめたくない。力があれば、リリーオブをここにいさせたりはしなかったのに。
悔しくて唇を噛みしめる。
「早く行くわよ」
マーメイドが促し、ぞろぞろとみんなが池の中へと入って行った。
マーメイドの力だろうか、池の中は澄み切った美しい水へと変わっている。
アニスは青い水の中を漂いながら、自分の体が近くにあることを感じていた。
水から顔を出すと、そこは深い森だった。先ほどの場所とは別の所につながっている。
空間移動をしているのだろう。つまり、マーメイドの棲みかには彼女がいないとたどり着けない。
誰も何も言わずに歩いて行く。リリーオブの寝息が聞こえた。
なんだか、気持よさそうな顔でローワンの胸に顔を押し付けている。
アニスは顔をしかめて、本当に彼女は眠っているのだろうかといぶかしんだ。
「ご主人さま」
少女の声がしてアニスが顔を向けると、銀色の髪の毛の少女がいた。
地面に届きそうなほど髪の毛が長く、珍しい灰色の瞳をしている。
美しい少女は、アニスを見ると白い頬を赤らめた。
「アニス王女」
少女は、アニスのそばに寄るとお辞儀をした。
「わたしはエヴァンジェリンと申します。ジョーンズ様の使い魔でございます」
(使い魔?)
アニスはきょとんとしてエヴァンジェリンを見た。
(使い魔?)
もう一度呟いて、ジョーンズを見る。
(ジョーンズは魔法使いなの?)
「説明している暇はない。エヴァンジェリン、向こうへ行っていろ」
「はい、ご主人さま」
エヴァンジェリンは寂しそうにアニスを見つめると、後ろに下がった。
アニスは、混乱しながらエヴァンジェリンを見つめてから、背後にある物体に気がついて目を見開いた。
大きくて白い繭のような物がある。
(お師匠さま…)
すぐにあの中に自分の肉体があることを悟った。
思わずフェンネルを見た。
フェンネルは頷いた。
「アニス、ここからは一人で行ってもらうよ」
(わたしも赤ん坊になるんでしょうか)
フェンネルは答えなかった。
ジョーンズがそばに立っている。
「アニス」
(ええ…)
アニスは大声で泣きたくなった。
記憶は? 生まれ変わったら、もう一度、初めからやり直さなくてはいけないの?
ジョーンズのこともみんなのことも忘れてしまうのだろうか。
「アニス」
フェンネルが静かに言った。
「心配しなくていい」
(お師匠さま…)
怖かった。
アニスは、今をなくすのが恐ろしくてたまらなかった。しかし、前へ進まないと始まらない。
アニスは、もう一度ジョーンズを振り返った。彼に触れたかった。
(ジョーンズ…)
「アニス、必ずもう一度会えるから、その時また、たくさん思い出を作ろう。僕は待っているから」
(ええ、ありがとう…)
ラベンダーにもお礼を言いたい。
「アニス、待っているわ。忘れないから、心配しないで」
(ありがとう)
アニスは、ごくりと喉を鳴らすと、白い物体へと歩いて行った。
近づくにつれ、力を感じられる。その時、繭から白い糸が出てきた。
(あっ)
アニスは後ずさりしたが、糸は自分を引きずり込もうと伸びてくる。ぱくっと繭が開いて、中へ取り込まれた。
糸が絡んで息ができない。アニスは水の中でもがくように、手を上げて助けを求めた。
(ジョーンズっ)
「アニスっ」
ジョーンズの声が聞こえた気がしたが、彼女に意識はもうなかった。




