ローズ、目を覚ます
テントに戻ってほっと息をつく。
心臓がドキドキしている。
兄上やお師匠様以外の男性とこんなに身近に接した事は今までになかった。ましてや担がれるなんて。
自分が魔女である事を忘れてしまいそうだった。
ジョーンズの体は温かかった。筋肉は硬くて、たくましい腕をのばされた時、どんなに驚いたか。
ため息が漏れる。
「信じられない…」
顔を押さえて火照りを冷まそうとした。
「ん…」
「ローズ、大丈夫?」
アニスは、ローズのそばに駆け寄った。
「アニス?」
「ここにいるわ」
ローズは目をこすり、あくびをすると体を起こした。
「お腹が空いたわ。朝食べたきりだもの」
ローズがお腹を押さえる。
「ええ、わたしもぺこぺこよ」
アニスも同意すると、ローズがアニスを見てきょとんとした。
「どうしたの、その格好」
「目が覚めるたびに驚いてるわね」
アニスが苦笑する。
「男性のシャツじゃない」
「話せば長いのだけど、わたしたちは今、パースレインじゃなくて、カッシアにいるの」
「どうやって来たの? あっ、ミモザの魔法ね」
「ええ」
「何かあったのね」
ローズは落ち着いていた。そこで、アニスがすべてを説明をすると、彼女は青ざめた。
「なんて事…。じゃあ、ノアは…」
「ええ、兄上はわたしが飲み込んだわ」
「アニス…」
ローズがアニスの手を握りしめた。
「これからどうなるの?」
「分からない。力が回復したら、ミモザに聞いてみるわ」
「ええ」
ローズが頷いた時、テントの外から人の声がした。
「失礼、レディたち、入っていいかい」
ジョーンズの声だ。ローズがすぐさま答えた。
「どうぞ、お入りになって」
ジョーンズが入ると、気を取り戻したローズがしとやかに礼を言った。
「先ほどは大変失礼をいたしました。あなたがわたくしたちを助けてくださったのですね、本当になんてお礼を言えばいいのか、ありがとうございました」
優雅に頭を下げる。ジョーンズはその様子を見て驚いていた。
無理もない。ローズは生粋のお姫様だもの。
「驚いたな、どこかのお姫様みたいだ」
「姫ですから」
「は?」
ぽかんとしたジョーンズに、慌ててアニスは言葉を挟んだ。
「ミスター・グレイ、何かご用ですか?」
「食事を持ってきた。大したものはないのだが」
彼は、バスケットにスコーンとはちみつ、ポテトにサラダとチーズにミルクを用意してくれていた。
「まあ、なんて心の広い方」
ローズが大げさに言って、バスケットを受け取る。
よほどお腹が空いていたのだろう。すぐさま、スコーンにはちみつをたっぷりつけて食べ始めた。
「ミス・ローズ、お口に合いますか?」
ジョーンズが尋ねる。ローズはむしゃむしゃと食べながら頷いた。
「ユニークな味よ。あなたも食べて、アニス」
ジョーンズが不思議な顔をした。
「おいしいって意味よ」
アニスは答えながら、居心地悪かった。
「今夜はここで休むといい」
「ミスター・グレイのような素敵な方が守っているような場所でしたら、きっと安全ですわ。ね、アニス」
「そうでしょうとも」
アニスは、いちいち返事をするのが疲れてきた。
もう、へとへとだった。瞼が閉じそうな様子にジョーンズも気付いたらしい。
「アニス、大丈夫かい?」
「ええ、お気遣いありがとう。食べ物を頂いたら、休ませていただきます」
ジョーンズは頷いてテントを出て行った。
アニスは、用意してくれた食事をローズと一緒に食べた。スコーンはほとんど砂糖を使っておらず、甘くなかったのではちみつを多めにつけた。
「ああ、お腹いっぱい」
ミルクを呑んで、だいぶ落ち着く。
「ミスター・グレイはとてもハンサムね」
ローズの言葉にどきりとする。
「そうかしら」
「そう思わない? 顎はしっかりしているし、体格なんて申し分ないわ」
ローズはしっかりと見ていたらしい。アニスは肩をすくめた。
「でも、もう結婚されているかもしれないわ」
「そうねえ、領主さまなんでしょう。だったら、きっと奥様がおいででしょうね。あれだけ、ハンサムなんだもの」
うっとりとローズが言う。
「ローズ、早めに休んで。明日、出発しなきゃ」
食事を片付けてアニスが言うと、ローズが腰に手を当てた。
「アニスが先に寝なさい。疲れたでしょう」
「でも、兄上の追手がいつ来るか分からないから、わたしは見張っているわ」
「ダメよ、わたくしの方が年上よ、交代で見張りましょう。さ、眠って」
アニスを横にならせて、ローズは座っていたが、彼女はすぐさま体を横にすると寝息を立て始めた。
アニスは、あどけないローズの顔を見て心が和んだ。
やはり連れてきて良かった。一人だったら、心細くて発狂していたかもしれない。
アニスは目を閉じた。力がみなぎっている。
お腹がいっぱいになったので、まともな魔法が使えるようだ。
テントの外に神経を尖らせた。邪悪なものは感じられない。黒い影には気づかれていないようだ。
アニスはテーブルにあったコップを手に取ると、その場にしゃがんで指を水に浸し、地面に魔法陣を描いた。
両手を広げて呪文を唱える。
「ローズを守りなさい」
魔法陣が光り、テントを取り囲むように大きく広がった。
アニスは魔法が発動したのを確認すると、少しだけ横になった。
朝からばたばたと大変な一日だった。
敵は何者だろう。なぜ、兄を狙ったのか。
全てが突然過ぎて何も分からない。
うとうとしては、目が覚めた。
敵がいつ現れるか分からない。アニスは何度か休もうとしたが、神経が尖ったままで、落ち着かなかった。
外へ出て新鮮な空気でも吸いたい。
アニスは誰からも邪魔されないよう、姿を消す魔法をかけた。
テントを出ると、空には星が散らばっていた。空気を吸って大きく息を吐きだす。
ゆっくりと歩き始めた。
明日、靴を探さなきゃ。新しい洋服も。それから、ノアを元の姿に戻して、敵からもっと遠く離れなきゃ。
アニスは歩きながら、あちこちでたき火を囲んでいる男たちを眺めた。
酒を飲んだり唄ったりと、皆楽しそうだ。
この土地を開拓して、何かを始めるのだろう。
土地からは豊かな匂いがしていた。食物が育つには、土壌がしっかりしていると思われた。
アニスが、穏やかな気持ちでそれらを眺めていた時、
「アニス、どうした?」
と、声をかけられた。
「まあ! 信じられない、見えるのね!」
アニスは驚きのあまり返事をしてしまった。
「見えているが…?」
ジョーンズが首を傾げる。
「見えてはまずいのか?」
たき火を囲んで男たちと話をしていたらしい。従僕にはアニスの姿は見えておらず、怪訝な顔で領主を眺めていた。ジョーンズはさっと立ち上がると、アニスの隣まで来た。
「眠れないのか。さっきはよほど疲れて見えたが」
アニスは仕方なく従僕たちから少し離れた場所に移動して、ジョーンズと腰を下ろした。
「横になったとたんに目が冴えたの。あなたは? ミスター・グレイ」
「そのミスター・グレイはやめてくれ」
苦笑したジョーンズが肩をすくめる。
「ジョーンズ、あなたはいい人ね」
アニスが率直に言うと、ジョーンズは少し笑った。
「君も少しましになった」
「ローズがかわいそうだわ。わたしと違ってお姫様だから」
「らしいな」
ジョーンズがふっと笑う。
おそらくローズの事を思い描いているのだろう。
ローズは確かに美しい。誰が見てもそう答える。
「明日、わたしたちはすぐにここを旅立ちます」
「女性二人だけで?」
「彼女はわたしが守るから、ご心配なく」
「どこまで行くんだ? 僕は、明日はカッシアへ戻るつもりなんだ。よければ一緒に来るがいい」
アニスは一瞬、考えた。
「いいの? 足手まといにならないからしら」
「そういえば、君は僕の質問に何ひとつ答えてないね」
アニスの足元を見て、ふっと笑った。
「また、裸足だ」
「慣れているのよ。それにここの土壌は悪いものではないわ」
ジョーンズは、アニスの言葉の意味がよく分からなかったようだ。
諦めたように薄く笑った。
「それで、答えてくれるのか?」
「なんのこと?」
「君たちはどうやってここに来たのか。あの馬のいない馬車に乗って」
「わたしが言ったのは真実よ、精霊が助けてくれたの」
「では、なぜ嵐にあったのは君だけだったのか」
「さっきも言ったけど、ローズはわたしが守っていたの」
「君を守る人はいないのかい?」
ジョーンズが身を寄せて囁く。アニスはどきりとした。
「ええ」
「なぜ?」
どうして彼はこんな質問を投げかけるのだろう。
アニスは胸を押さえた。
「なぜって…、いないからよ」
「そんなはずはない」
「ああ、ミモザがいるわ」
アニスの言葉に、ジョーンズがまなじりを上げた。
「誰だい、それは」
「精霊よ。わたしの精霊」
「それは男?」
「わたしたちは使い魔を選ぶ時、異性を選ぶの。わたしが女だから、精霊は必ず男になるわ」
「使い魔?」
あっとアニスは口を押さえた。
これ以上しゃべると、自分が魔女であることを明かす事になる。
「君は何者だい?」
「わたし…」
アニスはさっと立ち上がった。
「明日、お言葉に甘えてご一緒させていただきます。疲れたので休みますわね、おやすみなさい。ジョーンズ」
するりとジョーンズのそばをすり抜けて、テントへと走って行った。