白い花
領主がテントを用意してくれた。
馬車に二頭の馬(領主が貸してくれた)をつないでテントまで移動し、ローズを寝かせて一息ついた時、彼女が目を覚ました。
「アニスっ、どこにいるのっ?」
「わたしはここよ、ローズ」
安心させるように手を握ると、ローズが目をパチパチさせた。
「あなた、どうしたの? ひどい恰好よ」
「そんなにひどいかしら」
アニスはため息をついた。
ローズはきょろきょろして、不安そうに言った。
「ここはどこ? ノアはどうしたの? 何があったの?」
ああ、ローズは何も知らないのだ。
一国の姫であるローズにとって、この旅は過酷なものになるかもしれない。
真実を告げるのは、落ち着いてからにしよう。
「ちょっと事情があって、旅に出ることになったの。あなたを巻き込んで申し訳ないんだけど」
旅と聞いて、ローズの頬に赤みが差した。
「あら、旅は大好き。でも、ノアがいないわ」
「ノアは先に行ってるの、わたしたちは後を追いかけて……」
「失礼」
その時、テントの外から領主の声がして、アニスはとっさにローズをかばった。
領主が中に入ってくる。
ローズはそれを見て、ふうっと気を失った。
「ああ、やっぱりね…」
アニスは、倒れたローズをそっと横たえた。
領主は呆れた顔で首を振った。
「どうすればそう簡単に気を失うことができるんだ?」
腕を組んで難しい顔をする。
「僕にもいとこがいるが、従僕を見ては気を失う」
「それは懸命じゃないわね」
アニスは肩をすくめた。
「淑女は気を失う作法を習うのよ」
「本当か?」
「嘘に決まってるでしょ」
男がむっとした顔になる。
「……名前は?」
「ローズよ」
「ローズ? そんな気品のある感じじゃないな」
アニスは、一瞬、考えた。
「…わたしじゃないわ、彼女よ」
「彼女じゃなくて、君の名前だ」
「わたし? わたしはアニスよ」
「白い花だ」
領主の言葉に、アニスはどう答えていいか分からず、軽く咳をした。
「まあね」
「食料を用意した。食べるか?」
「本当? わあ、うれしいっ」
アニスは両手を合わせて飛び跳ねてから、はっとした。
あー、えへんと咳をして、つんと顎を上げる。
「ありがとう。いただくわ。えーと、あなたのお名前は?」
「僕は、ジョーンズだ。ジョーンズ・グレイ」
アニスがすっと右手を差し出すと、ジョーンズが恭しくその手を取る。
「わたしはアニス。アニス・テューダー。ミスター・グレイ。ミス、アニスで結構よ」
ジョーンズは目を合わせたまま、すっとお辞儀をした。
「ミス・ローズに、アニスだな」
アニスはむっとしたが、口答えしなかった。
アニスと呼ばれるのが嫌いではない。
「好きにして」
「では、アニス。まずはその身なりからなんとかしよう」
「そうね」
アニスは肩をすくめた。
「さすがに、自分でも辟易していたところよ」
食事も取りたいが、何よりも先ず冷えた体を清めたかった。
「残念だが、すぐに湯を用意できない。この先に川が流れている。誰かに水を運ぶように言おう」
アニスはその申し出を断った。
「ありがとう。でも結構です。あなた方は忙しいのでしょう。川があるのなら助かるわ。自分で行きますから。ついでに、ドレスも洗って参ります」
「一人で大丈夫か?」
「ええ」
アニスは即答した。ジョーンズは、一瞬、考える顔付きをした。
「一緒に行く」
「なんですって?」
「誤解するなよ。君の裸を見たいのではなく、一人で行かせるわけにいかないと言っているんだ。私の土地ではあるが、絶対に安全とは言えない」
アニスは冗談じゃないと言おうとした。しかし、お腹が減っている上に体力が消耗している。ろくな魔法も使えず不安だった。
「見ないって約束して」
ジョーンズは、呆れた顔でアニスを見た。
「見るところなんてないだろ」
川まで案内してもらいながら、アニスは小走りで急いだ。
彼はとても背が高いので、歩幅が大きい。
「しかし、不思議だな。レディ・ローズは濡れてもいないのに、なぜ、君は嵐に巻き込まれた格好なんだい?」
アニスは返事に困った。
実際、ローズはアニスの魔法で守っていたし、自分は雨に降られ雷に打たれる寸前だったのだ。
「えーっと、ローズは安全な場所にいたの。でも、わたしはローズを守ることに必死で、自分まで手が回らなかったのよ」
「それにしてもひどい。ここ数日晴れた日が続いて、嵐が来た記憶がないんだが…」
質問の多い人ね、と思ったが、彼が疑問に思うのはもっともだった。
何もかも話すには、まだ十分にジョーンズのことを知らない。もし、全て話すと、彼らを危険に巻き込むかもしれない。それは避けたかった。
「川が見えてきた」
アニスが顔を上げると、大きな川が流れていた。
手前は浅いが、山の奥の方は深くなっている。水は透明で冷たそうだ。
アニスの体はだいぶ乾いていたが、早く泥を落としたかった。
「水はきっと冷たいが」
「いいのよ、助かったわ」
アニスはほっと息をついた。洋服を脱ごうとして、ジョーンズを見る。
「ミスター・ジョーンズ、服を脱ぐからどこかに行っててくださる?」
ジョーンズはあたりを見渡した。大きな岩でもあればいいのだが、残念なことに何も遮るものがない。
「後ろを向いているよ」
「絶対に見ないでっ」
「早くしてくれ」
アニスは、ジョーンズが背を向けると、すぐにドレスを脱いで、シュミューズも脱いだ。
裸になると、水の中に飛び込む。
水はとても冷たくて気持ちがいい。ついでに、ドレスの泥を落とし、シュミューズも洗った。
泳ぎたくてうずうずしたが背を向けて待っているジョーンズが、急いでくれと言いだすだろうと思った。
水から出て、タオルで体を拭く。
季節が初夏でよかった。だいぶ日が高くなって、気温も上がっている。
髪の毛の水気をしっかり切って下着をつけると、ジョーンズが貸してくれた白いシャツと彼のズボンを履いた。だぼだぼだったが、服が渇くまでの我慢だ。
「いいわよ」
アニスの声にジョーンズが振り向く。
彼は、アニスをまじまじと見つめると、軽く咳をした。
「…よく似合っている」
嘘だと分かっているが、アニスは肩をすくめた。
「ありがとう。なんてお礼を言っていいか」
「礼はいいよ。さ、戻ろう」
帰り道、ジョーンズはゆっくりと歩いてくれた。
「アニス」
「何?」
ジョーンズが立ち止った。
「その…、気付くのが遅くて申し訳ない。君は裸足だったんだな」
「え?」
靴は嵐で風と一緒に飛ばされた。言われるまで気付かなかった。
「気付かなかったわ」
「ケガはないか?」
アニスはその場にしゃがみこんだ。
ズボンをさっと上げると、細い足首とふくらはぎがあらわになる。
「見て」
ジョーンズの方へ足を突き出す。彼は、大きく息を吐いた。
「レディのするしぐさじゃない」
言いながらも、彼はしゃがんで彼女の足首を持った。傷がないことを確かめる。
「大丈夫そうだ」
「よかった」
アニスが立とうとすると遮られた。
「これを履け」
ジョーンズが大きなブーツを脱ごうとした。アニスは深緑の目を吊り上げた。
「冗談じゃないわよ。わたしは男性が履いた靴は絶対に履きませんからね」
「履くんだ」
頭ごなしに怒鳴られる。
「いいえ、できませんっ」
アニスも負けじと言い返す。
「そうか」
言うなり、ジョーンズはアニスに向かって手を伸ばし、さらうように肩にかつぎあげた。
あまりの出来事でアニスは悲鳴を上げるのも忘れた。
目の前にジョーンズの硬い背中があって、膝の裏をしっかりと腕で支えられている。そのまま、皆がいる場所へ連れて行かれ、テントにつくなり下ろされた。
「食事をすぐに運ばせる。少し休んだらいい」
「こ、こんな…っ」
「何も言うなっ」
アニスに何も言わせず、ジョーンズは優雅に身を翻して行ってしまった。
テントの中ではローズが相変わらず寝ていた。