翼を奪われた妖精
アニスは、ノアを背後にかばった。
「タンジー、入ってもいいだろうか」
「ジョーンズだわ」
アニスは青ざめた。
「ごめんなさい、今、着替えているの」
アニスはとっさに嘘をついた。ジョーンズが一瞬、押し黙る。
「食事を持ってきた。少し食べた方がいい。ここに置いておく」
ドアの向こうでトレーを置く音がする。足音が去ったのを確認して、アニスはそっとドアを開けた。
パンとミルクとベーコン、サラダを乗せたトレーがあった。
それを持ってテーブルに置くと、ノアがごくりと喉を鳴らした。
「おいしそうだ。食べてもいいだろうか」
ノアは椅子に座り、パンを手に持った。
「温かい」
パンをちぎって口に入れる。ほうっと大きく息を吐いた。
「うまい。鍵でいた時は何も感じなかったが、こうして人間に戻るとやはり腹が減るな」
ぺろりと食べてしまう。
「おいしかった」
「兄上」
ベッドに腰かけて見ていたアニスは呆れて息をついた。
「ああ、そうだった、話が途中だった。で、あの男は誰だ?」
「彼がジョーンズよ。兄上が鍵になってから、ミモザがわたしをジョーンズの所へ飛ばしたの」
「ミモザが?」
「ええ。ミモザは何があってもジョーンズから離れてはいけないと言った。ジョーンズに求婚されたの」
「なんだって?」
ノアの顔が険しくなる。
「アニスに言ったのか」
「そうよ。タンジーにじゃないわ」
「そうだろうな」
ノアは怖い顔をしたまま、アニスを見つめて言った。
「ミモザはあの男の元へお前を飛ばした。そして、今お前は別の魔女見習い姿をしている。それはなぜだ」
「ジョーンズが殺されそうになったの」
「あの男が狙われているのか」
ノアが目を剥く。
「おそらくわたしのせいだわ。あれからわたしたちは何度も襲われているもの。ジョーンズは殺されそうになり、わたしは彼を助けるためにお師匠さまにお願いしたの」
「フェンネルに?」
「ええ」
「では、その魔法はフェンネルによってかけられたのか」
アニスはこくりと頷いた。
「お師匠さまは言ったわ、願いは一度だけだって。わたしはそれを受け入れた。すると、タンジーと入れ替わったの」
「なぜ、この少女なんだ」
「タンジーが、ジョーンズを殺そうとしたの。もちろん、操られていたわ」
ノアの険しい顔が戻らない。アニスは不安に駆られた。
「兄上? どうかなさって?」
「アニス、お前は二度と戻れない」
「え?」
「フェンネルの魔法は強大だ。いくらお前でも解くことはできないだろう。その娘とお前が元の姿に戻るときは、どちらかの命が尽きた時だ」
アニスは分かっていた。
フェンネルの力は計り知れず、この世で一番の白い魔法使いだからだ。
「分かってる」
アニスは口を噛んだ。これからすべき事はなんだろう。
「兄上、わたしはこれからどうしたらいいの?」
「お前はその娘として生きるのだ。そして、世界を救う」
アニスは足元がなくなってしまうような恐怖を感じた。
「そんな事できるわけがない。一生、この姿なの?」
「その娘が死なない限り」
「ああ…」
アニスは顔を覆った。
ミモザもいない。自分の身体でもない姿で何ができるんだろう。
「アニス」
名前を呼ばれて、顔を上げると兄が見つめていた。
「黙っていたが僕は夢を見ていた。悪夢だ。世界が冥界の神に支配され、滅亡させられる。冥界の神たちは、黒い力を操ろうともくろんでいる。そのためにまず、冥界と世界へ通じる扉を開けようとしている。その扉を開ける鍵が、僕だ」
「ああ、兄上っ」
ノアの苦しそうな顔を見て、アニスも共に苦しかった。
「僕が冥界の扉を開ける鍵であるなら、お前はそれを閉じる鍵となる。だから、お前が死んだら、世界は滅びるんだよ」
「信じないわ…」
アニスは首を振った。
「アニス」
ノアが顔を寄せて、肩をしっかりと抱いた。アニスの目から涙があふれる。
「兄上、一人にしないで、そばにいてお願いよ」
ノアが額に優しくキスをした。
「鍵を奪われるな。これから先、お前は一人かもしれないが、僕はずっとそばにいる。負けるんじゃないよ」
兄の手が肩にぐっと食い込む。アニスは歯を食いしばった。
「これからはアニスではなく、その少女として生きるんだ。タンジーだったね。今から、お前はタンジーとして生きるのだ」
兄はそう言うと、鍵に戻してくれと頼んだ。
双子はお互いを強く抱きしめると、ノアが静かに息をついた。
アニスは手を振り上げ、兄を鍵の姿へと変えた。手に乗せて飲み込む。
もう涙は出ない。
兄は自分を裏切らない。わたしが守ってあげなければ。
そして、兄がそばにいることを思い出せば、力が出てくるような気がした。
これからは前を向いて生きるのだ。
兄は言ったのだ。タンジーとして生きろと。
タンジーとして生きる。
タンジーは涙を拭いた。マイケルたちと合流しなくては。自分だけではジョーンズを守りきる自信はなかった。
窓のそばに寄って外を眺める。遣いに出した灰色の虫が戻ってこない。
灰色の虫は、無事にマイケルたちを見つけることができたのだろうか。
耳を澄まして風の音を聞き取る。静かだった。
ミモザがいてくれたらいいのに。
ノアがいる限り、自分は狙われる。ならばジョーンズのそばにいない方が彼は安全だと思うのだが、ミモザは彼から離れるなと言った。
どうすればいいのだろう。なぜ、ジョーンズの命が狙われていると、精霊たちは教えてくれるのだろう。
答えはミモザが知っている気がした。しかし、彼はいない。
その時、外で何かが光った。空から落ちてくる。
タンジーは外へ飛び出した。夢中で走り、空に向かって手を広げた。
ゆっくりと腕の中に落ちてきたのは妖精だった。
翼がない! もぎ取られている。
妖精はだいぶ弱っていた。
タンジーはそっと抱き締めて部屋に戻った。何か食べ物を。
ミルクと豆、そして、はちみつをかけた温かいパンが必要だ。
タンジーは部屋を抜け出して、食べ物を分けてもらいに厨房へ行った。料理人に魔法をかけて、それらを用意させる。
ためらいもなく魔法を使っていた。
妖精のためよ、と自分に言い聞かせた。
部屋に戻り、ベッドで横になった妖精に匂いをかがせると、妖精は大きな目を開けた。むくりと起き上がると、ゆっくりと食べ始めた。
なんて、美しい妖精だろう。
水色の薄いモスリンのドレスに身を包んだ妖精は、金色の瞳に燃えるような赤毛に薔薇色の唇と、ミルク色の素肌をしていた。
妖精は食事をし終えると、ベッドに横たわった。すぐに寝息を立てる。
仕方ない、詳しい話は朝に聞き出そう。
タンジーは妖精の隣に横になった。妖精から甘い花の蜜の匂いがする。
匂いを嗅いでいるうちに眠りに落ちた。