ノアとアニス
会話もなく二人はいつの間にか町に出ていた。
わりと大きな町で、宿もいくつかあった。
アニスは、ここで落ち会えるはずだからとジョーンズを説得した。
町についた時、太陽は真ん中にあった。
きっと暗くならないうちに合流できるとアニスは思っていた。
魔法をたくさん使ったため、アニスはくたくただった。
日陰で休んでいると、宿を見つけに行ったジョーンズが馬を連れて戻って来た。
痩せた鹿毛のメス馬だった。
「君の馬だ」
アニスは目を見張った。メス馬は優しい目をしている。
一目で気に入った。お金を返したいと言うと、君に払えるのか、と笑われた。
タンジーには払える力はない。
アニスは素直にお礼を言った。宿賃ですら、足りるかどうか危うい。
しかし、ジョーンズは何も言わず、宿も提供してくれた。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。自分は変身できるから、宿に泊まる必要もないのに。
「ジョーンズ、わたしは魔法で変身できるから、宿を借りる必要はないわ」
「君は人間だろ?」
ジョーンズは当たり前のように言った。
宿を案内され、別々の部屋に分かれる。
アニスは悄然とベッドを眺めた。
ようやくのろのろと腰を下ろす。何時間かぶりに座ることができて、足がじわじわと安らぎを得たように血流が流れていくのを感じた。
「はあ…」
思わずため息が漏れた。ジョーンズが言った言葉が衝撃だった。
そうだ。魔女だって人間だ。
アニスは突然、泣きそうになった。
胸が苦しい。
俯くと涙がぽとりと落ちた。すぐ泣くような性格じゃないのに涙があふれる。
膝に落ちる涙は光り輝き、黒いスカートにしみ込んでいった。
手のひらが光っている。
アニスはぞっとした。
少しずつだが自分の体が人の姿でない時間が増えていることに気付いた。
今日だけで何度、変身しただろう。
魔女になどなりたくなかった。人でいたかった。ローズのように穏やかにおしとやかな人間でいたかった。
だが、今はその魔法にたくさん助けられている。
ふと、ミモザのことがよぎった。
ミモザ。わたしの精霊。
今、どうしているだろう。幼い頃からそばにいてたくさん助けてくれた精霊。
疲れているのだろう。もう考えないようにしよう。
「タンジー」
不意にドアの外からジョーンズの声がして、アニスはびくっとした。
「は、はい」
涙を拭いて、返事をする。
「腹は空いていないか? 僕は何か食べようと思うのだが」
「わたしは…いいです。お気遣い感謝いたします」
ジョーンズは一瞬、黙った。それから足音が遠ざかっていった。アニスはほっとして息をついた。
――アニス。アニス。
懐かしい声がした。兄の声だ。
「ノア…」
アニスはぼんやりと思った。そして、はっと我に返って立ち上がった。
「兄上っ」
あたりを見渡したが、姿はない。
「兄上…どこにいるの?」
――どこって、僕はここだ。お前のお腹だよ。
そうだった。
鍵となった兄のことを思い出した。
「ああ、兄上、わたし怖いの。これからどうしたらいいの?」
――アニス。僕は何も見えない。何が起こったのか、説明してほしい。
「どうすれば、実態になれる?」
――ミモザにかけられた魔法だ。彼なら解くことができる。
「ミモザはいないの」
――どういうことだ?
「ミモザはローズと一緒にアレイスターに行ったの。わたしは一人よ」
兄の声が黙り込む。すぐに真剣な声が響いた。
――アニス。ミモザはお前の精霊だ。お前なら僕の魔法をとくことができるかもしれない。
「兄上、今のわたしはアニスじゃないの。別の少女なの」
――なんだって?
ノアの唖然とした声がした。
アニスは自分の失態に体が冷たくなるようだった。
「ああ、ノア、本当にごめんなさい」
――なんだってそんなことに?
ノアの絶望的な声がした。アニスは体が震えた。
「わたしが悪いの。ジョーンズを守るために、メイドと入れ替わったの」
――ジョーンズとは誰だ? 最初から説明してほしい。
アニスは顔を覆った。泣いた上に体はへとへとだった。
「もういや。兄上、わたし、もう疲れたの」
――何があったのか知らないが、泣き言は聞きたくない。この世界を救うのはお前しかいないんだ。
「簡単に言わないで、わたしを追い詰めないで」
――僕は本気で言っている。お前がどんな姿をしてようとミモザがそばにいなくても、君にしか世界を救うことはできないんだ。世界を救うのは僕じゃなくて、お前なんだ。
「どういうこと?」
――とにかく、僕を実態にするんだ。集中してミモザのかけたややこしい魔法を解くんだ。
アニスは大きく息を吐いた。もし、兄が目の前に現れるのならば、何だってやって見せる。
「分かったわ」
アニスは呼吸を整えて目を閉じた。お腹に手を当てる。お腹の中で熱を感じた。
鍵の位置を確認する。
お腹にとどまっているのが分かる。兄を守るように魔法で守られている。この鍵を外へ取り出して、実態にせねばならない。
アニスは手のひらを当てて、鍵を引き寄せた。物質が手のひらに集まってくる。手のひらから物質化させて取り出せばいい。
描いた通りにうまくいった。手の中に、銀の鍵が現れた。
アラベスク模様の銀の鍵。
それは、連なる時空の門を開くことができる。確か、古代の書物に描かれた古い幻の鍵だ。
まさか、兄が銀の鍵だったなんて――。
「兄上…」
アニスは再び泣きそうになった。歯を食いしばって、手のひらで浮いている鍵を見つめた。
「実体化せよ」
アニスは鍵にかけられた魔法をたやすく解いた。
ノアの姿が現れる。
アニスと同じ、金色の髪、鋭い瞳に鼻筋が通った端正な顔。強く結ばれた口元。長身の彼が姿を表し、アニスはあまりにうれしくて彼に抱きついた。
「ノアっ」
涙があふれてくる。
さみしかった。一人ぼっちでいる気がしていた。
アニスの体は冷たく震えていた。
「アニス…?」
ノアが見下ろしている。
「その姿はいったい…」
「タンジーよ。魔女見習いなの」
「それにしても、醜い」
アニスは悲しい顔をした。
「ひどいわ、兄上。これでもましになったのよ」
「え?」
「声が…、彼女と入れ替わった時、もっとひどい声をしていたの。甲高い雲雀のような声をしていたのに今は違う。アニスの声とも少し違う気がするけど…」
アニスは、タンジーの体に異変が起きていることに気付いていた。
小鳥を助けた後から、声が変わったのだ。そして、魔法が使いやすくなった。おそらく、この体に慣れて来たのだと思う。
「それにしても、ちびで不細工だ」
兄の言葉に、アニスは首を振った。
「それ以上言うと、その口を封じるわよ」
睨みつけると、兄が口を開く前にドアをノックする音がした。二人は同時に振り向いた。
「誰だ?」
ノアが低い声で言った。