不安
それから誰も話さなかった。
アニスは胸騒ぎがしていたが、ジョーンズのこわばった表情、ただひたすら前を進んでいる男たちを見ていると、何も言えなかった。
「少し休もう」
開けた場所にたどり着くと、ジョーンズがぽつっと呟いた。
そこは山水が流れる場所で、明るい空を仰ぐことができた。
四人は、馬たちが水を飲めるように水辺にくくりつけた。
少女はデニスの腕から離れ地面に下りると、アニスに抱きついてきた。
アニスは少女が愛しくなり抱き返した。少女からは太陽の匂いがしている。悪い者ではなさそうだ。
「あなた、名前は?」
少女は答えなかった。デニスがそばに寄って来て、ため息をついた。
「かわいそうに怯えているね。お腹は空いていないのかな」
「何か食べる?」
少女は何も言わず、いっそうアニスに抱きつくだけだった。
デニスが大きな息をついた。
「どうしたの?」
「この旅はいつまで続くんだろう。この子の歌を聞いて、胸が締め付けられるような気がしたんだ。僕には愛しい人がいる。彼女に気持ちを伝えずに来た事を後悔してしまって。なんとなく、この旅は安易なものじゃない気がして不安でたまらないんだ」
デニスの不安はもっともだと思う。
アニスはデニスの腕に手を乗せた。
「ありがとう」
デニスが力なく笑った。
「あなたの好きな人ってどんな人なの?」
「料理が得意でさ、いつも彼女の手料理を食べさせてもらっていた」
「彼女もあなたのことが好きなのね」
「そうかな」
「ええ、きっとそうよ」
アニスはほほ笑んだ。デニスとは年齢が近いので話しやすい。
「君は好きな人はいないの?」
「わたし?」
「ああ、そうか。君はジョーンズに首ったけだったね」
アニスは恥ずかしくて、頬に手を当てた。
「そう、見える?」
「うん。でも、ジョーンズはやめた方がいい」
「え?」
アニスは自分でも驚くくらい、心臓がどきりとした。
「なぜ?」
「ごめん、どうして僕らが旅に出たのか知らないんだね。ジョーンズは花嫁に会いに行くんだ」
アニスは自分の立場を見下ろした。
そうだった。わたしはただの魔女見習い、タンジーだった。
二度と元の姿には戻れない。
このまま追い続けると、ジョーンズと身代わりのタンジーの結婚式を見届けることになるのかもしれない。
アニスはあまりのショックで声が出なかった。
「ごめんよ、そんなに傷つけるつもりはなかったんだけど」
デニスが心配そうに言った。アニスはゆるゆると首を振った。
「いいの、わたしはただの魔女見習いだもの」
「それでも、一緒について来るのかい?」
「ええ」
アニスは頷いた。
「僕は、帰りたい…」
デニスがぽつりと呟いた。そして、ふらりと立ち上がると、離れてしまった。
「出発するぞ!」
ロイが呼ぶ声がした。
アニスが、ジョーンズの元へ行くと、彼は顔を見るなり目をそらした。
「君と一緒に乗ると疲れるから、ロイの馬に乗せてもらってくれ」
冷たく言われて、アニスは傷ついた。
ロイの馬の背に乗せてもらうと、彼は優しく接してくれたが、アニスの心はここにあらずだった。
「ジョーンズが何を言ったのか知らないが、忘れた方がいい」
「え?」
アニスはそっと背後のロイを見た。ロイは口髭を蓄え、精悍な顔つきをしている。腕もたくましい。二重の瞳は鋭く、信頼できる風格をしていた。
「ジョーンズは会ったばかりの花嫁にとらわれ過ぎている。実際の彼女を知れば、夢物語に気がつくだろう。俺はそう思ってこの旅について来ることにした」
「つまり、ジョーンズは夢の中にいるってこと?」
「そうだ。知りもしない女に夢中になっている。知らなければ知らないほど、欲求が募り、のめり込むんだ。デニスがいい例だ」
急に弟の話になりびっくりした。
「え?」
「デニスの好きな女は尻軽で、誰とでも寝るような外見だけが美しい女だ」
「そんな…嘘でしょ」
「残念ながら、本当だ。俺が弟を連れだしたのは、あの女から離すためだ。あの女の魅力は体だけだ」
アニスは顔をしかめた。
今まで、そういう話題からはなるべく距離を置いて来た。しかし、自分とその尻軽な女と一緒にしないでほしい。
「でも、ジョーンズの好きな人は違うかもしれないわよ」
「ライバルを応援するのか?」
ロイが大げさに驚く。
「ライバル?」
「ジョーンズが好きだから追い回しているんだろ」
皆にそう思われているということは、ジョーンズも思っているんだろう。
アニスは肩をすくめた。
「そういう事でしょうね」
「俺はお前のような女は好きだ。一途で迷いがない。ジョーンズのために家を出てくるなんて、大した女だ」
「どうも」
「おい、デニスっ」
ロイが弟を呼ぶ。
「何?」
デニスがのろのろと近づいて来る。さっきよりもっと元気がない。
「女はタンジーのような女を選べ。見た目はいまいちだが、ジョーンズのために命をかけている。見上げた根性だ」
褒められている気がしない。
「兄さんはいつも同じことを言う」
デニスが呆れて言った。
「見た目の悪さが女の根性だと言うんだ。義姉さんは見た目がいまいちだものね」
ロイの目が吊り上がる。
デニスはさっと逃げ出した。少女を抱いたマイケルの元へと追いつく。ロイが舌打ちをして、弟を睨みつけた。
アニスは不安になってロイに尋ねた。
「ねえ、森はまだ続くの? 確か、一時間ほどじゃなかったかしら」
「確かにおかしいな」
ロイが真剣な顔をした。
「ジョーンズ、道は間違っていないよな」
「ああ…」
ジョーンズが苛々している。彼もなかなか森を抜けせないことに不安を感じていた。
「おい、マイケル、どうした?」
突然、ロイの驚いた声がした。
「この子が苦しんでいるんだ。大丈夫かな」
一行が立ち止まった。ところが、ジョーンズは止まらずに不機嫌に叫んだ。
「さっさと進むぞ、こんな森の中で止まったら大変だ」
「でも、この子が苦しんでいる」
マイケルは心配そうだ。
「勝手にしろっ」
ジョーンズはそう言うなり、馬の背を蹴り駈け出した。
アニスは口をぽかんと開けた。
「嘘でしょ…」
アニスは、ロイの馬から飛び降りた。
「ジョーンズを追いかけなきゃ」
しかし、マイケルとデニスは馬から下りて、少女を介抱し始めた。一方、ロイはどちらにつくべきか迷っていた。
「放っておけ、子供じゃないんだ」
マイケルが冷たく言い放った。
「ダメよっ。早く追って、ロイっ」
「でもなあ、この子は放っておけないし」
ロイはにやにや笑っていた。どうしてこの状況で笑えるのか、アニスには理解できなかった。
「ちょっと、どいて」
アニスはうめいている少女を見つめた。この子の目的はなんだろう。
男たちをどかせて少女を抱いた。
軽い。いくら少女だからとはいえ、軽すぎる。
お師匠さまに習った魔法を思い出す。
真実を暴くには、よく相手を見なくてはいけない。必ず真実が隠れている。
少女は美しく、かよわい。歌声を聴いてから皆の様子が一変した。
アニスは目を閉じた。
――真実の姿を見せなさい。
呪文を唱えて目を開けると、自分の手の中に傷ついた小鳥が横たわっていた。
「あっ」
アニスはよろめいた。
「なんてこと…」
アニスは、動物を傷つけることだけはどうしても許せなかった。
頬がちりちりと痛みだした。
灰色の小さな小鳥は息も絶え絶えで苦しそうだった。
アニスの黒髪が逆立った。
「おいおい…」
ロイが顔をしかめて、様子の変わったアニスの腕をつかもうとしたが、アニスの怒りが爆発した。
するりと腕を抜けて、ものすごい勢いで森の中へと消えてしまった。
アニスと少女の姿が消えて、三人は呪縛が解けたように、はっと目が醒めた。
「俺たちはいったい…」
「ジョーンズを探さなきゃ」
デニスが慌てて言う。
「タンジーはどうする?」
「彼女は魔女だ。なんとかするだろう」
マイケルが答えた。
「急ごう、ジョーンズを追うんだ」
デニスが馬に飛び乗り、三人はジョーンズの消えた先へと馬を走らせた。