97 迎えの馬車
よくない兆候だ──。
ロメオは、客室案内係の後ろ頭に視線を向けたあと、左右に素早く目を走らせた。
同じ道を通って廊下を引き返しているにもかかわらず、さっきまでと違って、ひと組の宿泊客ともすれ違わない。
もちろんただの偶然の可能性もある。客のチェックアウトには波があるからだ。ロビー脇の食堂の朝食メニューが揃うころを見計らって部屋を出る客が多いため、その時間に集中してフロントは混み合う。そのあとはポツリ、ポツリで、あとは延長料金を取られる正午ぎりぎりまで部屋に居座る客が多い。
こういう宿は、相応の料金を支払えば朝食を部屋まで持って来てもらうことができる。だから、出発が急ぎでなければのんびりできるのだ。
当然スタッフも多いはずだが、その多いはずのスタッフも、目の前の案内係のほかには1人も見当たらない。
廊下はしん、と静まり返って、無機質なドアが閉ざされたまま並んでいるばかりだ。
術師が術を使うとき、術をふるう相手をさりげなく第三者から遠ざけるところから始める場合が多い。人の多いところで術を使うと、大勢の他人を巻き込んでしまうことにより思わぬ騒ぎとなり、術師自身も不利益を被る可能性が高くなるからだ。まだ潜入を見破られるタイミングではないような気もしたが、万一のこともある。この宿の女将が女術師だというのだとしたら、なるべく人のいる場所に戻ったほうがいい。
「おい、兄ちゃん」
ロメオは客室案内係に声をかけた。
「気が変わった。俺らはロビーに戻るぜ」
係の男は振り返って、首をかしげた。
「部屋の位置はさっきわかったからもういい。ロビー脇の売店で珊瑚細工を売ってただろう。それを物色してから部屋に行く。朝食と猫のミルクはいまは取りやめだ。あとでもう一度頼むから、そのときに持って来てくれるように伝えてくれ」
手元から小銭を取り出してチップだと言って渡すと、案内係は「かしこまりました。ではロビーにご案内します」と腰を折った。ロメオは踵を返そうとした案内係を押しとどめ、その手からもぎ取るようにして鍵を手に入れる。
「ロビーへの道順もわかる。案内はもういい。手間だがルームサービス中止の件の伝言を頼む」
それだけいうと、ロメオは案内係をその場に置き去りにして、ロビーに向かってせっかちに引き返し始めた。ジュリアがあとから小走りでついてくる。さぞ不審に思っていることだろうが、何も聞いてこない。
彼女はこの宿についてから、必要最小限のことしかしゃべらない。必要な言葉だけ口にし、周囲とロメオの言動に目を配り、状況を読んで常に的確に行動する。
大男が大股で移動する速度に弱音も吐かずついてくる小柄な少女の気配を背中に感じながら、娼館の裏の通りでジュリアを評したマリア・リベルテの言葉を、ロメオは思い出す。
──あの子、敵に回したら怖いけど、味方として心強いのではなくて?
全くその通りだ。
そしてマリアのあの言葉は、ジュリアを仲間として勧誘しろという意味にも取れた。もっともロメオがジュリアの職業──カルナーナ政府専属秘書官であること──を告げたらマリアは、やっかいな相手、とか何とかつぶやいて、考え込んでしまった様子だったが。
女占い師というのはマリア・リベルテの表の顔だが、彼女はもう一つの顔を持っている。
奴隷解放組織の女闘士だ。黒い布で髪と顔を隠した姿で、奴隷を非合法に逃がす計画に幾度も加担している。仲間内では闘士マリアとか黒獅子とか呼ばれ、密かに恐れられている女丈夫だ。
それがまだ少女と言ってもいいぐらいの若い年齢の女だったことは驚きだったが、彼女が組織の中で顔を隠していた理由はなんとなくわかった。
素顔が目立ちすぎるのだ。
漆黒の髪に抜けるような白い肌だけでもこのカルナーナでは目立つのに、とにかく綺麗な顔をしている。それも、傾国の美女といってもいいぐらいの、無駄に悪目立ちするレベルの。
ロメオ自身もこの世のものとも思えぬ御面相、などと人に揶揄されるぐらい特異な風貌の持ち主である。だから目立つことのデメリットについては人ごとではなくよくわかる。それでもロメオの場合は、案外簡単に別人を装うことができる。南部には兵士や傭兵やゴロツキやならずものや、とにかくずば抜けて体格のよい男が、少なからずうろついている。トレードマークともいえる無毛の頭部を帽子なり茶色のかつらなりで覆ってしまえば、意外とごまかしがきくのだ。つけ眉を用意すればなおよい。
だが、マリアは髪の色を変えたぐらいでは、別人にはなれないだろう。人は美しいものには目を奪われるものだからだ。下手な変装よりも、隠してしまう方が手っ取り早い。
女占い師というのは、聞くからに胡散臭い職業だ。恐らく顔を隠していることへのうまい言い訳になると考え、その身分を名乗っているのだろう。
奴隷解放組織は基本的には、外部へ向けての教化や啓蒙は行っていない。一般民衆への理念の普及を、組織を運営する上での目的として定めてはいないのだ。改正を重ねた現カルナーナ法をもってしても救済する術のない不当に虐げられた人々を、秘密裏に解放するためだけに存在し、活動している。
だが、有能かつ理念に理解を示してくれそうな相手を見定めて、一般人を勧誘することもあるにはある。
ゆうべ、ロメオたちが滞在しているホテルで話し合いを行ったときに、「新政府による奴隷制度の改革は後手に回っているのでは?」という親方からの質問に対し、ジュリアは「奴隷商人ギルドとの癒着が一因なのでは」とうがった見解を示していた。
制度に対する問題意識もちゃんと持っている。
これは一度、それとなく誘ってみる必要があるのかもしれない。首相官邸に勤務するものを勧誘することについてのリスクはあるが、といってマリアのつぶやいた「やっかいだ」という言葉ほどのこともないだろうとも思う。現に、建設大臣のジグムント・デュメニアも裏で一枚噛んでいる。
また、前線で活動するのではなく、後方からできる範囲での協力をするというやり方もある。ロメオ自身もその一人だ。情報収集、金銭的サポート、人脈づくり等、後方支援者の立場からできることはいろいろあるのだ。
とはいえ、本音を言えばあまり気乗りしない──ともロメオは思う。
気乗りしない理由は、きわめて身勝手な私情による。少女をややこしい問題の中に巻き込みたくはないのだ。弟ジョヴァンニを見つけ出して彼女のもとに返してやったあとは、以前と同じの穏やかで平和な、当たり前の日々の暮らしの中に戻してやりたい。
たとえ譲れない理念を掲げていようが、組織はあくまでも非合法な活動を行っているのだ。平たくいえば、ならず者の集団だ。あえて危険な橋を渡ることも多い。
自分がつきっきりで少女を守れるのならともかく、自分はハマースタイン家に雇われている身だ。しかもこのあとロビンを連れて巡業中の見世物一座を追わなければならないのだ。
あとひと月足らずで、ロビンに空中ブランコの指導をしている親方は休暇を終え、中央の王都に戻っていく。そうしたらロビンには南部に留まる理由はなくなるから、すぐにでも巡業中の一座を追って旅立つことになるだろう。
もしも──。
埒もない思いがふと、ロメオの頭をかすめた。
ジュリアをその旅に、一緒に連れていけたら。
可能ではあるのだ。ジュリアと彼女の弟の2人ぐらいまでだったら、ロビンの護衛の補佐として、ロメオの裁量で雇うことができる。
彼女ともうちょっと長い時間一緒にいて、いろいろな話をすることができたら。聡明な彼女とだったら、きっと会話は尽きない。ロメオにとって胸が躍るような楽しい旅になる。いや、話すことができなくても、見ているだけでもいいのだ。憂いに曇る少女の瞳が楽しそうに輝くところを、一度でいいから自分は見てみたいのだ。
浮かんだ考えを、ロメオは即座に打ち消した。
そんなことをしてどうなるというのだろう。旅の護衛など、近衛兵と官邸秘書官の仕事を辞めてまでやるようなものではない。しかも、一座にロビンを預けたあと、ロメオはブリュー侯爵領へ向かうのだ。あの禍々しいものが淀んだような陰鬱な場所に姉弟を連れていくなどもってのほかだ。
第一ジュリアの弟はまだ見つかっていない。手がかりすらない。
それ以前に、自分たちのいまいる場所は、得体のしれない女術師の懐の中だ。腑抜けた妄想にひたっている場合ではない。
気を引き締めつつ、さっき来た角を曲がろうとすると、ぐにゅり、と何かが全身に当たる感覚がした。通路に目に見えない壁ができている。
結界だった。
これほどあからさまなものに行き当たるのは、ロメオは初めてだった。術師の張る結界は通常、壁や塀などの物理的な障害物に沿わせて巡らせることが多い。なぜなら空気や水のようなたよりないものよりも、木や石などでできたもともと固いものを術によって強化するほうがたやすいからだ。
やはり気づかれている。
地下牢に潜入しているはずの3人の少女が気になったが、打ち合わせのときにマリアに念を押されている。目的を果たしたらロビンとカナリーは、マリアが責任を持って外に連れ出すからと。何か異変を感じたら、ロメオはジュリアを連れて速やかにここを脱出してほしいと。
後ろから追いついてきたジュリアを手で制して下がらせながら、ロメオは懐の短剣に手を伸ばす。以前まじない通りであのばばあから買った短剣だ。自分には術は使えないが、剣には術が施してある。しかもこれは、込めた気迫を最大限に増幅してくれる。ここは気迫で突破するしかあるまい。
と、そのとき、ジュリアの腕の中で子猫のアゲートがじたばた暴れ始めた。子猫は小さくミャア、と鳴き、ジュリアの足元にすとんと降りると駆けていって、結界のあるあたりに背中をこすりつける。まるで甘えているようなしぐさだった。
次の瞬間、雷に似たバリバリという音が小さく響いた。バババババッと目に見えない火花が散って、空気が震え、そのあとどこからか微かな風が流れ込んでくる。見えない壁だった通路の向こう側から。
風と共に、フロントあたりの喧噪が、途切れ途切れに耳に届いた。
さっきまでの静寂が不自然だったことに、いまになって初めてロメオは思い至った。
子猫のアゲートによって、あっけなく、結界は破られた。
まじないばばあの薦めてくれた守護石がケタ外れのパワーを秘めたものだったのか、子猫の精霊を呼び出したマリアの術が突出したものだったのか、あるいはその両方だったのか。
子猫は一仕事終えたというそぶりもなく、あどけない顔をきょとんとこちらに向け、ふわふわのブルーグレイの毛並みを今度はジュリアの足元にこすりつけた。抱き上げてくれと言っているようだった。
フロントに鍵を返し、無言でついてくるジュリアとともに建物の外に出た。
さて、どうしたものだろう。打ち合わせのとおりに辻馬車を呼んで滞在中の宿に先に戻るか、あるいはいったん通りに出て、正門を見わたすことのできるあたりで3人を待つか。思案しつつ敷地の出口に向けて歩いていると、後ろから声をかけられた。
「もし、だんなさま」
振り返ると、グレイの髪を綺麗に撫でつけた初老の男性がこちらを見ていた。
「お連れのお嬢さまは、ジュリア・リッツォーリさまではございませんか?」
宿の従業員のような服装の男だ。だが、チェックインのときにはロメオもジュリアも偽名を使った。廊下を歩いているときも、意識してお互いの名前は呼ばないようにしていた。だから、ジュリアの名前が知れる理由がわからない。
警戒心を押し殺し無表情に見返すロメオに、男は微笑みかけた。
「エルミラーレン殿下がお待ちです。どうぞ、わたくしどもとともにおいでください」
初老の男は、正門わきの停車場に停めた4頭立ての馬車を示した。




