96 地中の川をくぐり抜け
いかに強大な魔力を持つ人間がいようとも、精霊界のいかなる王であれ、かつてならば精霊の王が人の国に囚われることなど起こり得ないことだった。あり得ないはずのことが起こっているのだ。いまの物質界は予測できないレベルで危険が増大している。
先日水蛇の都を訪れた竜族の方たちは、そういってマナたちが人間の世界に下ることを反対していたのだった。
モリオンが彼らを説得できたのは、彼女自らが3人をアララークに連れていくことを提案したからだ。
アララークにはモリオンがいる。賢人グレイハートもいる。そして賢人グレイハートとアララークの王は、ともにアストライアの血筋のものである。
モリオンがマナたちをアララークに呼びたいと考えたのは、同じくアストライアの血筋であるグレイハートの小さな妹に予言の能力が顕現したため、その導き手を捜しているという事情からだった。
マナもミナもモナも予言者ではないが、身近に水蛇の巫女という存在を感じながら育ってきている。彼女たちが物質界にいる間だけでもアララークに滞在してもらえば、指南できることがあるのではないか。そうモリオンは考えたのだという。
精霊にとって言葉で交わした約束は神聖なものだ。この世界で為されたものならばなおさらだった。3人の水蛇の女の子を伴ってアララークに向かうという公約は、新しい川の王の選出が行われたのちに果たされる。
モリオンはマナ、ミナとともにあとから物質界に下り、さきに行って待っているモナと合流し、改めてアララークに向かうことになる。
これからの予定に言及したあと、モリオンは再び申し訳なさそうにおばあちゃんを見た。
「水蛇の長老。マナは次の水蛇一族の首長となるべく育てられたものだと聞いているわ。それをこんなことに巻き込んでしまって……」
「緑樹さま……えーと、精霊王って呼んだ方がいいのかな?」
「いえ。よければおばあちゃんはいままでの通りで」
「いいのかい?」
「わたしが緑樹の精霊なのはずっとかわらないことだから」
「そうかい。じゃ、あたしはこのまま緑樹さまと呼ばせていただこうかね。それがねえ緑樹さま、あたしゃちっとも実感がわかないんだよ。実際のところ緑樹さまは、マナが川の王だと思っておいでなのかえ?」
「まだわからないの」
モリオンは首を振った。
「ほかの人たちにも会ってみないと」
「あと、これは質問なんだが、川の王と水蛇一族の首長というのは兼任できないものなのかね?」
「できなくはない」
空の王が横から口をはさんだ。
「だが、川の王は全ての川の民にエネルギーを分け与える存在だ。となると水蛇一族を特別扱いはできん。どんなときにも水蛇を最優先に考えることのできる立場の別の者を首長として立てることを、わたしはお奨めする」
「ふうん、そうかい……」
水底の街の会議場の大広間に集まった顔ぶれをぐるりと見回しながら、ルビーは改めて考えた。
ここで話題にされている"王"とは一体なんだろう。
以前ハマースタインの奥さまにつけていただいた家庭教師によると、王さまというのはその国で一番偉い人で、国についてのいろんなことを決める最終決定権を持っている人だという話だった。
国中の人は働いて王さまに税を納める。王さまはそれを使って豪華なお城を建てたり、自分の銅像を立てたりする。国を豊かにするために事業を行ったり、国民の教育のための施設に投資する王さまもいる。兵をどんどん増やして隣の国に戦争を仕掛ける王さまもいる。
だが、精霊界における"王"というのは、どうやら人間の世界のそれとは違うものであるらしい。
緑樹の王と呼ばれ、いままた"精霊王"と呼ばれようとしているモリオン。獣の姿をした氷原の王。鳥の姿をした空の王。その大いなる力は領民の力をまとめて得るものではなく、ただ領民に分け与えるためのものであるらしい。
「あなたの考えている通りよ、ルビー」
ルビーははっと顔を上げた。
黒曜石のナイフを通して、モリオンがルビーの心に直接話しかけてきたのだ。
「精霊界における"王"とは、霊力の根源とつながり、王に属する領域をその霊力で満たす存在のことなの。なりたくてなるものでもなければ、なりたくないからといって拒否できるものでもない。人間界ではただ1つ、アストライアの聖王だけが、精霊の王と同じ意味での王だったわ」
アストライアの聖王家。
それもルビーがこれまで意味がわからずにいたものの1つだった。
「アストライア聖王家は、太古精霊界にいた光の一族の末裔であるといわれているの」
光の一族?
「ええ。光の一族はまだ精霊界も物質界も別れていない混沌の世界にいた精霊たちで、いまでは目に見える形では存在していないの。2つの世界が分かたれたときに現れた光の道を辿って、遠く遠く神の国へ向けて旅立ってしまったのだそうよ。けれどもその一部が聖王家の始祖となる人間の内なる光となって残ったと伝えられているわ」
賢者たちと空の王がこちらを見た。
恐らくモリオンの心話はかれらにも聞こえているのだろうが、直接関わりのある話題ではないためか、会話に加わってはこない。
「アストライアは恐らく人間界で唯一、血筋によってだけでは王位を継ぐことができない国だったわ。王は大いなる光で王国を包み、全ての国民を守り癒す存在でなければならなかった。いまの賢者さまは先代の王の嫡子でありながら、幼くして陰謀に巻き込まれ王国から連れ去られたために、アストライアを継承するものとしての資格を失ったのよ」
不意にルビーは気づいた。
他の人たちは、会話に加わってこないのではない。
薄い膜で隔てられたみたいに、彼らの声がルビーから聞こえなくなっているのだ。
聞こえるのは心に直接響く、モリオンの声だけ。
そして空の王がこちらを見たのは、彼がモリオンの声を聞いたせいではない。ルビーがまさにいまこの場を去ろうとしていることに気づいたからだ。
「ええ、そうよ。性急で悪いけど、人間の世界でもといた場所にこれからあなたを送り届けるわね」
モリオンは冴え冴えとした黒い瞳がルビーをまっすぐに見ている。
「ここはかつて幾つもの開かれた扉が重なり合うようにして存在していた場所。そしていま、多くの霊力と魔力を持つものが集うことになった。だからこれは女将の宿まであなたを戻す、とてもいい機会なの」
歌うようなモリオンの声とともにあたりに満ちていた光る水が2つに割れ、風景がくるりと反転した。
その刹那、視界の端にこちらに向かって何か言っているおばあちゃんが映った。耳には聞こえないが、ルビーにはおばあちゃんが何を言っているのかがわかった。
──アウローラの小さな妹ルビー。いつでもあんたの無事を祈っているよ。いつかまた水蛇の都を訪ねておいで。
否とも是とも返す間もなく、水底の風景はあっというまにくるんと丸まって虚空に飲まれた。大きな川と大きな空も続けて虚空の裏側に吸い込まれて消える。
ルビーの身体は何もない空間をぎゅんぎゅん上昇していく。いや下降しているのだろうか。
方向がわからない。
尾びれのつけ根のくびれた部分に嵌めたアンクレットがちりちりと熱を持ち始める。熱は全身を包み、ルビーの姿を再び人間のものに変えていく。
ごう、と風の音がして、再び周囲の景色が裏返った。
そこは真っ暗な場所だった。
たぷたぷと耳元で懐かしい音がした。──水の中だ。
精霊界の光る水ではない。ルビーのもといた世界に戻ってきたのだ。
海水ではなく真水だった。まだ空気に触れたことのない新鮮な水の手触りに、ルビーの胸はひそかに躍った。
裸足の足に、すべすべした固い岩のようなものが触れている。
しかしそれもほんの束の間。
「地中の鍾乳洞よ。精霊界につながりやすい場所の1つなの」
歌うようなモリオンの声が、再び耳の内側に響く。
「この川の流れはあの女将の宿の地下のすぐそばまで続いているわ。流れを辿ってあなたがもといた場所に送り届けるわね」
次の瞬間にはもうルビーはほの暗い廊下に立ちつくしていた。ほんの2日前ロメオたちと示し合わせて潜入した女将の宿の地下の、食糧貯蔵室の閉ざされたドアの前だった。
隣にはモリオンがいた。といって本物の彼女ではない。ルビーの胸の黒曜石のナイフを憑代とした影だ。
「ちょうどおとといのあの地点まで戻ってきたのよ──少しだけ時間をさかのぼって」
どうやって持ってきたのか、モリオン──の影──はルビーに向こうに置いてきていたはずの編み上げの靴を渡してくれた。彼女自身は相変わらず裸足のままだったけれども。
「いま女将は扉の向こう側に意識を向けてる。でも、あの異空間が壊れてわたしの呼んだ精霊界の水にすべてが飲まれて流されて、女将だけがこちら側に弾き出されたから──ほら、たったいまわたしたちに気づいたわ」
目の前の扉がぐにゃり、と人の形に歪んだ。
右足にだけ靴を履き終えた状態のルビーは、左の靴を手にぶら下げたまま一歩後ずさった。




