95 モナと言霊
「事情が変わったの」
眉をひそめ、どこか困惑した表情でモリオンはルビーに言った。
「わたしはもうしばらくこちらに残らなければならなくなったわ」
モリオンは数人の身知らぬ訪問者を伴って、大河世界に戻ってきていた。彼女は困惑顔のまま訪問者らにルビーを紹介し、ルビーにも彼らのことを紹介した。
紹介されたのは太陽の塔の3人の賢者と氷原の王と空の王。ものものしい顔ぶれだった。
3人の賢者は、銀盤のような光彩のない目を持つ者、巻貝のような不思議な形の耳を持つ者、それに背中に白い翼を持つ者だった。それぞれ人に似た姿を持ちながらも、人間よりははるかに長身だ。
氷原の王は青灰色の毛皮に包まれた巨大な狼だった。カジキマグロよりも馬よりもゾウよりも大きい。しなやかな筋肉に包まれた四肢は長く優美で、走るととてつもないスピードが出そうだ。瞳はサファイアのような澄んだ青をしていて、大きく裂けた口からはぎざぎざの白い牙が覗いている。
空の王もまた、見たこともないぐらい巨大な鳥の姿だった。鉤状に曲がった大きなくちばしと、黒々とした光を湛えた猛禽類の鋭い目。樹の幹のように節くれだった脚に長くとがった巨大な鉤爪。羽毛は淡いシルバーグレイと純白の縞模様。
2匹とも夢幻のように美しかった。
「水蛇の巫女よ」
銀盤の目の賢者がおばあちゃんに声をかけた。
「我々は結論を出しました。緑樹の王でもある彼女こそが、次なる精霊王となられるものです」
「やっぱりそうだったんだね」
おばあちゃんは、さほど驚いた様子もなく頷いた。
「緑樹さまが大河世界にお渡りになった瞬間から、川の水が勢いを増して、まばゆいばかりに輝き始めたんだ。だからひょっとしたらそうではないかと思っていたよ」
「空でも風が色を変え、輝きを増したぞ」
巨大な鳥の姿をした空の王が口を開いた。楽器のように不思議な響きの、深い声だった。
空の王の声は、口から発せられるものではない。王を取り巻く光の粒子そのものが振動して、美しい楽器の音色のような声を紡ぐのだ。
光る水の満ちた集会所のホールにその音の響くさまに、ルビーは注意深く耳を傾けた。
ルビーのつくり出す風の声と違って、水流に響く空の王の声は魔力そのもののようにも思えた。
賢者たちは静かに頷いた。
氷原の王だけが気難しそうな顔のまま黙っている。
「それよりも、なぜ賢者さまと王さま方が、揃ってこの水蛇の都へお越しなんだい?」
おばあちゃんは訪問者らをぐるりと見回した。
モリオンがやや気まずそうな顔で答えた。
「それはわたしが──マナが新しい川の王の候補だと言ったからなの」
今度はおばあちゃんは、ひどく驚いた顔になる。
「まさか! 水蛇は短命な種族なんだよ! そんなものがあの子に務まるわけがない!」
空の王が頭をぐるりと巡らせて、丸い鳥の目をおばあちゃんに向けた。
「巫女どの。精霊王のお言葉だ」
「ああ。確かに。失礼した。しかし……」
「心配は無用です。もしもその水蛇の娘が川の王となるものなれば、精霊王がその霊力と永き生命を分け与えることになるでしょう」
銀盤の目の賢者の言葉を、空の王が補足する。
「それに、まだ決まったわけではないからな」
「これから我々は、水龍の一族やカワウソの一族、川牛の一族などを訪ね、他の候補者も捜します。川の王の選定はそののちとなります」
***
山岳世界に使いが出され、カナリーと3人の水蛇の少女は急遽呼び戻された。
人魚の姿で水を泳ぐルビーを見るなり、モナは目をきらきらさせた。
「野いちごのルビー! やっぱり尻尾も野いちごの色なんだね! 綺麗だねえ。赤い水晶みたいだねえ」
モナが嬉しそうな顔でルビーの周りをぐるぐると泳いで回るので、ルビーは銛の傷のことを思い出して恥ずかしくなった。
いまのルビーは裸身ではなくやや長めのチュニックを1枚かぶっていたが、尻尾の傷が隠れるほどの長さはない。
モナはルビーの尻尾の傷に全く気づいていないか、気づいていても全然気にしていないかのどちらかだった。
「綺麗だねえ。いいなあ、ルビー、いいなあ」
呼び戻した理由をモリオンが切り出すまで、そううっとりと眺めていたモナだった。
「ごめんなさい、ミナ、マナ、モナ。あなたたち3人一緒に人間の国に連れていけるはずだったのだけれど……」
モリオンは申し訳なさそうに、水蛇の少女たちにこれからの予定を説明した。
マナはこれから賢者や王らとともに精霊王の候補者選びに同行する。そして他の候補者らとともに太陽の塔にて最終的な選定を行うのだという。
ミナはマナが戻るまで水蛇の都で待機することになる。
モナにはカナリーとともに一足先に物質界に飛んでほしい。
「これはお願いなの」
モリオンはびっくり顔のモナの両手を取った。
「ルビーはこれからカルナーナの新都に飛んで、怖い人につかまっている仲間を助け出さなければならないの。だから、あなたにはカナリーをある人のところへ送り届けてほしいの」
「ある人のところ?」
「人間の世界のわたしの知り合いよ。カルナーナの小さな町で、孤児院を営んでいるわ」
孤児院の意味がわからないらしいモナに、モリオンは親のいない子どもたちを預かって育てる場所のことだと手短に説明した。
「──お願いできるかしら?」
「あたしがカナリーをそこに連れて行くの? ちゃんとあたしにできるかなあ?」
モナは不安そうな顔になる。
「あたし、人間の国のことはなんにもわかんないんだよねえ。かえってカナリーの足手まといになったりしないかなあ?」
「その町のなるべく近くに跳べるようにサポートするわ。向こうに連絡が取れる相手が1人いるから、転移先の場所までその人に迎えに行ってもらうように頼めると思う。あなたにはカナリーと一緒に行ってほしい理由があるの」
カナリーと一緒に人間の世界に着いたらすぐに、彼女の腕を飾る翡翠のバングルにあなたの守護の魔力をかけてほしい。そうモリオンは依頼した。
「あたしの?」
モリオンは頷いた。
「そう、あなたの魔法でお願いしたいの。先日の、時間を超えた南の島への転移のことを考えると、あのバングルはモナ、あなたととても親和性が高いみたいだわ。だからあなたの言霊にはちゃんと応えてくれるはずよ。わたしのかけた守護の言霊は、カナリーが精霊界にいる間しか働かないの。あとで竜の一族にバングルを返すつもりだったから、そういうかけ方をしまったの。あれは本来は水の民のものだと思っていたから」
「うまくできるかなあ? あたしに」
心もとなさそうにモナはつぶやく。
「バングルに向けて、カナリーを守ってくださいっていってお願いするんだよねえ?」
モリオンはもう一度力強く頷きかけた。
「そうよ。言霊の魔法は、言葉をきちんと形にすることと、気持ちを込めることで働きはじめるの。あなたはとても優しい心を持っているから、カナリーのために願ってくれることは、あなたにはきっと難しいことではないはずだわ」
それからもう1つ──と、モリオンはこうも言った。もしもバングルがその色や形を変えてカナリーの腕から離れることがあったならば、それをもらって持っていてほしいのだと。
「あれはいまのあの子には必要な守護よ。けれどもあの子が川の王に浴びた魔力の影響が薄れて必要なくなったら、バングルは自然にはずれてしまうと思うの。そうしたらあなたがそれを大事に身につけて、あとでこの大河世界に持ち帰ってほしいの」
一足先にカナリーを人間界に送り届けたい理由は大きくわけて2つあるということだった。1つはカナリー自身が精霊界にこれ以上長く居過ぎない方がよいこと。もう1つは川面世界に伸びる大樹を、本来の住処である森に早々に移したいと思っていること。
「カナリーのための樹の上の小屋は、もう撤去しなれけばならないわ。そんなに長くはあの樹は大河世界には置いておけない。緑樹のエネルギーが溢れ出して、この世界のバランスが崩れてしまうわ。周辺領域の境界があやふやになってしまうと、他の住人たちにも迷惑がかかる。もう大きな枝の上にさまざまな鳥たちが集まり始めている。あの樹は森に移した方がいいの。樹のためにもね」
カナリーは見世物小屋に帰るのか帰らないのかを、まだ決めかねているのかもしれない。
ルビーはそう考えていたが、モリオンもまた同じように感じていたらしかった。
女将のところに残してきたロメオとジュリアを追うのには、カナリーを連れてはいけない。といって、副座長のもとに何の庇護もなく戻すのは不安の方が大きい。だから彼女がきちんと自分の身の振り方について考えることができるまで、信頼のできる知り合いのところにいた方がいいだろう。そう結論を出したのだと、モリオンはルビーに説明した。
モナはなおも不安げな顔で、ルビーを振り返った。
「けど、それだとルビーは1人で怖い人のところへ行かなきゃなんないの?」
「1人じゃないわ。向こうには仲間がいるんだもの」
ルビーがそう答え、モリオンも言葉を添える。
「心配してくれているのね、モナ。でも、ルビーのそばにはわたしの影を飛ばすから大丈夫よ」
「カナリーはそこには一緒に行かない方がいいと、あたしも思う。カナリーは女将のことをとても怖がってたから」
「そうだねえ。カナリーは怖がりだもんねえ」
山岳世界から帰ってきたいまも、カナリーはやっぱり水蛇の都に降りてくることはできなくて、大きな樹の上の小屋でモナたちを待っている。
大河世界を流れる光る水を怖がっているのはカナリーだけだが、あの宿の女将はほんとうに怖い。だが女将のことを何も知らないモナは、ルビーの言葉に納得して大きく頷いた。
「あたしは人間のことが何もわからないけど、それでもよくて一緒にいてあげるだけでいいんだったら、うん、あたし、カナリーと一緒に行くよ」
「ありがとうモナ」
モリオンはモナの両手を取ると、ぎゅっと握った。
「モナ、あなたを守護するための新しい名前を授けるわね」
それからモリオンは、びっくり顔で目を見開いているモナの耳元に唇を寄せ、小さく何かをささやいた。
モナの顔がぱっと明るく輝いた。
「ハルモニア? ハルモニアっていうの? あたしの新しい名前? ずっと昔の精霊の名前なんだね? 調和って意味なんだね?」
「もうっ! モナったら馬鹿ね!」
「それはあんたを守護する名前だから、だれにも言ってはいけないものなのよ」
すぐ横からミナとマナが、呆れた声でたしなめた。
空の王が鷹揚な声で応じた。
「精霊王の名づけに立ち会ったものとしてここに誓おう。その名を知ることによって、決してハルモニアに害は為さぬことを」
「ええ、誓いましょう」
「もちろんだとも」
「誓うとしよう」
いままで黙っていた賢者たちも、口々にそう言った。
氷原の王だけは相変わらずむっつりと黙ったままだ。
ルビーはおばあちゃんとモリオンの顔をかわりばんこに見た。
ルビーも「誓う」と口に出した方がいいんだろうか?
おばあちゃんはにこにこしてルビーに言った。
「大丈夫。もとよりここに居合わせたものが、モナに害を為すことはないのはわかってるよ。これから先モナが軽々しく新しい名前を名乗ったりしないようにって意味を込めた空の王のパフォーマンスだからね。気にしなくていいよ」
それから少し厳しい声になって、モナに声をかける。
「あんたは少し気にしときなよ、モナ。人間の世界ではもっと気を引き締めてね」
「うんっ、おばあちゃん、わかった」
そう答えながらも、名前をもらったのがよほど嬉しかったのか、モナの口元は緩んだままだった。




