94 アズールとアレクサンドラ
※1つのシーンですが9000文字を超えたので93話と94話に分けてアップしています。
アズラール王家の末裔のその男は、彼の祖父から王家の再興を願ってアズールと名づけられたのだという。明るい栗色の髪とヘーゼルグリーンの美しい瞳の、類稀なる美貌を持つ怜悧な青年であったと伝えられている。
そうおばあちゃんは語った。
アズールに出会って恋に落ちた人魚の名前はアレクサンドラといって、人魚の中でもずば抜けて美しい娘だった。彼女はアウローラよりも150歳ばかり年上だったが、人魚の中では最年少のアウローラと一番歳が近かったのだという。
アレクサンドラ。
その名前を聞いたルビーは首を傾げた。
どうもどこかで聞いたことがある気がする。
考えたが思い出せない。
「アズールとアレクサンドラはブリュー侯爵城で結婚式を上げるといって、人魚たちを人間の国に招待したんだ。人魚たちは歳若い同族の娘を祝福するためにブリュー侯爵領を訪ね、そこで囚われの身となった」
そこでおばあちゃんはそっと周囲を見回して、やや小さい声になった。
「ここから先の詳しい話は、アウローラとあたし、それに先代の精霊王しか知らないことだ。あまりにもおぞましい話だったから、むやみに話さずにきたことなんだがね。これから人間の世界に戻るあんたは知っていた方がいいかもしれない。アズールとアレクサンドラは、人魚たちの力を奪って閉じ込める目的で、宴の料理に人間の肉を混ぜて食べさせたんだ。ひどい目に合った挙句理不尽に殺され、恨みを抱いて死んだ人間たちの肉だ。その苦みを消すために、アレクサンドラは料理に目くらましの魔法をかけた。料理を口にした人魚たちはみな、毒に苦しんで意識を失い倒れた。アズールは彼女たちを城の地下の結界に閉じ込めた」
人の魂の穢れを身の内に取り込むことは、精霊として大きなダメージを受けることである。けれども、そんな秘密をそのときまでどの精霊も人間に打ち明けたりはしていなかった。だから人間の国で出されたものに対する警戒心が、そのときの人魚にはなかったのだ。
それに、人魚たちはだれ一人として、愛する妹が自分たちを害することがあるなどと想像もしていなかったに違いない。だから何の疑いもなく料理を口にした。
「人魚たちが二度と精霊界の土を踏むことができなくなったのは、精霊王の手で魂に刻印を刻まれたからだといわれているがね。本当は彼女たちが身の内に取り去ることのできない穢れを取り込んでしまったからなんだ。殺されてしまった人間の恨み、つらみ、憎しみが身の内側から噴き出して、精霊界では彼女たち自身を容赦なく切り刻むからね」
「でも──」
衝撃的なおばあちゃんの言葉に慄きながらも、ルビーは疑問を口にする。
「北の海のお姉さま方は、みんな長老よりも歳がお若いのだと思っていたわ。300歳の長老が最年長者なんだと」
「彼女たちはみな、アズールに食われた人魚の魂の切れっぱしなんだよ。長い時間をかけて、アウローラは人間の世界を捜しまわって、残された人魚の魂の欠片を拾い集め、再生させたんだ。ほとんどの人魚は以前の記憶を失って、その一部分だけが影としてさまよっていた。彼女らはいま、北の海で優しい癒しの時間を過ごしている。アウローラに見守られながら、その霊力に守られて。何の苦しみも知らなかった若い頃の記憶とともにね」
冷たい北の海にいた人魚のお姉さま方は、小さな魚や海の生き物を慈しみ、たくさんの不思議な歌を歌い、さざ波のように穏やかに語り合って日々を静かに過ごしていた。
あのお姉さま方はどんな苦しみとも無縁だと思っていたのに……。
「お姉さまたちは、これからどうなるの?」
「どうだろうね? かつて自分たちを苦しめた人間のことを思い出すのか思い出さないのか。全ての浄化が叶っていつか精霊界に戻ってくることができるのかどうなのか。それはだれにもわからないことじゃないのかね」
「長老は──長老の魂に傷がないのなら、長老はこちらの世界に戻ってくることもできるのでしょう?」
その問いかけにはおばあちゃんは首を横に振った。
「人魚の長は、物質界に下るときに精霊王と取り決めを交わしたんだよ。こちらには決して戻ってこないってね」
あくまでも人の国に下るとの決意を告げたアウローラに、そのときの精霊王の出した条件は3つ。1つめの条件は、物質界に下ったのち2度と精霊の地に足を踏み入れぬこと。辿りついたその地で、生き物としての命を終えることをよしとせず、大いなる眠りが訪れるまでは生き続けて精霊としての長き命を全うすること。それらの誓約の印を魂に刻むこと。
同族のものの魂は響き合う。
精霊王は、アウローラが穢された人魚や闇に落ちた人魚と関わることで、混ざり合った穢れが精霊界に浸蝕していくことを懸念したのだという。
「だったらあたしだって──」
以前モリオンにぶつけた疑問を、ルビーは再び口にした。
「お姉さま方と魂が響き合うのなら、あたしがこの地に足を踏み入れることはよくないことではないのかしら?」
「そうだねえ……。先代の精霊王が生きてらしたら、そうおっしゃるかもしれないね。だけど取り決めを交わしたのはアウローラであって、あんたではないからね。いまのあんたには何の制約もないんだよ」
おばあちゃんは優しい顔になってルビーを見た。
「アウローラは千年に一度ともいわれる強い魔力と霊力を持って生まれてきた人魚だった。まだほんの若輩者だったゆえ精霊界の海洋世界の守護を担うものではなかったものの、彼女が姿を消した60年の間、恐らく海洋世界を守護する霊力が結果として弱まってしまった。そのことも、人魚が人間の世界に囚われて逃げ出すことのできなかった一因となってしまったんだ。アウローラには罪はなかったとあたしは思うが、少なくともそのことに関して、彼女は自責の念に駆られていたように見えたよ。アウローラが全てを忘れてささやかな幸せを享受している間、仲間たちはかつてない危機を迎えていた。彼女はそれを見過ごしにしてしまったことに対する償いをしたかったんじゃないかってあたしは思うよ」
「アズールとアレクサンドラはどうなったの?」
「アズールは人魚を少しずつ喰らいながら、人としてはずいぶん長い時間を若い姿のまま生きた。詳しい経緯は知らないが王家の再興は叶わなかったのだろうね。しまいには身体は溶け、いまは魂の囚人としてブリュー侯爵城の地下につながれているという話だね。アレクサンドラはあたしは知らないが、この前モナが見せてくれた過去視の幻影に出てきた古い塔の中の真っ黒なあれが、アレクサンドラのなれの果てなんじゃないのかね。アウローラがいうには、わずかでも輝きを残したアレクサンドラの魂の欠片はどこを捜しても見つからなかったそうだ。もしも魂がどこかに残されていれば、あるいは救いがあったのやもしれないが」
「どうして──」
と、ルビーは重ねて聞いた。
「そんなひどいことをする人間を、その人魚は好きになっちゃったの?」
好きになるだけではなく。彼女は彼の所業を止めようともせず協力したのだと、おばあちゃんは言った。
ルビーと同じ人魚の女の子に、どうしてそんな恐ろしいことができたのだろう。
「さあね。あたしにもわからないよ。ただね、人間は明日というものを強く願い、望む生き物だからね」
考えながら、言葉を選びながら、ゆっくりとおばあちゃんは答えた。
「しばしば、その願いはひどく歪んでしまうんだけどね。けれども、たとえ願いを叶える手段が間違っていても、願いそのものが望んではいけないものであったとしても、あたしたち精霊は、人の持つ願いそのものの強さに惹かれるということがあるのかもしれないね」
それでもアレクサンドラの犯した罪は、取り返しのつかないものとなってしまったのだという。
人の魂の穢れが精霊にとって猛毒であることを、強い魔力を持つ人間たちに知られてしまった。
それまでは人間にとって精霊を捕まえて閉じ込めておくのは本当に難しいことだったのだ。例え魔力で縛っても、本当に望まないことには精霊はその力を貸さない。そして、精霊をひどく傷つけて殺してしまったら、光の粒となって大気に融け、そのままどこかへ流れ去ってしまうばかりだった。
精霊の力を悪しき術により人は身の内に取り込むことができる。強い魔力を持つ人間は、精霊の肉と魂を喰らうことによりますます強い魔力を帯びることが叶う。
そのような伝承が幾つかの古い王国には残されてはいた。
また、北の王国メリルヨルデでは、人魚の肉はあらゆる病と死を遠ざける妙薬だと信じられてきた。
しかし、人間にとって精霊の力を取り込む具体的な方法は失われて久しかったのだ。
それなのに。
魂の穢れを植えつけられてしまった精霊は、命を失うほどの痛手を負わされたとしても消えてなくなることがない。
アレクサンドラとアズラールの所業により、魔力を持つ一部の人間はそのことに気づいてしまったのだ。
「精霊王は1人の人魚の犯した咎のためにすべての人魚を精霊界から追放したとだけ、皆には告げた。銀色の人魚アレクサンドラの罪は、悪い人間を愛し、その人間に精霊の弱点を教えたというものだった。王は物質界に渡るすべての精霊に警告を出した。魔力を帯びた人間に注意せよというものだ。ただし、人魚が自らの手で同族のもの全てを罠にかけ、人間の肉を食べさせたという事実は伏せられた。もしかすると先王は、犠牲となった多くの人魚たちにいつか戻ってきてほしいとだれよりも強く願っていたのかもしれないね」
王の願いがどこかでだれかに間違って伝わったことで、人魚が赦されるための秘策を水蛇の巫女が知っているという話となって広まったのではないか。
ルビーが小舟の上でモリオンから聞いた話について、水蛇のおばあちゃんはそんな推測を口にした。
恐ろしい人魚の歴史を聞いたルビーは、底知れぬ深いまなざしをした長老の姿を思い浮かべた。
魔力を持った人間に食われ、魂の欠片となった人魚たち。長老は彼女たちを捜して新しい器をつくり与え、北の果ての海までいざなったのだという。
ロゼッタもまた、長老の手を借りていればお姉さま方のように人魚として再生できていたのだろうか。
もしもロゼッタがルビーにではなく人魚の長老アウローラによって発見されていたとしたら。
あの花は、ルビーにとっては記憶の欠片でも、アウローラが見れば魂の欠片だったのではないだろうか?
記憶としてルビーの内側に不完全な形で蘇るのではなく、アウローラなら1人の小さなの人魚として生き返らせることができていたのかもしれない。
それとも本当の人魚と人間の中での先祖返りと呼ばれる存在は、また別のものなんだろうか?
あるいはもしもロゼッタが死の間際に強い恨みや憎しみを抱いていたら、あの花を食べたルビーはいまごろどうなっていたのだろう。
人の穢れを身の内に取り込み、精霊界に足を踏み入れた途端に清浄な光の洪水に呑まれ、散り散りに砕けて溶けて消えてしまっていたのだろうか?
そこまで考えて、ルビーは思い直した。
あの花はルビーから見て、禍々しいものではありえなかった。
むしろあれは、ここの光と同じものでできていたのだ。
もしかしたら、人魚の長老は全てを知っていたのかもしれない。知っていて、ただ見守っていたのかも。
人間の世界に出かけて行くようになってからずいぶんの間、ルビーは長老の目を直接覗き込むことを避けていた。けれどもいまは、あの深淵に向き合ってでも、聞きたいことが山のようにあるような気がする。
「長老!」
岩の向こうから、おばあちゃんを呼ぶ声が聞こえた。
大きな岩をぐるりと回って、水蛇の女の人がこちらに泳いでくるのが見えた。
さっき皆に休憩の合図を送った女の人だ。
「おお。そろそろ作業再開かね。悪いね。ちょっと長く休み過ぎたようだ」
「いいえ。伝言を持ってきたの。緑樹さまがお戻りになられから、あなたがたは至急戻られますようにですって」
ルビーとおばあちゃんは顔を見合わせた。




