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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[六] アンクレットと人魚の涙
93/110

93 最後の聖域

 山岳世界に出かけたカナリーと3人の水蛇の少女は、午後になっても戻ってこなかった。

 おばあちゃんは気分転換になるからといって、ルビーを花の蜜の収穫の手伝いに誘い出した。


 本当に久しぶりに人魚の姿に戻ったルビーは、ほかの水蛇の人たちと一緒に水底の岩場に咲く花の間を泳ぎながら蜜を集めた。

 花びらを傾けると水よりも重い金色の光の滴がふちからがこぼれ落ち、それを受ける小さな瓶の中に溜まっていく。瓶がきらきらした金の滴でいっぱいになったらふたをして、籠の中に次々と詰めていく。


 水蛇の一族は人魚と同じく皆女性の姿をしている。だが、人魚とは違い、さまざまな年齢の人たちがいた。

 若い水蛇に混じって、壮年の女性やおばあちゃんに近い年の人がいる。マナたちよりももっと幼い女の子たちもいる。

 女の子たちはきゃあきゃあ笑い声を響かせながら、ぐるぐると岩場を泳ぎまわって追っかけごっこをしている。


「あたしたち水蛇は、子どもを持ち、決められた寿命を持つ一族なんだよ」

 金色の小瓶で一杯になった籠を受け取ると、おばあちゃんはルビーにそう教えてくれた。

「あたしにはもうそろそろお迎えが来る。だが、その分新しい命が生まれてくる。もしもだれかが罪を犯しても、新しく生まれてきたものたちがそれを背負う必要はない」


 ルビーは蜜を集める手を止めて、おばあちゃんの方を向いた。

 これからおばあちゃんが何の話をしようとしているのかに気づいたからだ。


「かつてアウローラは人魚の罪を1人で背負うと決めた。そして、人の意識の渦の中に捕らわれた同族の魂に寄り添うために、精霊界を後にした。精霊王は一度は引き止めた。強い霊力を持つ彼女が精霊界に残れば、穢れなき魂を持つ新しい人魚がいずれまた生まれてくるだろうからと。闇に落ちた人魚とのつながりを断ち、精霊界の王の領域で守られて過ごすことを強く勧めたんだ。けれどもアウローラは首を縦に振らなかった」


 おばあちゃんは微笑んだ。

「どうしてあたしがそれを知っているかって? それはね、あたしがあのとき精霊王のもとに直談判にいった水蛇だったからさ。精霊王が下した判断に納得がいかなかったからね。どうして最後に残されたたった1人の人魚であるアウローラまで領土から追い出して、2度と戻ってこられないようにしてしまうんだってね」


「最後の人魚?」

 思いもよらぬ言葉を聞いて戸惑うルビーに、おばあちゃんは頷いた。

「そうだよ。あのときアウローラ以外の人魚は全て、人間の世界に連れ去られてしまっていたんだ。アウローラよりもうんと年上の、長い長い時を生きてきた人魚までも、全て」

 おばあちゃんは、岩場をぐるりと見渡すと、みんなの周りを泳いで籠を次々と回収している女の人に声をかけた。


「そろそろちょっと休憩にしようじゃないか。みんなにもそう言っとくれ」

「わかったわ。長老」

 女の人は振り返って、みんなに向かって大声を上げた。

「休憩よーーっ! 各自休んでーーーっ!」


 遊んでいた子どもたちがおやつ、おやつなどと口々に言いながら、母親らしき水蛇のところに集まっていく。


「あたしたちはあっちの岩場に行こう」

 おばあちゃんは、収穫した瓶のうち2つを手に取って、皆から少し離れた場所にルビーを促した。



「遠い遠い昔、精霊界と物質界はいわゆる地続きだったと言われている。アウローラの末の妹ルビー、あたしらがあんたぐらいの小娘だったころは、まだ世界のあちこちにその名残があったんだよ。いまから300年ばかりも前のことになるけれどもね」

 おばあちゃんの昔話はそんなふうに始まった。


 人間の世界から精霊界に渡るためには、いまは空間移転の力を使って移動しなければならない。けれどもかつては、大陸の中に幾つかの"開かれた扉"が存在していて、"跳ぶ"ことのできない精霊もごくまれにではあったが人間も、精霊界と人の国の間を移動できていたのだという。

 扉といっても別に扉の形をしているわけではない。

 多くは精霊界でも物質界でもある中間領域であり、ときには聖域と呼ばれて神聖視されてきた場所でもあった。

 

「それでもごく最近まで大陸に残されていた聖域が1か所だけあったんだがね、それもいまからほんの2年ほど前に失われたんだ。かつてのアストライア聖王国の"聖なる森"と呼ばれていた場所だよ」


 思わずはっと顔を上げたルビーに、おばあちゃんは続けて言った。


「18年前、緑樹の王がお生まれになった場所でもあるんだがね。短気な人間の若者がきれいさっぱり焼き払ってしまったのさ。もっともそれ以前も、ちょうど精霊王が大いなる眠りにつかれたばかりということもあってエネルギーが不安定になっていたから、力のある精霊がこっち側の出口をふさいじまってたんだけどね。最後の通路が閉ざされて精霊界と物質界が完全に分かたれてしまったのは、実はごくごく最近のことなんだよ」


 おばあちゃんのいう短気な若者とは、恐らくアララーク王アルベルトのことだ。

 一瞬その話を聞きたいと思ってしまったルビーだったが、モリオンに関する話をおばあちゃんから聞く必要はないと思い直した。あとでモリオン本人に確かめよう。


「とにかく300年ほど前には、いまのように強い魔力を使わなくてもあっちとこっちを楽に行き来できてたんだ」


 かつて精霊界と物質界をつないでいた通路は深い森や湖の底ばかりでなく、小さな沢のある谷合いや海辺などの比較的人里に近い場所にも存在していたのだという。どの通路にも共通していたのは、精霊界と物質界の両方に常につながっている、つまり"開かれた"通路だったというところだった。"古い塔の島"に迷い込んだモナとカナリーを呼び戻すために、おとといマナがモリオンの助力を得て作ったトンネルが一時そうであったように。


「あたしら水蛇の娘らも、人間の国にちょくちょく遊びに出かけていた。ちょうどいま、マナたちが山岳世界に出かけているのと同じぐらいの気軽さでね」


 水蛇の一族のものたちにとっては物質界に出かけていくことは、別の意味も持つのだそうだ。

 水蛇にとって自分自身を物質として"こごらせる"ことと物質界の中での魔力を安定させることは、魔力及び霊力を強化するためのよい訓練となるのだという。

 いまもまだその名残が伝統として残っているのは、それだけ物質界が水蛇の成長に影響を与えてきたためでもある。

 とはいえ全ての通路が閉じられてしまった現在は、人間界で一定の時間を過ごす習慣は将来族長となる水蛇に与えられた特権として残っているだけだ。いまでは魔力の弱い水蛇が物質界に跳ぶことはない。人間の世界で何か予期せぬ困ったことが起こったとしても、昔とは違い"転移"によってしか精霊界に戻ってくることができないからだ。


「水蛇同士連れだって行くこともあったが、あたしはよく人魚のアウローラを誘って行ったもんさ。人魚の一族はあたしらよりうんと長命だが、その分新しい一族が生まれてくるのは稀だったからね。アウローラには同じ年頃の同族の娘はいなかった。1人だったんだ」


 そこでおばあちゃんはくしゃりと笑った。


「アウローラが一緒だと、人間の若者に声をかけられることが多かったねえ。大体の人魚に漏れず、アウローラもすこぶる別嬪さんだったからね。それでもあたしらが精霊の現身うつしみだと知ったとたん大抵の人間は怖気づいたものだったが、1人だけ物おじしない若者がいてね。その男がアウローラの心を射止めたんだ」


 目を丸くするルビーにおばあちゃんは、300年前に長老が人間の男と結婚して、人間の世界に移り住んでいだことを話してくれた。

 彼女は強い霊力を持っていたが、関わる人々にさまざまな影響を与えることを防ぐために、自らの能力を封じ、普通の人間の娘になったのだという。


「そんなことができるの?」

 ルビーの質問に、おばあちゃんは頷いた。

「アウローラの魔法は、伴侶が生きている間だけ効力の続くものだった。アウローラは強大な魔力の持ち主だったから、自分にかけた魔法も強大だった。ていうか魔法がかかりすぎちまってね。彼女は伴侶とともに過ごす60余年の間、自分自身が人魚だってことをすっかり忘れちまってたよ。あたしは幼なじみとして人間の姿でときどき訪ねて行ったんだがね、そりゃ、それなりの気苦労もあっただろうが、ずっとしあわせそうだったよ。息子が生まれてね。子どもが成長して巣立つのを見守って、そのあとは連れ合いと2人で穏やかに暮らしていたさ」


「もしかして──」

 湧き起こる疑問をルビーは口にする。

「その人って、ブリュー侯爵家の先祖だったりするの?」

 ハマースタインの奥さまの屋敷で、ジゼルさまの口を通して人魚の長老は話しかけてきた。あれは奥さまの直系の祖先に長老がつながっていたためではないかと、ルビーは改めて思ったのだ。


「いいや」

 おばあちゃんはなぜだか少し顔をしかめて首を振った。

「違う。アウローラの伴侶は王侯貴族でも術師の家系でもなかった。だからこそなお、相手の人間が精霊の力を頼みにしすぎることのないよう、アウローラは自ら力を封じたんだ。およそ60年連れ添った男が年老いて常世の国に旅立ったとき、ともに年老いていたはずの彼女は一気に若返り──本来の姿を取り戻したんだ。あのときもあたしは様子を見に訪ねていったんだが、いきなり蘇ってきた人魚の記憶を持てあまして、彼女が呆然としていたのを今でも思い出すよ」


 おばあちゃんは友の昔の姿を思ってか一瞬目を細めたように見えたが、再び真剣な顔をルビーに向けた。


「問題はここからでね。アウローラが人間の女として物質界でひっそりと暮らしている間に、すべての人魚が精霊界から忽然と姿を消してしまっていたんだ。人魚の一族のいた海洋世界と、あたしたち水蛇のいる大河世界は隣り合ってはいるが別の領域だ。だからアウローラのいない間に海洋世界で起こっていることに、あたしは気づけずにいた。記憶を取り戻したアウローラに連れられて久しぶりに訪ねた海洋世界にはどうしてか1人の人魚の姿もなかった。それどころか、人魚の住んでいた領域ごと消えてしまっていてね。せめて住んでいた場所や持ち物が残されていれば、アウローラは過去視の魔法で捜すこともできただろうがね。手がかりが何もなかったんだ。仕方ないので海洋世界に住む他の種族にも聞いてみたが、だれもが心当たりがないという。

 そこであたしたちは精霊界の深奥へと向かい太陽の賢者さま方を訪ねたんだ。人魚に起こったことを遠見された方がおいでかもしれないと思ってね」


「人魚がどこへ消えたのか、わかったの?」

「ああ。結論からいうと、人間の世界の強い魔力を欲するものに囚われて閉じ込められていたんだ。駄目だね……年を取ると、話が無駄に長くなっていけないねえ」

 ルビーの質問に、おばあちゃんは少し苦笑して答えた。


「とはいえ捜しまわってやっとその事実を突きとめたのはずいぶん時が流れてからになってしまったんだ。相手は特別に強い魔力を持つ人間で、結界を張って起こったことを覆い隠してしまう能力に長けていた。それがさっきあんたが口にしたブリュー侯爵家の祖先だったんだ。カルナーナに制圧されその臣下として下ったアズラール王家の末裔でね、奪われた王国を取り戻すためにさらに強い力を欲し、そのための生贄として人魚の肉を必要としたんだ。そしてその協力者が、彼に恋した1人の人魚だった」

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