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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[六] アンクレットと人魚の涙
86/110

86 過去を垣間見る

「ところで」

 若者は、周囲を見回して、太った男に尋ねる。

「緑樹の王はいま、この島にいらっしゃらないのですか? 一足先にお目にかかれるやもと思いつつ参じたのですが」

「緑樹どのはこの島からしばしばカルナーナ本土へ足を運ばれる。普通ならさほどときを置くことなく島にお戻りになるが、あるいはきょうは戻られぬかもしれん」

 若者は、いぶかしげに太った男を見やる。

「きょうがちょうど新月になるからな」

 太った男は空を仰いだ。

「日づけが変わるころには、緑樹さまは島にお戻りになるだろうよ。塔を囲む結界がたわんで緩み、いまにも崩壊しそうな状況であるからな。だが、塔に巣食う魔もさすがにいまはおとなしくしておるわ」


「あれは哀れな生き物です。長いときの間に乾き果て、骨さえも残らぬあの状態では、既に生き物ともいえませんが」

「師の記憶を継がれたなら、グレイハートどのはあのものの瘴気が空を覆う暗き時代を目の当たりにしてきたことになるのだね」

「普段は記憶は封じておりますよ。わたくしが受け取ったのは、何代にも渡る人生の膨大な経験の集積です。若輩者の器ゆえ、自分の内側にそのまま解放すると意識に混乱をきたします」


「何を言われる、賢者どの」

 太った男は苦笑した。

「記憶を受け止められる器なくして師がその名を継がせるわけがあるまい」

「それはどうでしょう。わたくしのもう1人の兄弟子は、我欲に引きずられ、魔に堕ちました。襲名はまだでありましたが、記憶の受け渡しは既に行っており、実質的にほとんど後を継ぐことが決まっていた状態でした。そののち師はまた一から弟子を取り直さねばならず、老いてなおグレイハートの名を返上し休むことが許されませんでした」


「師は弟子に恵まれなかったのだな。わしといい、わしの次の2番弟子といい、難儀なことだ。いや、おぬしを得たわけだから、最終的には恵まれたともいえるが」

「恐れ入ります」

「ときに、その魔と化した2番目の兄弟子を退治されたのもおぬしだったのだな。その顔の傷はそのときのものか?」

 若者は頷いた。

「魔に食われた痕ゆえ、治癒いたしません。見苦しい有様で申し訳ない」


「魔を討ち取ったのならば、抉り取られた皮と肉は戻ってこよう。身の内に戻せばよかったのではなかったか?」

 今度は若者はかぶりを振った。

「一度は魔に食われ同化したものを自分の血肉として戻すのは、危険を伴います。通常の状態であればさしたる影響はないのですが、いまは変動の時代ゆえ、用心するに越したことはありません。また、いまのこの身はアララーク元首に仕える身。どこでどんな影響を受けることになるともわかりませんので」


「ふむ。そういうものかな」

「アララーク王アルベルト・ウォルフ・メーレンは復讐心に囚われています。元来は聡明な方なのですが、いまのあの方は大局を見渡す目をお持ちではない」

「グレイハートどのは大局を見渡さぬ王に仕えるのか。やはり難儀なことだな。記憶とともに師の受難癖も受け継いだか」

 若者はそれには答えず、曖昧に微笑した。

 太った男は肩をすくめる。


「まあ復讐心というやつは総じてやっかいなものだ。わしも身に覚えがあるから、わからんでもない」

「カルロさまがですか?」

「聞いておらんのか? あるいは師の記憶を辿らなかったのか?」

 そう聞かれて、グレイハートと呼ばれる男はうっすらと微笑した。

「まだ存命の方の直接の記憶を紐解くのは禁じられておりますゆえ」


「わしが賢人より破門を言い渡されたのは、その復讐のためよ。いや、そもそも術を極め賢者への道を望んだのは、復讐のためだったのだ」

「あなたのような方が、不毛な復讐に身をやつしたことがあるとおっしゃるのですか?」

「いかにも。それもカルナーナの新政府に対してな。わしがグレイハートに弟子入りした当初は、初代首相ルミノッソの殺害を密かに誓っておったのだ」

 驚いた表情の若者を見やり、太った男はため息をついた。

「かつてのわしの復讐譚を聞かせてさしあげてもよいが、その前にまず、賢者どのの用件とやらを伺ってもよろしいかな」


 2人の会話を聞きながら、内心カナリーは目を丸くしていた。

 緑樹の王。グレイハート。弟子。破門。

 女将の宿の地下牢で、あの光る奔流にのみ込まれる前、マリアに向けて悪態をついていた女将が、ちょうどそれらの名を口にしていた。


 だったらこの人たちは女将のいうように、マリアの仲間ということなんだろうか?

 一瞬、声をかけてみようかとも考えたが、すぐに思い直した。

 隣でモナが、カナリーの腕につかまったまま小刻みに震えていたからだ。

 モナが怖がるのは無理もない。白髪の若者は魔を退治したといっていた。白蛇の女の子なんて一見して悪い魔物にしか見えないではないか。もし見つかったら、その場で退治されてしまうかもしれない。

 そして、魔物と一緒にいるカナリーも、魔物の仲間と間違えられて殺されてしまうかもしれない。


 でも、目の前のこの太った男が、本当にあの(・・)カルロ首相なんだろうか?

 ここにいるのはどうもニセモノ臭い、と、カナリーは疑いのまなざしを向ける。

 だって太った男は本当に適当な、その辺にいる町の人の服装をしている。靴は光沢の全くないただのなめし革だし、ベルトもしていない。

 これまで本物の首相を見たことのないカナリーだったが、いくらなんでももう少し偉い人に見えるはずだと思う。

 見世物一座の座長や楽団の団長の方が、まだしも立派な身なりをしている。

 奴隷のハルでさえ、もう少し小ざっぱりとした服装をしていた気がする。


 それでも太った男の口からカルナーナという言葉が出てきて、内心カナリーは安堵していた。

 どうやらここが、カナリーの馴染みのある世界であることには、少なくとも間違いないらしい。



「ああ、そうでした」

 と、痩身の若者は、太った男に頷いた。

「これをお納めください、カルロさま」

 黒衣の下から若者は小さな袋を取り出して、太った男に手渡した。

 太った男は手渡された袋の中から丸い何かを取り出した。

 黒い石でできたバングルだった。模様も何もないつるんとしたシンプルなデザインのものだ。


「これは──」

 太った男はバングルを持ち上げ、陽にかざして透かし見る。

「賢者どのがおつくりになったものかな?」

「はい。かつてわたくしが魔具づくりを生業なりわいとしていた時代に」

「封魔に使われたものだね。この色は、封じてあった魔の影響のようだ。もとの色は半透明の乳白色といったところか」


「あす、人魚の少女が1人、この島を訪ねてきます。亡き人魚たちの涙を携えて、運命の扉を再び開くために。亡き人魚たちが少女の内側に宿り続ける限り、ここで追い払ってもその少女はまたカルナーナの土を踏もうとするでしょう。ならば受け入れたほうがよいかと思われます。その代償として、頼りない守りではありますが、これをお使いいただけたらと思うのです」


「人魚の魔力をこれで封じよと、グレイハートどのは言われるか」

 太った男の問いかけに、白髪の賢者は今度は答えない。黙ったまま、ただ見返しただけだった。

「だが見たところこれは、単なる魔を封ずる用途のものではないね」

 その言葉には、賢者グレイハートは無言で頷いた。


「複雑すぎて読み取れぬ。すべての魔力が調和へ向かう力の編み方をされているのかね? しかしこの禍々しい色は……ずいぶんと強大な魔が、これに囚われておったのだな」

 太った男はやや難しい顔になって、バングルに見入る。

「魔は──2番目の兄弟子だったものか? しかしこれが封じていたものは、まるで形を為さぬ瘴気の塊であったようだな。あの塔に閉じ込められているものにも似て。これが瘴気の塊となった存在をも封じ込めるものならば、いっそ塔の中のあれも──」

 そう言って太った男は、再び蔦の蔓延る崩れそうな塔を見やる。


「既に生き物の姿をしていないものに、この魔具を差し出すことはできません」

 グレイハートは静かに首を振る。

「これはわたくしの兄弟子がまだ人の姿をしていたころに施されたものです。そののちわずか数年で彼は人の姿を手放し、変化してしまいました。あなたのおっしゃる瘴気の塊のようなものに。そして、そののちも抜けない棘のように、内側にこの魔具を抱え込んだままでありました。これの助けを得てわたくしは、彼にとどめを差すことと相成りました」


「人が魔に変わるという事象は、実に無残なものなのだな。グレイハートどのは、それを目の当たりにしてきたということか」

 太った男は、塔から賢者へと視線を戻した。

 若者は太った男の問いかけには答えず、ただ頷いた。

 太った男は黒いバングルをなおも日にかざしながら、考え込む口ぶりで、

「ひょっとしてグレイハートどのはこれを、魔を封じ込めるというよりも、人が魔と変化するのを押しとどめる目的で施されたのではないか? このようなものを人でなく人魚に与えるのは、無駄とはいえまいか?」

「それはどういう意味でしょう?」

「賢人グレイハートどの。人の国は人のためのものだ。人のつくる道具も人のためのものだ。海の魔物がいずれ人にあだなすというのなら、その前に退治すればよい」

「人魚は魔物ではありません」

「霊力の源から遮断され、彷徨うばかりの精霊は、いずれ魂を浸蝕され魔と化すよりほかになかろう」

「この国の国土には幾人もの人魚の涙が浸みこんでいます。わたくしは人魚にかつての悲劇を繰り返してほしくないのです」


 太った男はにやりとした。崩れそうな塔に目をやりながら、確信的な口調で言い切った。

「ではやはり賢者どのは、人魚のなれの果てだといわれているあのものの、かつての生きた姿を見てきたというわけだ。一世紀近くも前の暗き時代の記憶を、実際にお持ちなのだな?」


 白い髪の若者はその質問には、そうだとも違うとも言わない。

 代わりに短くこう答えただけだった。

「そもそも、あす、この島を訪ねてくる人魚の少女をその場で手に掛けることは、緑樹さまがお許しになりますまい」

「ふむ、それは道理ではあるな。しかし──」

 と、太った男は再びバングルに視線を移す。

「これをつけてなお、2番目の弟子が魔と化したのであれば、起こるべくして起こることを止めることはできないということにはならないかな?」


「あるいはそうかもしれません」

 若者は頭を下げた。

「最終的にはカルロさまのご判断にお任せします。これをお持ちいただいて、あす、改めてご判断いただけたらと」

「承知した。ひとまずこれは預からせていただこう」

 太った男はバングルを小袋にしまい込んだ。

「それにしても、グレイハートどのは予言もなさるか。過去だけではなく未来も見渡す力をお持ちか?」


 白髪の賢者は、しばらく何かを言い淀むように黙っていたが、やがて顔を上げた。

「予言自体はわたくしではなく、わたくしの妹のものです。アララークを出航する前に、思い詰めた顔をして告げてきました。妹はまだ9歳なのですが、このところ、とりとめもなくいろいろなものが視えて、難儀をしております」

「なんと賢者どのばかりでなく、その妹御いもうとごにも能力の顕現が。ひょっとすると御兄妹の血筋は……」

「カルロさま」

 若者は、太った男の言葉を遮った。

「どうぞそのお言葉は、あなたの胸の内にとどめ置きください。かの国はもうないのです。わたくしどもは小国オルアスター出身の市井の人間として暮らしておりますゆえ」

「賢者どの。差し出がましいと思われるやもしれんが、妹御いもうとごはアララークを出て、だれかに師事したほうがよくはないか?」

「妹はいまの場所を出て、よそに移ることを望まないでしょう。もし望んだとしても、恐らく我が主君はそれをお許しになりません」

「元首どのは、妹御のことを?」

「まだ──話しておりません。遠からず、話さずばなりますまいが」


「アララーク連邦国家元首は、賢人グレイハートを手に入れ、緑樹の王を手に入れ、そして予言の巫女姫を手に入れられるか。かのお方は、運命の神に愛されているのやもしれんな。これはあす相見あいまみえるのが楽しみになってきたわ」

 太った男は獰猛な笑顔になる。

 カナリーの隣で、白蛇の少女がぶるりと身震いした。


「元首は、緑樹さまをアララークに連れ帰るおつもりですが、そうするとカルナーナとしてはお困りなのでは?」

「あの魔物をこのままにしておくことはできんな。だが、優れた結界師に1人、心当たりがある。そのものに対応させるから、この島についての心配はいらん」

 今度はカナリーが身震いする番だった。結界師と聞いて、さっきの女将を思いだしたからだ。やっぱりこの男たちがマリアの仲間だとは限らない。さっき出て行くかわりに、隠れたままでいるのが正解だったかもしれない。


「カルロさまは元首にお会いになられたことが?」

「公式には何度か謁見を許されたことがあるが、さして言葉を交わしたことはない。これまで重要な取り決めは外交官を介してきた。カルナーナにお越しいただくのも、個人的に案内するのも初めてのことだ」

「カルロさまは、我が主君にお会いになることが、本気で楽しみでいらっしゃるのですか?」

 若者は、少々呆れた口調になる。

「カルナーナのいまの状況というのは、カルロさまにとって不本意な状況ではないのですか? 恐れながらカルナーナは連合国の一地方として、3年前の講和条約によりアララーク連邦の中に組み込まれてからずっと、少なからぬ税を本国に納めておられるのでしょう?」


「賢者どのがアララーク陣営だから申すのでないが、現状に文句はない。自治も認められておるし、国民に徴兵も課せられておらん。民に類が及ぶことがなければ問題はなかろう。今後も独自の経済活動を認めてくださるのであれば、カルナーナはアララークに不利益はもたらさぬ。元首閣下にも納得いただけていると考えておる」


 太った男はゆったりと笑う。

「賢者どのは元首閣下を大局を見渡さぬ、と評されておったが、少なくとも対カルナーナにおける本国政府の方針については、わしは感謝とともに評価を惜しまぬよ」


 賢者グレイハートは、物憂げな顔になった。

「我が主君が連邦全体の益となる道を迷いなく選ばれたのであれば、それは、かの国が滅びた顛末にカルナーナが一切かかわっていなかったからでしょう。カルナーナにとっては──そしてアララークにとっても──幸運なことに」

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