85 過去へ跳ぶ
「ちょっとあんたモナっていった? 傍に寄らないでよ。もう少し離れてってば!」
小さな舟の上でカナリーは後ずさりながら、白蛇の少女を舳先へ向けて追い立てた。
「駄目だよカナリー、そんな端っこに行っちゃ。舟が転覆してしまうよ」
「だったらもう少しその気味の悪い蛇の尻尾を向こうに引っ込めてよ」
「えー、舟が狭いからそれは無理じゃないかなあ」
白蛇の少女はとろくさい性格なのか、妙にゆっくりとした口調でしゃべる。大蛇の尻尾はカナリーにはひどく気味悪く感じられたが、顔は普通だ。どちらかというと平凡だが、目のあたりが可愛らしいといえなくもない。
それでも少なくとも、あまり傍にくっついていたい相手とも思えない。
「モナ、あんた泳げるんでしょ。だったらずうずうしく舟に乗ってこないで外で泳いでたらいいじゃない」
「それがねえ、川の表面にずっと浮かんでるのって結構疲れるんだよ。力抜いてると自然に沈んじゃうの。ほら、あたしたち、普段は水の底に住んでるからねえ。潜って街に戻ってもいいなら舟から降りるけどねえ」
「それは駄目。こんなわけのわからないところで1人にされたらあたし、どうしていいかわかんないわ」
「ここは、わけのわからないとこなんかじゃないよ。竜王さまの川の、水蛇の都の上なんだよ」
「そんな国、見たことも聞いたこともないから」
マリアもロビンも、目の前にいるモナという子のほかに2人いた蛇女に連れられて、水の底に潜って行ってしまった。
用事があるのだという。
カナリーも一緒についてくるように言われたが、水に潜るのなんか無理だ。さっきだって危うく溺れるところだったのだ。
さっきは死んだ女の子に水中に引っ張り込まれかけて、すごく怖い思いをした。
あの子はもういないから心配要らない。さっきマリアはそう言ったけれども、いつまた舟の舳先から、あのざんばら髪の恐ろしい顔がぬっと覗くんじゃないかと思うと、恐怖でいまも身が竦む。
気味の悪い蛇女でも、だれも傍にいないよりはまだマシだった。
そんなカナリーの内心を見透かしたのか、にこりと笑ってモナは言った。
「馴染みのない場所に1人でいるよりか、あたしみたいなのでも一緒の方がいいでしょ?」
蛇女たちには長老というものがいるらしく、マリアはその人に伝えなければならないことがあるのだと言っていた。
ロビンは舟に残っていてくれると思っていたのに、マリアについていってしまった。
1人で舟に残るのは嫌だと訴えたら、目の前の女の子が自分から残ると言ってくれたのだった。
「カナリーは人間の国から来たんでしょ? それってどんなところなの?」
モナは再び身を乗り出して聞いてきた。カナリーに離れろと言われたことは、ちっとも応えていないらしい。
「あたしたち本当は、人間の国に行って、少しだけそこで暮らせるはずだったんだけどねえ。なんか、中止になりそうなんだよねえ。楽しみにしてたんだけどなあ」
「そんな半分蛇の姿じゃどこに行ったって暮らせやしないわ。あたしが前いた見世物小屋だったら別だけど」
モナは目をきらきらさせてカナリーを見た。
「見世物小屋? それってどんなところ?」
「見世物小屋を知らないの?」
「知らない。何をするところなの?」
「だから見世物よ」
見世物小屋とは変わった姿や芸を見せて、見物人や観客からお金を取る場所だ。
カナリーはそう説明しようとしたが、うまくいかなかった。
「見物人って? お金ってなあに?」
「お金は物を買うためのものよ」
「買う? 何かをもらうこと?」
半分蛇の少女は、きょとんとした顔で、首を傾ける。
「モナはお金を知らないの?」
「知らない。カナリーの国では、何かをもらうためにお金がいるの?」
「何よ。マナのいるところでは、お金を払わなくても物がもらえるの? 食べ物は? 服とかどうしてるの? あっ、服は要らないみたいだけど」
カナリーはモナを頭のてっぺんから蛇の尻尾の先までじろじろと見た。
「でもほら、あんたのその首にかかっているペンダントとか。そんなものってただでもらえるわけじゃないでしょ?」
モナはなおもきょとんとした顔のままだった。
「これはマナにもらったの。旅のおみやげだって」
「だってそれ、金細工でしょ? あんたはただでもらったのかもしれないけど、そのマナって子は旅先でだれかから買ったんじゃないの?」
「マナはこういうものをつくれるんだよ。どこかの渓流で集めた砂金でつくったっていってたよ」
「あんたって何も知らないのね」
そう、カナリーは肩をそびやかした。
「そういうものをつくるのには道具がいるのよ。旅先で1人で簡単につくれるようなものじゃないわ」
「そういわれてもねえ……マナは本当につくるんだよ」
モナは困った顔をした。
「カナリーの腕のその翡翠のバングルもねえ、こちらの精霊がつくったものだよ。道具とかは使ってないと思うんだよねえ」
「なによこれ!」
カナリーは驚いて声を上げた。
いつの間にか左の腕に、緑の石の装身具が嵌っている。
「綺麗な薄緑色だねえ。ああ、それ、お守りだから外さない方がいいんじゃないかなあ」
「外れないわ。これどうやって嵌めたの?」
小さな蛇の形を模して、腕の周りを3周ほども回っている細い石の細工だった。尻尾のあたりの最後のひと巻きが、手首の一番細い部分を囲んでいて、腕から外れないようになっている。
カナリーは手首から外そうとして動かしてみたが、やがてあきらめた。ものすごく痩せて箱女ぐらいにならないと、きっと無理だ。
それにとても綺麗な石だった。ごく薄いグラデーションになっていて、つやつやとした繊細な光沢を帯びている。
「それはねえ、緑樹さまが施されたんだ。こちらの世界でカナリーを守ってくれるようにっていう緑樹さまの御言葉が刻んであるよ」
「緑樹さまって、マリアのこと? なんであの子、そんな呼ばれ方をしているの?」
マリアは人魚だったロビンと違って、どこから見ても人間なのに。だが、やることなすこと人間離れしていることは確かだった。
「緑樹さまは、緑樹さまだからそう呼ぶんだよ」
モナはますます困った顔をした。
「緑樹さまのような精霊は、根源につながる御力を、あたしたちに分けてくださるの。だからあたしたちの住む川も、空も、風も、土も、いつでも力に満ちていて、あたしたちは魔力をたくさん使っても、壊れる心配をしなくていいんだよ」
モナの言っていることはちんぷんかんぷんだ。今度はカナリーがいろいろと聞き返さなければならなかった。
「緑樹さまっていうのは精霊なの? マリアは人間に見えるけど人間とどう違うのよ。御力って何? 魔力を使うと壊れるってどういうこと?」
「んー、あたしにはうまく説明できない」
モナは首をひねりながら、
「世界にはあちこちに道が走ってて、魔力を使うとその道が曲がるから、それが壊れるってことなんだって。御力はそれを修復して新しい道を紡ぐことのできる力なんだって」
「ふうん。よくわかんないけど、まあいいわ。魔法なんてあたしには関係ないし。じゃあモナ、あんたも魔法が使えるの?」
「それがねえ、あたしはどんな魔法も、まだ一度も成功したことがないんだよ」
「なんだ、そうなの。だったらあんたにも魔力っていうのがないってことでしょ」
「そうだねえ。あたしには魔力がないのかもしれないねえ。おばあちゃんは、あたしはどっちかっていうと魔力は強い方だっていうんだけどねえ」
モナはそう言って、また首をひねった。
「おばあちゃんは、あたしには転移の魔法が使えるはずだっていうんだけどねえ」
「転移の魔法って何?」
「時間や空間を超えて、別のときや場所に跳ぶ魔法のことだよ」
「別の場所にって、どこにでも? 遠く離れてても?」
「距離とかあんまり関係ないって聞いたねえ」
「どうやってやるの? ちょっとやって見せてよ」
「やってみてもいいけどねえ。うんと近くでも、あたしは成功したことがないんだよねえ」
「あたし、アートのところに行きたいの。ロビンはあたしを置き去りにして勝手にどこかに行っちゃうし、こんなわけのわからないところにいつまでもいるのは嫌」
「わけのわからないところじゃないんだけどねえ。ねえ、アートってだあれ?」
「見世物小屋にいた男の人よ。あたしの好きな人なの」
「カナリーの好きな人? ハンサムなの?」
モナは身を乗り出して聞き返してきた。
「もちろんよ。とっても素敵な人」
「へえ、いいなあ。あたしも会ってみたい」
「駄目よ、あんたなんか、半分蛇なんだから」
「半分蛇の女の子のことは、アートは嫌いかなあ?」
「あっ、当たり前でしょ。そんな変な姿、アートが気に入るわけないじゃない」
とっさに大声でそう返したカナリーだったが、本当のところ、半分蛇でもアートは気にしないような気がした。実際彼は、半分魚の女の子が気になって仕方がないぐらいだったのだ。
カナリーの返事にモナは少ししゅんとなったが、小さく「いいなあ」とつぶやいた。
「いいなあ、カナリーは好きな人がいて。そんなに可愛くて、髪もすごく綺麗な金色だし」
──片思いだけど。
苦みを伴うその言葉を、カナリーは口の中で飲み込んだ。
「モナのその髪の色も、悪くないと思うわ」
「そうかなあ。あたし、この髪の色が嫌いなんだ」
モナの返事は少々元気がない。
「こんな薄い水色じゃなくて、マナのようなちゃんとした綺麗な青か、ミナのような深緑がよかったなあ」
「あたしはそんな青や深緑なんかより、あんたの髪の色の方が全然いいと思うけど」
「そうかなあ。ありがと、カナリー」
少女は幼い笑顔をカナリーに向けた。
「じゃ、転移の魔法、やってみるから、転移先のアートのいる場所をもう少し詳しく教えて」
「南の海よ」
「南ってなあに? カナリーのいた人間の国のこと?」
「南は方角よ。知らないの? 暖かい風が吹いてくる方よ」
マナはやはり首をかしげる。
「上とか下とかそんな方向のこと? もっとはっきり場所が分かった方がいいから、カナリーのいた人間の国の名前を教えてくれるかなあ?」
「カルナーナよ。南部の新都の港から、南の海に向けて船で出航したばかりなの」
「カルナーナの南の海だね。でも、カナリーは泳げないんだよね。一番近いところで、泳がなくてもいい場所がいいよね。いまからイメージするから手をつないで」
モナが指を伸ばして来て、内心カナリーは少したじろいだ。でも、思い切って手をつなぐ。3人の蛇女の中ではモナの肌の色が一番白く、人間の肌の色に近い。腕だけを見ている限り、さほど気持ち悪くもない。
何も起こらない? やっぱりこの子にはそんな魔法なんてものは使えないんだ。
そう思ったのは一瞬だけだった。突然ゴオッと耳元で風が唸った。
空が消え小舟が消え波も風も消えて、何もない真っ黒な空間に放り出されたと思ったのが次の一瞬。
暗闇の中、カナリーの左腕に巻きついた石細工の蛇だけが、淡い緑色に光り始めた。光はあっという間に強くなり、白熱したその輝きでカナリーとモナを包み込んだ。
さらにその次の瞬間、カナリーとモナは手をつないだまま、勢いよく伸びた背の高い緑の草に囲まれていた。むっとする草いきれのにおい。夏を思い起こさせる熱い空気。じりじりと焼けつくような日差し。
生い茂る草に隠れた足元には、崩れた石の欠片が半ば埋まっている。
そこはまるで廃墟のような場所だった。
腕のバングルの光はすうっと薄れ、涼しげな緑色の普通の石に戻る。
「あれっ?」
モナはカナリーからバッと手を放し、きょろきょろとあたりを見回した。
「どうしよう。成功しちゃった」
「どうしようって、ここどこよ?」
「どこって、カナリーの言ったカルナーナの南の海だと思う……多分……」
あたりを見回しながら、自信なさげにモナはそう答える。
「南の海って、海じゃないじゃない。ここにあるのは地面だわ」
「でもほんとに、カナリーの言ってた場所のどこかだと思うんだよねえ。海の水の中じゃ、カナリー溺れちゃうでしょ?」
「水の中に連れて行けなんて言ってないわよ。船の上よ。アートの乗ってる船の上に行きたいの」
「船の上は無理だよ。船は移動するし、たくさんの人が乗ってるんでしょ? そういう場所は気が乱れてるし、空間同士をつなぐ”場”が開かないんだ」
「で、ここどこよ?」
「んー、どっかの島かなあ?」
一度身を起しかけたモナだったが、ぶるっと震えて小声になった。
「あっち。あれ……怖いよ。カナリー」
モナが指差す方向に、古い塔がそびえ立っているのが見えた。
石でできた塔はひどく古びて一面に蔦がはびこり、今にも崩れ落ちそうに見える。
「あそこに怖いものがいる。どうしようカナリー。あたしたち、あまりよくない場所に転移してきちゃったみたいだ」
「ほんとに何やってんのよモナ。あんたってすごく鈍臭いのね」
さっさとあたしをつれて、船の上に移動しなさいよ。そう怒鳴ろうと思ったカナリーの口に、突然モナの手のひらが伸びてきた。
「しっ」
もう片方の手をモナは自分の唇に当てて見せる。
「だれか来るよ。怖い人かも。隠れていよう」
モナがそう言った途端、自分たちの姿は高い草の間で透明に変わる。
モナは続けて姿消しの術を使ったらしかった。
カナリーは少し前に、一度マリアに同じ術をかけられたことがある。だから突然自分の姿が見えなくなっても驚いたりしない。落ち着いて周囲を見回すことができた。
塔の向こう側の小道から男が2人、大股で歩いて近づいて来ていた。
1人はでっぷりと太った男。もう1人は細身で小柄な男。
太った男は歳の頃は40歳前後。カルナーナの街の男がよく来ている草木染めの麻の作業着に身を包み、ふさふさとした茶色い髪をしている。
小柄な男は黒くて長いローブに身を包んだ特異な服装をしていたが、もっと目を引くのはその顔と頭だった。顔つきは若いのに頭髪が真っ白だ。そして顔の中央には、斜めに大きな傷跡が走る。
人間だ。
カナリーは思わず立ち上がって駆け寄りそうになったが、すんでのところで思いとどまった。
モナが怖い人かもしれないと言っていた。実際、人間の中には怖い人というのはいるのだ。副座長や宿の女将や娼館の支配人のような。
先頭を歩いていた若い方の男が立ち止まり、振り返って、口を開いた。
「兄弟子さま。お呼び立てしてしまい、申し訳ありません」
「カルロでよいよ。グレイハートどの。わしはかつて師から破門を宣告された身だ。おぬしに兄弟子と呼ばれるのは面映ゆい」
「いえ、わが師と袂を分かたれたあとのご活躍については、師からもいろいろと聞き及んでおります。ですが、ご希望に沿ってカルロさまと呼ばせていただきましょう。カルロさま、お呼び立てしたのはほかでもない、折り入ってのお願いがあるからです。
あすもう一度、わたくしはアララーク元首につき従ってこの島を訪れますが、そのときは込み入った話をする時間は取れないだろうと思います。まだ起こっていない出来事に対してのお願いをするのは少々気が引けるのですが」
「それは、あす起こるはずの出来事についての話になるのだな」
太った男の問いかけに、白い髪の若者は頷いた。
※袂を分かつ という言葉があるのですが、袂を分かった、と過去形にするのはなんか不自然な気もします。それをさらに「~された」(尊敬語っぽい口語?)にして「袂を分かたれた」。さらに不自然な気がします。でも使いました。やっぱりどっか変だなと思いながら。
しっくりくる言い換えが思い浮かぶといいのですが。




