84 水蛇族のしきたり
編み上げの靴を脱いで見せたルビーの左の素足に、水蛇の少女たちの目は吸い寄せられた。
「野いちごの髪の女の子、あなたが人魚だったら、ほんとうに完璧な変身なんだねえ」
ほう、とため息をつきながら、モナが感想を漏らす。
「ミナもマナも大体完璧なんだけど、時々足に鱗の模様が浮いちゃうんだよ」
「よけいなこと言わないでよ、モナ。あんたなんか一度も変身に成功したことないくせに」
「そうなんだよねえ」
ミナに言われてモナは大きく頷いた。
「あたしもこんな風にうまく変身できるようになるかなあ? 自分で歩いて、陸の野いちごを摘みに行けるようになりたいなあ」
「食いしん坊のモナ。そんなことより守護石でしょ、いまは」
ミナはあきれ顔でモナを見たあと、アンクレットをしげしげ眺める。
「……すごく綺麗な石だわ」
「つるつるだねえ。すごい複雑な魔力が編み込まれているのに、石の表面に全然引っかかりがないのが不思議だねえ」
「外にも零れてないわ。これを身につけていたら、大きな魔法を使ってもうっかり元の姿にもどることがないのね?」
食い入るように見入る水蛇の女の子たちにつられて、ルビーも自分の左足首の赤い石の輪っかに視線を落とした。
ルビーの目にはやはり、綺麗だけれども特に何の変哲もない石の装身具に見える。
けれども水蛇の女の子たちはアンクレットを見るだけで、その中に込められた力がどのような種類のものであるのかを、読み取ることができるらしい。
姿を消す魔法を使うことができないというミナも、人の姿に変身することができないというモナも、見ただけでわかるのは同じらしかった。
そういえばモナはさっき、モリオンに対して言っていた。奥が見えないぐらいまばゆい御力を持っていると。
女の子たちの青い目には、ルビーの周囲のものたちは、どんなふうに映っているんだろう?
そこでルビーは思い出した。さっきの宿の女将のことを。ぐにゃぐにゃの気味の悪い鉄の姿で地下牢に現れた女将は、モリオンを精霊と呼ぶ一方で、ルビーのことは人間の女の子だと思って疑いもしていない様子だった。
彼らはこの目に映るものとは違う何かを見ているのだ。
モリオンもそうだ。さっきモリオンは言っていた。ルビーがアンクレットをしていたおかげで、魔力の流れを辿ってルビーを捜すことができなくなったのだと。
そしてまたルビーの回想は、ハマースタインのお屋敷を襲撃したアントワーヌ・エルミラーレンにも及ぶ。
ルビーはあの王族の末裔の目の前で、人間に”言霊の魔術”とも名づけられている力を振るった。なぜか振るうことができた。それにもかかわらず、単に奥さまの眷族として奥さまの力のおこぼれにあずかったものとして見なされただけだった。
顔を上げるとモリオンと目が合った。
「ええ、そうよ。術師のようにエネルギーの流れを感知するものたちは、それに気をとられてしまうの。だから、あなたがその姿をしていたら、ぱっと見たぐらいではあなたが人間ではないっていう事実には気づけない。うっかり見逃してしまうのよ」
だったら見世物小屋で、あたしが人魚の姿をしていたときは?
ルビーのその問いかけには、モリオンは首を傾げた。
「さあ、偽物の人魚だと思われていたのかしらね。どちらにしても、以前は一切の魔力が使えなかったのなら、そういう魔のものたちの興味は引かなかったと思うわ。でも、いまは違うのでしょう?」
ルビーは頷き、もう一度アンクレットに目をやった。
小舟のすぐ横から、ミナとモナはまだ覗き込んで、「人間ってすごいものをつくれるんだね」とかなんとかわいわい言っている。
水蛇の少女たちに向かってモリオンは、こういうものをつくることのできる人間はごく少数であることを説明した。
「さっきあなたたちはここに来たことのある人間だといって、白い髪の賢者さまの話をしていたでしょう? このアンクレットをつくった人も白い髪で、いまは賢人と呼ばれている人なの。だから同じ人のことかもしれないわ」
少女たちとモリオンのやりとりを黙って聞いていたルビーに、モナが声をかけてきた。
「ねえ、野いちごの女の子。変身を解いて、人魚の姿に戻ってよ。見てみたいな、あなたの本当の姿」
突然のモナの申し出に、ルビーは目をぱちくりさせた。
一方ミナは、少し離れて黙ったままのマナがふと気になったのか、隣を振り返る。
「ねえマナ、さっきからおとなしいけど、どうしたの?」
マナはミナの問いかけに答える代りに、舟にすいと泳ぎ寄った。
「あの……」
口を開きかけたマナは、ためらいがちに俯いて、それから思い切ったようにモリオンを見上げた。
「緑樹さま。聞きたいことがあるの」
振り向いたモリオンに向けて、マナはたたみかけるように、
「あなたが生まれてからのほとんどをあちらの世界で過ごされてきたというのは、本当なんですか? だとしたら、ひょっとしてあなたは、緑樹の王でいらっしゃいますか?」
マナを見るモリオンの口元に、苦笑のようなものが浮かんだ。
「わたしのことを、そう呼ぶ者もいるわね。でも、緑樹には本当は王はいないの。だっていまの精霊界には、王を指名するものがいないのですもの。わたしは緑樹たちの中でただ一人、隠遁者でないというだけのことなのよ。ほかの緑樹の精霊たちは長く生き過ぎて、外の世界と関わることをやめてしまっているのよ」
ミナとモナには、マナの突然の質問の意味がわからなかったらしい。きょとんとした顔で、マナとモリオンを見比べている。
「いまの世に精霊王はいなくとも──」
口を引き結んで真剣な面持ちで見上げていたマナは、やはり真剣な口調で反論した。
「太陽の塔の賢者さま方がいらっしゃいます。緑樹の王。あなたをそう呼ぶのは賢者さま方だから、あなたはやっぱり緑樹の王だと思います」
「あなたは太陽の塔を訪ねていったことがあるのね。では、あなたは次代の水蛇一族の首長となるものなのね」
モリオンの言葉に、マナはこくりと小さく頷いた。
「あたし、ほんとうはミナと同じ頃に生まれているんです。けれどひと夏かけて、太陽の塔まで旅をして戻って来てみたら、水蛇の都では3年ほども月日が流れていました。だからいまではあたしはモナと同い年です。
これからまた、あたしは出かけなきゃなりません。今度は人間の国へ。
あちらの世界へ──物質界へ──下り降りて、しばらく見識を広めるためにあちらで過ごすことになっています。
緑樹の王があちらの世界にお詳しいなら、あなたの考えを教えてください。あちらの世界は、人間たちは、そんなに危険なものなんですか?」
「さっき聞いてほしいといっていたのは、その話?」
マナは小さくかぶりを振った。
「いえ、最初はちょっと違っていたんです。あたしたち、最初は3人で行こうって計画してたから。その相談がしたかったんです」
「よかったら話してくれる?」
マナはモリオンを見上げたあと、ミナとモナに目をやって、それから話し始めた。
水の上に浮かぶ小舟の中に緑樹の精霊を見つけたとき、マナたちが最初に考えたのは、この精霊の口添えをもらえないだろうかということだった。
水底の街の集会場で現在、水蛇の一族の長老たちと、竜族の人たちが揉めている。
話し合いのテーマとなっているのは、マナの物質界への滞在に関するものだった。
水蛇の長になる予定のものは、通例として精霊界を旅したのち、物質界に下ってそのどこかで一定の時間を過ごす。
いまの首長も先代の首長も、代々そうやって世界の成り立ちについて学んできた。
だから水蛇の長老たちは、マナもそうすべきだと思っている。旅立ちのときが近づいてきていた。
物質界へは1人で行くのではなく、アシスト役を2人まで連れて行ってもいいことになっていた。
太陽の塔までの旅は、マナ1人で行って戻ってきた。小さいときからいつも一緒だったミナやモナとの時間軸が、離れていることで、そんなに激しくずれることがあるなんて、思いもせずに。
けれども今回はミナを──もしかしたらモナも──連れて行くことができる。モナの場合はまだ覚えていない幾つかの基本的な魔法が使えるようになったら、という条件つきだけれども。
3人は冒険の時間を目の前に、期待に胸を膨らませていたのだった。
だが、竜族のものたちが突然やってきて、水蛇の伝統ともいえるマナの旅立ちをやめるように言ってきたのだ。
彼らは主張した。外の世界を知らなくとも、水蛇の一族を束ねることはできるはずだ。物質界への旅は必要ない。
対し、水蛇の長老は言い返した。何代にもわたって行われてきた水蛇一族の伝統を曲げることはできない。マナは次世代を担っていくものだ。ミナやモナはともかくとして、少なくとも彼女だけは予定通り旅立たせる。
長老はマナに関してだけは、竜族を相手にしても譲るつもりはない様子だ。しかし、マナと一緒に出かけて体験できるはずのミナとモナの初めての別世界への旅は、このままでは取りやめになりそうな雲行きだった。
ミナやモナにとっても、またマナにとっても、これまで仲良くしてきた相手との年齢に、さらに開きが出てしまうのは寂しい。だからできれば一緒に行きたい。
けれども長老たちは気難しく、マナたちが何か言ったとしても耳を傾けてくれるとは思えなかった。
まして竜族に対し自分たちから何かを主張するというのは、さらに気後れする。
精霊界の、水に属するものたちを統べる”王”の出自は竜族だ。水蛇の一族も川の王の眷族として、代々その霊力の恩恵にあずかってきている。竜族とはいえ王ではない他のものたちが王と同等の権限を持つわけではないが、王と同族のものは通常、精霊としては上位のものとして考えられている。
どうしたものかと考えあぐねて水の面を見上げたら、流れを下ってくる舟が視界に入った。そしてその舟の上に、強大な霊力を持つ緑樹の存在を見つけたというわけだった。
「でも、人間の国にそんな危険があるのなら、やっぱりミナやモナは連れていけないわ。おばあちゃんたちの決めたことだし、あたしはどうあっても行かなきゃいけないけどね」
「ちょっと待ってよマナ。なに勝手に1人で意見変えてるのよ。あたしたち3人一緒でって、さっきみんなで決めたばっかりでしょ? そのために緑樹さまに相談してみようって、それで水の上まで一緒に上がってきたんじゃないの」
「危ないんだったらなおさらだよマナ。危ないところに行くんだったら、マナが1人で行動するより、あたしたち3人で協力し合った方が絶対いいよ。1人で行くなんて反対だよ」
「そうよ。1人で行くなんて言わないで。マナはしっかりしてるようで、どっか抜けたとこがあるんだから。あたしたちがついてなきゃ駄目なんだから」
「太陽の塔にだって1人で行けたんだから問題ないわ。それにおばあちゃんが簡単に意見を変えるわけないし」
「だからよ。だから緑樹さまの口添えをいただこうって話になったんじゃないの」
3人はモリオンそっちのけで言い合いを始めた。ルビーは目を丸くして、水蛇の少女たちの騒がしいやりとりを聞いた。
多分自覚はないのだろうが、だんだん声が大きくなる。さっきの内緒話のつもりの会話が丸聞こえだったのもそのせいだ。
もぞり、と眠るカナリーが身じろぎをした。どうやら目を覚ましそうだ。
「ん……」
金色のまつ毛に縁取られた目がぱちりと開いた。
「……ここ、どこ?」
横になったままカナリーは顔だけ動かして、まずモリオンを、それからルビーを見つけた。
「マリア? ……ロビン?」
舟の横でだれかが言い合いをしているのに気づいたカナリーは身を起こす。そして、思いっ切り大きな金切り声を上げた。
「嫌あああああああっ! 蛇女っ!」
3人の目が一斉に、カナリーの方に向いた。




