82 アンクレットの秘密
※ 81話と82話の区切りを変更しています。重複して読んでいただく部分ができてしまい、すみません。
※ ガールズラブタグを外しました。
泡立ちながら光る水面から、細かい銀色の飛沫がきらきら輝きながら舞い上がり、煙のように浮き上がって風に散っていく。それは一瞬にして姿を消した精霊の、名残であるかのように。
銀色の光は次第に薄れて行き、やがて元のどこまでも綺麗な輝く青に戻っていった。
モリオンは膝をついたまま黙ってそれを見送っていたが、やがて立ち上がり、紺碧の空を見上げた。
カナリーを巻き上げた巨大なつるを動かして、地面にゆっくりと下ろさせる。静かに下がってきたつるから少女を受け取ると、岩の露出していない、目の細かい白い砂の敷き詰められた部分を選んでそっと横たえた。
無言だった。
長い黒髪が白い横顔を覆い、ルビーからはその表情はよく見えない。
ルビーはどう声をかけていいのかわからず、その間ずっと、ただ佇んでいた。
いや、そもそも声が出せないのだから、言葉のかけようはなかったのだけれども。もし声が出せたとしても、ルビーには何をどう言えばいいのかわからなかったのだ。
指の間から零れ落ちるようにさらさらと形を失い、目の前からあっけなく消え去ってしまった川の精霊。言葉もなく、それを茫然と見送ったモリオン。強く、自信に満ちているようにこれまで見えていたモリオンが、いまはやるせない無力感を噛みしめているような気がしてならなかった。
少し前、カナリーが火炎吹きの亡骸を前にして、ルビーに当たり散らしてきたことを思い出す。
いまはあのときよりも少しだけ、カナリーの気持ちがわかる。
きっとどうしようもなかったのだ。どうにもならない出来事に対する、噴き出すような怒り。荒れ狂う感情は、本当はカナリー自身に向かっていたのだろうとも思う。
心をふさぐ出口のないやりきれない想いと向き合うことが、きっとカナリーには辛すぎてできなかったのだ。だからやみくもに、周囲を──気に障ることを言ったルビーを──責めた。
一方目の前のモリオンは、ルビーに当たり散らしてきたりはしない。また、モリオンと川の王がどういった知り合いなのか、ルビーは知らない。けれども半年もかけて探し続けてきた相手が、目の前で消えてしまったのだ。
何かいたたまれない気持ちでモリオンの姿を見つめていたルビーは、ふと疑問に思う。
影──ではない?
いつのまに戻ってきたのか、さっきまで黒曜石のナイフを憑り代とした影だったはずのモリオンが、確かな実体を伴ってそこにいた。
長い黒髪をふわりとなびかせて、モリオンは振り向いた。
「こちら側に引っ張られてしまったの」
ルビーをの疑問に気づいたのだろう。彼女は少し困った顔で口を開いた。いつもと変わらぬ落ち着いた口調だ。
「さっき、川の王が流れに身を投げたとき──彼が翡翠のバングルに姿を変えてしまったときよ」
モリオンは綺麗な石の腕飾りに視線を落として、そうつけ加えた。
引っ張られたってどういうことだろう?
続く言葉をルビーは待ったが、モリオンは話題を変えた。
「すぐ向こうに戻らなくちゃならないわ。さっきロメオとジュリアが、どこか別の場所へ連れ去られたようなの」
はっとルビーは顔を上げる。
ロメオは強い。だが術は使えない。ジュリアも利発な少女だが、魔力とは無縁だ。さっきのような禍々しいものと対峙して、果たして無事でいられるのだろうか?
「アララークには憑り代を置いていなかったから、いまのわたしはすべてが精霊界にだけ存在している。人間界に渡るか分身を飛ばすかしない限り、向こう側で何が起こっているのかをいまは知ることができないの。だから急いで戻るわね」
幾つもの巨大なつるを使って、モリオンは軽くて丈夫な舟をつくった。一切手を使わず、力を使ってあっというまにそれを編み上げた。
眠るカナリーを舟底に運び入れ、モリオンとルビーはカナリーを真ん中にして、向かい合わせになって座った。 光る川の流れに乗って、3人は──うち1人は眠ったまま──出発した。
舟が滑るように動き出してもカナリーは目を覚まさない。舟底で身体を丸め、静かな寝息を立てて眠っている。
さっきまで小さな流れに過ぎなかった川はいつのまにかその幅を広げ、海と見間違うような大きな川に変わっていた。
流れの行く手には、水平線が広がっている。といって、故郷の海のそれと違って丸く盛り上がっているわけではない。どこまでも平らな一本の境界線だ。
流れの左右の遥か遠くには、かろうじて黒っぽい陸地の線が水と空の境界のあたりに細く見える。空気は澄んでいたが、遠すぎてそれがどんな地形なのかはわからない。
ハマースタインの奥さまがつけてくれた家庭教師の話だと、ルビーたちのいる大地は海や山や全てを含め、球の形をしているのだという。だから水平線は円いのだと。
この精霊界の水平線が、まるで上下に世界を二分割するようにまっすぐなのは、こちらの世界が平たいせいなのだろうか?
それともルビーが想像もつかないぐらいこちらの世界の”球”が巨大過ぎるということなのだろうか?。
水平線、そして陸地の線の向こう側は、まばゆい光を湛えた明るい青空。
見上げれば頭上あたりは深い紺碧に沈み込む。そこから水平線の向こうの透き通る青へ向けて、とても綺麗なグラデーションを描く天球。
視界の上半分はぐるりと空だ。
空は光に満ちていたが、太陽はどこにあるんだろう?
あった!
太陽は広がる濃紺の空のまさに真上で輝いている。まばゆく白い。白くて熱い。熱く静かに空全体を光で満たしている。
どうしていままで気づかなかったんだろう?
が、天空から一度意識を逸らした途端、まばゆいばかりに照り輝いていた太陽の光は、紺碧の天空のうしろに隠れて見えなくなる。
もう一度見上げると、再びルビーの目に太陽が姿を現した。
「ルビー」
呼ばれてルビーはモリオンの方を見る。
「太陽が不思議なのはわかるけど、下を見てほしいの」
促されてルビーは舟の縁から水を覗き込む。
小舟の下で波打つ川の水も、太陽に負けないぐらいまばゆい光を放ちながら流れていく。太陽光の反射ではない。それ自体が青い光でできているのだ。
光る水は、ルビーの知っているどんな水よりも軽くて勢いがよい。舟はぐんぐん流される。
この流れに沿って下りゆく先に、モリオンが急いで戻るといった人間界があるのかどうかを、ルビーは知らない。モリオンが精霊界と呼ぶこの不思議な世界のことは、ルビーには自分たちのもといた世界以上に何もわからない。けれども隣で落ち着いた様子で座っているモリオンを見ていると、帰路を探すのは彼女にまかせておけば大丈夫なのだという気持ちになる。
船べりから覗き込む川は透き通っていて、その遥か下に、街のような白い建物の群れが続いている。
よく目を凝らすとところどころ木のようなものも生えている。草原のような場所もある。水の底を、見たこともない四つ足の動物がのそのそ歩いているのも見えた。牛や大型の犬に似ていて、長い水色の毛で全身を覆われた生き物。
ときおり視界を遮るように水の流れを行き来する巨大な魚もまた、ルビーにとって名前も知らない一度も見たこともないものだった。
「あれは水蛇の一族の街よ。水底を歩いているのは水棲の牛」
傍らでモリオンが水色の生き物を指差した。
「水蛇の一族は、人魚とも縁の深い一族なのだそうよ。先代の精霊王が人魚を精霊界から追放したときに、水蛇の巫女が王のもとを訪ねて、人魚の赦しを乞うために王に嘆願したのですって。王は水蛇の願いはしりぞけたけれども、いつか人魚が赦されて精霊界に戻るときのために、鍵となる魔法を、巫女にこっそり授けたのだと言われているわ」
思わぬ場所で聞いた人魚の追放にまつわるエピソードに、ルビーは目を丸くする。
モリオンは少し首を傾げて言い加えた。
「でも、ほかの人魚にこの話をするのは慎重にね。人づてに聞いた話で、噂のようなものだから。北の果てのあの海が生まれ故郷であるあなたと違って、こちらで生まれて追放されたほかの人魚たちは、できるものならばこちらに帰って来たいはずだもの。半端に希望を持たせるのは、残酷だわ」
少し考えて、ルビーは頷いた。
以前モリオンは、ルビーにだけは追放の刻印が刻まれていないのだと言った。ということはルビー以外の人魚──北の海の人魚のお姉さま方──には魂のどこかに烙印が刻まれていて、戻りたくても精霊界に戻ることができないのだ。
お姉さまたちにこの話をするのなら、まず、きちんと裏づけを取った方がいい。
そして、その話が本当なら、水蛇の巫女というのを探し出して、人魚が赦される方法というのが何なのかを教えてもらうのだ。
「水蛇の街に寄って行きたい?」
モリオンにそう聞かれ、ルビーはかぶりを振った。モリオンに急ぐと言われたばかりだし、第一声を出すことのできないいまのルビーでは、単純な質問をすることすら難しい。
「そうね……急ぐともいえるけど、そんなに急がなくても大丈夫ともいえるのよ」
モリオンは少し迷っているような顔で、そんな意味のわからないことを言う。
首を傾げるルビーに、モリオンは説明をくれた。
もといた世界にルビーたちが戻るに当たって、問題が2点ほどあるということだった。
一つ目の問題は、カナリーを無事に連れて向こう側に渡るためには、かなりの制約があるということ。
実のところルビーと2人だけならば、向こうの世界に渡るのは、そんなに難しいことでもないのだという。けれどもいまはカナリーを連れている。
人間界がこちらの世界につながることのできる、間となる領域は、普通の場所ではないことが多い。空気のひどく薄い高い山の頂、湖の底の泥の中、地中深く鉱物の眠る場所、勢いよく流れおちる滝の水の中などの。人間の肉体とは違うものでできているルビーやモリオンは、それらのうちどのルートを通って行き来しても問題はない。
だが、カナリーは違う。深海や湖の底では人間は生きられない。また、空気のあるところならどこでもよいわけでもない。いきなり高い山の頂に放り出されたら、血が沸騰して死んでしまうことさえあるのだそうだ。
また、過酷な場所でなくとも南都からあまりにも遠いところに出てしまうと、そこからさらに移動する必要が出てくる。
こちらに来るために通ってきた道はなくなってしまった。別の道を通らなければならない。
そしてもう一つの問題点。
説明が難しいのだけれど、と前置きをして、モリオンは教えてくれた。こちらの世界では時間の流れが一定していないのだという。
というよりも、精霊界の時間はあるようなないような曖昧なもので、人間界のそれよりも揺らぎが大きい。どこを通って精霊界を進み、どの通路を通って人間界に出るかによって、まただれを伴ってそこを通るかによって、人間界に戻ったときに5分過ぎているか、半日後の世界に出るか、一週間後になってしまっているのかが異なっていたりする。
また例えば、遅れる遅れる間に合わない遅くなりそう、などと考えている人を連れて人間界に戻ると、とんでもない時間が過ぎてしまっているということもあるらしかった。
「ええ、ここではイメージの具現化が起こりやすいの」
モリオンは小さく頷く。
「人間にとっては、この空間に満ちている力はある種、危険なものとなり得るの。人間の世界とエネルギーの作用の仕方がまったく違うから。だから、力の強い術師になればなるほど、自分の力に振り回される危険が増すわ。さっきの女将がここで術を振るおうとしても、自分のフィールドで動くようにはうまくいかないはずよ。いえ、そもそもあんなふうに他人を傷つけて平気な人は、この空間にさらされることそのものが苦痛となるとわたしは思うのだけれど」
他人を傷つける。モリオンのその言葉を耳にして、ルビーの目は自然に、さっき水の中で苦しんでいたカナリーに注がれる。
カナリーは大丈夫なのだろうか?
モリオンのいう危険がなんなのか、ルビーにはわからない。でも、少なくともカナリーは、亡くなったパルマという女の子について自分が傷つけたと感じていたようだった。
「カナリーはあの女将の言葉に踊らされたの。騙されたっていうとちょっと違うかもしれないけれど、騙されてるのよ。言葉でうまく言いくるめられてしまっているの。実際にパルマをひどい目に遭わせたのはカナリーでなくて女将なのに、そのことについて考えられないようにされているのだもの」
モリオンは小さくため息をついた。
「自分のしたことは棚に上げて、人を攻撃することだけがうまい人がいるわ。そういう人は、相手の傷や弱みに巧みにつけ込むの。カナリーは親戚のおじさん──火炎吹き?──を失ったことで、人の死に過敏になっていたわけでしょう? 女将は、この子のそういった不安定な心の状態につけ込んで、だれかの死に加担したという罪悪感を植えつけて、自分に逆らえなくするつもりだったのだわ。それって……すごく卑劣で卑怯で──ほんと気に入らない」
最後のあたりの言葉には、モリオンの、女将に対する嫌悪がにじむ。
なおも不安げなルビーを一瞥し、モリオンはやはり何か迷っているような顔で、カナリーを見やる。カナリーは流される舟の上にいるとも知らず、すやすや眠っている。
と、モリオンは、眠るカナリーの上に屈み込んだ。蛇細工の巻きついている方の腕を、カナリーの腕の横についと差し出す。
「精霊ジェイドの守護石に告げるわ。わたしの声を聞いて、動いて。いまからこの者カナリーの腕を飾るものとして、その魂のゆるぎなき導となるために」
透き通る声が降るとともに、石の蛇はモリオンの腕からするりとほどけ、眠るカナリーの腕に巻きついた。
ルビーは目を瞠る。
細いなめらかな螺旋の蛇が、カナリーの腕に巻きついた途端、その色を変えたからだ。深い海のような鮮やかな碧から、淡い明るいアップルグリーンに。
とろりとした柔らかな輝きを放つ石は、カナリーの腕を這い上る形で再び固まった。小さな鎌首をわずかにもたげ、可憐な佇まいを見せている。いまにもまた動き出しそうだ。
「ひとまずは、これで大丈夫。川の王の残した石が、揺らぎの大きい精霊界のエネルギーの波から、いまのカナリーの不安定な心を守ってくれるわ。ただ……」
と、モリオンはなおも考え込む顔のまま、
「ここは川の民の領域だから……人間の女の子が川の王の守護石を持つことはどうなんだろうって、少し思うけど……。ましてこれは形見の品だから。よく思わない者がいると──困るのだけれど」
一方ルビーはモリオンの声を聞きながらも、カナリーの腕に巻きついた石細工の蛇から目を離せない。
石が色を変えたのだ。ルビーの足のアンクレットが色を変えたのと同じだ。きっと同じ種類の魔法だ。
背中のあたりがざわざわとした。
「ええ」
ルビーの考えていることがわかったのだろう。モリオンは頷いた。
「ルビー、あなたの左足に嵌められたアンクレットの働きと、これはある意味似ているわね」
モリオンにはこれが何なのかわかるの?
思わずルビーは期待を込めて、モリオンを見つめた。もしもルビーに声が出せたら、きっと大声を出していただろう。
モリオンは一度目を丸くし、不思議そうにルビーを見たあと、柔らかく微笑んだ。
「アンクレットのこと、そんなに知りたかったの? だったらもっと前に聞いてくれたらよかったのに」




