81 精霊の死
パルマと名乗った少女は、眠る他の亡骸たちとともに、いまはゆらゆらと水に浮かび、もう動かない。幼さの残る顔に夢見るような表情を浮かべ、青いまぶたを閉じている。
振り返ったモリオンは対照的に、厳しい顔つきになっていた。
「ルビー、聞きたいこともあるでしょうけど、時間がないの。──いいえ、あの女将はもう追ってこないわ」
ぐにゃぐにゃと鉄の扉を人型に動かした不気味な魔法を使う女結界師。鉄色の歯をむき出した女将が、輝くこの水を泳いで追ってくるイメージを思い浮かべるルビーを見て、モリオンは首を横に振る。
「あの空間は閉じられてしまったから、あの宿のある場所とこちらをつなぐ術はもうないの。でなくとも、あの人のような存在が、ちゃんと意識を保ったままこちら側に留まり続けるのは難しいわ。急ぐのは別の理由よ。皆を、それぞれのあるべき場所へ戻してあげなければ」
もちろん疑問に思うことはほかにもある。
さっきのモリオンの言い方だと、パルマの亡骸を動かしたのはカナリーだというふうに取れたけれども、どういうことなのだろうか?
それに、パルマは操られていたというよりも、自分の意志と感情で動いているように見えた。
ほかにもたくさんの、わからないことだらけだ。
例えばモリオンの過去のこと。賢者グレイハートとカルロ首相のこと。ルビーの左足に嵌るアンクレットのこと。
このアンクレットをつくったのは、賢者グレイハートと呼ばれているあの白髪の若者で間違いないのだろうか?
そしてそれは、3年前ジゼルさまの夫のグレゴール・ハマースタイン大佐が戦死したときに探し出してきたという術師と同一人物だと考えてよいのだろうか?
このアンクレットをルビーに嵌めたのは、だれだったのだろう? アンクレットはルビーが人間になってしまった出来事をはじめとして、幾つもの不思議な出来事にかかわってきている。単にルビーの魔力を封じるためだけのものとも、もう思えなかった。
ゆうべ娼館の通風口で出会ったときに聞いた、人魚の罪の話についても、それきりになっている。
南の島で出会った、黒い闇のかたまりそのもののような禍々しい怪物。あれはどこからどうみても、人魚とは似ても似つかぬ存在だった。人を喰らおうとして、人にしがみつこうとして、その黒い触手を伸ばしてうごめいたあげく、賢者グレイハートの杖に吸い込まれて消えた。
疑問は尽きなかったが、そんなことよりも、さっきまで動いていた女の子の顔が、声が、ルビーの耳にこびりついて離れない。
ぞっとするような呪詛に満ちた声。苦しみに歪んだ顔。うってかわって、実の弟を恨んでしまうのだと告白したときの、深い悲しみに打ちのめされた声。
いまはまるで眠るように穏やかに目を閉じているパルマの顔を、ルビーはそっと盗み見た。
この女の子はいまは本当に安らいだ気持ちで眠りについたのだろうか? だれにも助けてもらえなくて、たった一人で怖い目に遭って、最後には命を落としてしまったというのに。モリオンはこの子の話を聞いていたけれども、女の子が受けた仕打ちについて、なんの慰めを口にすることもなかったし、何一つ解決されないままだった。
それでも、胸の内をだれかに打ち明けることができただけ、ほかの亡くなった人達よりもまだ、浮かばれたとでもいうのだろうか?
もしかすると、ほかの人たちも同じように、こんなにも胸が痛む、どうにもならない事情を抱えたまま亡くなってしまったのだろうか?
いつかロクサムと一緒に、ロクサムの名前の由来となった故郷の街を訪ねていけたらと思ってきたルビーだった。けれども一度だってルビーは考えてみたこともなかったのだ。
もしもロクサムの実の両親がひどい人たちだったら。彼らがロクサムを拒絶して、ひどい言葉を投げつけたら。平気で自分たちの息子を踏みつけにして、傷つけることができる人たちだったとしたら。
この世界が、自分の思ってきたものと違うことに気づいた不安と恐怖。その寄る辺なさ。足元ががらがらと音を立てて崩れるような恐慌が、ルビーの心にひたひたと押し寄せる。
けれどもルビーはぎゅっと唇を噛みしめて、心に生まれたそのわだかまりを片隅に押しやった。
いまは急ぐ。モリオンはそう言ったのだ。
ルビーはモリオンを見つめ、ただ頷いた。
モリオンは水の中を漂う人々の亡骸に、もう一度向き直った。
「水よ、亡くなった人たちに弔いを」
自らをも包む大いなる流れに向け、モリオンは低い声で告げる。
「身体は精霊界の光の中へ。魂はこの世界を超えて、向こう側の人の世に戻してあげて。あちらの世界の空へ。風の中へ。水へ。大地へ。そして、想いを残した場所があれば、そこに届けてあげてちょうだい。──それから、おまえたちのあるじ──川の王ジェイド──には供物が必要よ。王の蘇りのため、すべての根源につながる大いなる力をここに」
光る水が虹色に泡立ちながら押し寄せて、眠る人々を押し包み、どこかへ向けて運び始めた。モリオンは静かにそれを見送った。
ルビーはモリオンの傍らで息をつめて、遠ざかる人々を見届ける。透き通る流れの中を、遠く、光に包まれて、見えなくなるまで。
一方ルビーたちの近くでは、きらきら光る銀色の魚たちが流れから跳ね出して、次々と空気や水の中をぬって泳ぎ始めた。銀の鱗をきらめかせながら集まってきて、さらに大きな流れとなった。それらはルビーの目の前で砕け散って光る銀色の粒となり、眠る半竜の男の上へ、無数の雨あられとなって降り注いでいく。
光る水の中で、ひときわまばゆく輝く白銀のシャワーを浴びながら、竜の頭を持つ男は薄く目を開けた。
と思うと、見る見るその姿は変化を遂げていく。堅い鱗で覆われた頭部は頭髪に覆われたすべらかな皮膚に変わり、節くれだった爬虫類の形の足はすらりと伸び、ぶつ切りにされていたはずの尻尾は消え、いまのルビーやモリオンと同じ、頭からつま先まで均整のとれた人の形となった。
胸部を覆っていた甲冑もまた姿を変え、手首から足首までの全身を覆う、複雑な模様の鎖帷子のような服に変わる。
が。
人の姿をしていても、やはりそれは微妙に人とは異なっていた。その髪は御影石のような冷たい暗緑色をしていて、銀盤のような瞳には人間の虹彩がなく、爬虫類のときのままだった。
白銀の輝きを巻き込みながらさっきまで溢れるように次々と流れ続けていた水は、次第に勢いを弱め、潮が引くように急激に引いていく。それとともに、ところどころに地面があらわれ始める。
さっきまで川床だった部分が、白い砂地となってのぞいている。男はその上に膝をついて身を起こし、すっくりと立ち上がった。
背は人間の部類の中では際立って高い。ずば抜けた体躯のロメオよりもさらに高い。小柄なジュリアの2倍の高さはありそうだ。むしろ巨人といってもいいかもしれない。
男は特異な印象を与える爬虫類の目で周囲を見回し、同じく地面に降り立ったモリオンの姿を捉えた。
「緑樹の、王──」
開かれた口から、溜め息のようなかすれた声が零れる。
「助けに来てくださったのですか……」
モリオンは顔を上げて、男を見上げた。パルマの呪縛を解いたのち、さっきからずっと沈み込んでいた黒い瞳がきらめいた。
「間に合ってよかったわ、川の王」
「いえ」
男はやはりかすれた声で、それを遮った。
「最初の犠牲者がいるのです。あの異界に閉じ込められるより以前に、だまし討ちにあって術に縛られ、一人食らわされてしまった。すでにその者はわたしの中にいて、わたしの一部と化しております。先ほどの飢餓状態の中では、わたし自身の記憶があやふやだったため、その者の自我がかなりわたしを浸食しつつありました」
男の言葉に、モリオンは眉をひそめる。
「そんなはずはないわ。あなたからは、もう人間の気配はしないもの」
「ええ。人ではありませんでした。わたしが最初に食らわされたのは精霊です。ただし、悪意をもった人間に歪められて育ち、なんともおぞましい邪念を放っておりました」
ゆっくりと、ささやくような小声で男は告げた。
「わたしはすでに穢れています。そう長くはここにいられない……」
「あなたはもとの姿を取り戻したのに? それって、精霊の川が変わらずあなたを王と認めているということではないの?」
「新しい川の王をお選びください、緑樹の王。いえ、われらが精霊界を統べる王として。川も大気も光も空も、精霊界のすべては、あなたのお命じになることだからこそ聞き届けるのです」
「わたしは精霊王ではないわ。たまたま強い力を持って生まれてきただけの、若輩者の緑樹の精の一人に過ぎない」
「あなただと思いますよ」
男は微笑した。
「他の者らもそう考えているはずです。先代の王が万物の根源へとくだり、その中心で深い眠りについてから、長らく精霊界を統べる王は不在でした。ですので王の再来は、この世界の皆が待ち望んでいたものです。今回のことで、やはりあなたで間違いないとわたしは確信しました。もうじき消えてなくなるこの身ですが、その前にあなたの助力を得て最後にこの地に戻ってくることができたことは、この上なく幸運でした。いまからわたしは砕けてこの精霊界の大気の中に融けて風となって流れて、きっとそのいくばくかの欠片は太陽の樹の根元まで辿りついて、そこで眠りにつくことができるでしょう」
「待って!」
光る水は少し離れたところで、急にまた勢いを増したかのようにどうどうと音をたてて流れていく。
光に満ちた宙空の高みから突然出現した水柱は遥か下方に向け垂直に下り続け、眠る人々の亡骸は、とっくに見えない場所まで運び去られたあとだ。
その流れの早い場所に向け、大きく身を躍らせようとした川の王を、モリオンは呼びとめる。
「あなたの傷に触れた者が、変化を起こしたの。だからわたしはそれを辿って、あなたを探し出すことができたのよ」
「あの金髪の娘ですか?」
そう問いながら、川の王の銀盤の目は、巨大つる草に運びあげられた少女を探して、空に向けられた。
「わたしとともにあの娘を異界に閉じ込めた女術師の思惑とは違って、彼女は異能は持っておらぬように見えたのですが……」
「そうね。あの子はあんな見た目をしていても、貴族の血は引いてはいないのだと思うわ。引いていたとしても、ごく薄いか。あなたに近づけてもそのときは、あの子におよそどんな種類の力の発現も見られなかった。だから、女将はあの子をあなたに食らわせることはせず、そのまま解放したのだわ。そして人間の世界で、改めて別の場所に売り払ったの。今回の変化は偶然によるものよ。そして多分そんなには持続はしないはず。ただ、思ったよりも影響が薄れるのが遅くて──今回のことはあの子が無意識のままでしてしまったことだけれども──あの子が一時的に得た自分の力に気づくと、ひどく危険だわ」
その意味もよくわからぬまま、2人の会話をルビーは黙って聞いていた。
金髪の娘はカナリーのことで、女術師というのはさっきの異界をつくった女将のことだ。それはわかる。
でも、貴族の血とはどういう意味だろう? カナリーは金髪だから、貴族の血を引いていると思われたのだろうか? そういえば、アントワーヌ・エルミラーレンはひどく色の薄い金色の髪で、"移身交換の術"の的となった憲兵隊の副長は巻き毛のダークブロンドだった。でもハマースタインの奥さまの髪は金髪ではない。明るい栗色だとはいえ、茶色の一種だ。
貴族の血統を持つものが金髪とは限らないのでないかと、ルビーは思う。
変化? 力を得る? 得た力が危険?
「あの娘が悪しきものだと、王はお考えなのですか?」
「いいえ、そうではないわ」
モリオンは首を振った。
「ただ、未だ幼すぎて、なにものでもないというだけ。でも──だから危ういと思う。他人を操ることができることの怖さやむごさを実感できないぐらいには、幼いと思うから──」
「では、そのものの未来はあなたに託してもよろしいでしょうか。わたしのわずかに残された力を、あなたに委ねます。王よ、助力を」
なおももの言いたげなモリオンの声を遮るように男は口早にそう告げ、流れに向かって飛び出した。
再びモリオンは、待って、と呼び止めた。しかし今度は男は振り返らなかった。
水音も、何もなかった。足元でさざ波が小さく震えただけだった。
不意に音もなく、すうっと川の王が消えたからだ。細かくぼんやりとした霧のようなものに変わり、崩れ落ちて光る水に溶け、薄墨のように流れて消える。
と、砕け散った霧の一部が固まって、黒銀に輝く小さな蛇の姿になった。それは水を飛び出しするすると宙を泳いできて、モリオンの左の手首に巻きついた。と思ったら見る見る透き通りながら固まって、綺麗な緑の石でできた装身具と化してしまった。
※ 修正しました/ 今生の君 → われらが精霊界を統べる王
ちょっと和風&中華風過ぎる言い回しに違和感を覚えたので。
※ 81話と82話の区切りを変更しました。




