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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[六] アンクレットと人魚の涙
80/110

80 呪縛を解く

 それはルビーの知っているどんな水とも全く違うものだった。海の水よりもずっと軽く、光りながら泡立ち、流れながらきらきらと揺らめいている。人間の姿のまま深く呼吸でき、呼吸するごとに深い安らぎで身体全体が満たされる。


 何度か息を吸って吐いて、両手を広げてルビーはその流れを受けた。さらさらと指の間を流れる水は、光そのものであり、エネルギーそのものでもある。煌めきながら輝きながら、ルビーの手のひらに、腕に、肩に当たっては楽しげに揺れて跳ねて、くるくると方向を変えて流れ去る。


 その流れの先を見やり、何気なくくるりと振り返ったルビーは、カナリーの様子に驚いて立ちすくんだ。


 カナリーが溺れている!

 水中で激しくもがきながら、どこかへ流されていこうとしている。ここでは呼吸ができると思ったけれど、息ができるのはルビーだけなのだろうか? 

 ルビーは助けを求めてモリオンを目で探した。

 

 モリオンは当然のように、水の中でも平気でいた。溺れもがくカナリーに気づいたモリオンはいぶかしげに首を傾げたが、すいとその傍らに泳ぎ寄る。

「カナリー、息を吸って。ここの水は普通の水と違って霊的なものでできているの。普通に息ができるはずよ」

 確かにルビーの知っている海の中とは、その水の感触は全く違うものだ。第一、モリオンの声の響きは明瞭で、本当の水中にいるときのようなくぐもった感じはしない。


 モリオンはカナリーの腕をつかみ、ぐいと引き寄せた。

「カナリー、息をして!」

 けれども苦しみもがいているカナリーに、モリオンの言葉は全く届かない様子だった。モリオンにつかまれたまま、カナリーは力任せに暴れるばかりだ。身体をのけぞらせ、じたばたと足を振る。


 大きな蹴りがモリオンの腹部に命中した。  

 はずみでカナリーの腕から、つかんだ手が外れてしまう。モリオンは勢いよく水の中に投げ出されたが、ダメージを受けた様子はなく、ただ困惑した表情になる。


「困ったわ。自分のつくり出した幻影の恐怖に溺れてるの。さっきの女の子がすごい形相で、カナリーの足を引っ張って水の中に引きずり込んでいる幻想」


 ぎょっとしてルビーはカナリーの足元を見たが、青く輝く光でできた水の層が、幾層にもゆらめいているばかりだ。

 モリオンによって異形のものの"内側"から取り出された人々の亡骸は、その少し離れたところをゆらゆらと、静かに漂っている。最初に出てきた女の子も、茶色い髪を水に揺らしながら、細い手足を力無く水の中に投げ出したままだ。


 モリオンはもう一度泳ぎ寄ると、カナリーの腕をつかんで激しく揺さぶった。


「ねえ、カナリー、聞いてちょうだい。それはあなたの頭の中にだけある幻なの。現実じゃないわ。だってその女の子はカナリーのことなんて知らなかったんだもの。ただ苦しくて痛くてつらかっただけで、カナリーをそれと関連づけて考えたことなんてなかったわ」


 声は聞こえているのだろう。

 けれどもカナリー自身、幻だと言われてもどうにもならないらしく、苦悶の表情で、何かをつかもうとするかのように手を激しく動かして暴れている。


 モリオンは「仕方ないわ」と小さな声で呟いて、けれどもなぜかまだ迷っているような顔で、カナリーの顔を覗き込んだ。


「カナリー」

 ルビーにとって聞き覚えのある、不思議な韻律を帯びた声が、きん、とあたりに響き渡った。

 ハマースタインのお屋敷で、アントワーヌ・エルミラーレンの使っていたものと同じ──言霊の魔術だ。

「一度だけ、わたしのいうことを聞いて。いまは眠るの。苦しみからあなた自身を解き放って、眠ってちょうだい」


 カナリーの目から光が消えた。

 一瞬で意識を失ってしまったらしい。さっきまで暴れていた少女は、水の中に両手両足をだらりと投げ出した。

 

 と、さっきと同じつる草が新たに川床から勢いよく伸びてきた。

 石の牢を破壊して伸び続けた巨大な植物。その新しいつるがぎゅるんと巻きついて、モリオンの腕からカナリーをもぎ取った。そして、水のない遥か上空まで、意識のない少女を運ぶ。


「大丈夫。気を失っているだけ」

 振り返ったモリオンは、安心させるようにルビーに説明した。

「空へ運んだのは、目を覚ましたときに水の中にいたら、もう一度パニックを起こすかもしれないから」


 けれどもモリオンはどうしてだか、まだ困った顔をしている。

 問いかけるルビーの表情に気づいたのか、彼女はその口元に微かな微笑みを浮かべた。


「"言霊の術"と呼ばれているものは、とても危険なの。なるべく使いたくない。特にわたしは──人間に縛られているから──だから一度きりと、念を押したのよ。この先、カナリーにわたしの言葉が影響を与え続けないように」


 最初ルビーに出会ったときモリオンは、人間に名前を教えるなと言った。名前を知ってあやつろうとする人間がいるから、と。

 その忠告をくれたモリオン自身もまた、"言霊の術"を使うことのできるのだ。それは何か奇妙なことのように、ルビーには思えた。

 そこまで考えて、ルビーは思い出した。自分自身もアートに対して意図せぬまま術を振るってしまったことを。


「覚えておいて、ルビー。支配者として振るう"言霊の術"は時として、施術者と被術者の間に絶対的な支配と隷属の関係をつくるの。たとえ支配下に置かれる側が支配者よりも強大な力を持っていても、一度その術が動き出してしまえば、恒久的に、絶対的にその相手の意志に従う道筋をつくってしまうことがあるわ。そして時には、人の国を歪めてしまいかねない力を周囲に及ぼすことがあるの」


 モリオンがなおも何か言いたげに見えたので、ルビーはそのまま待った。

 眠る亡骸たち、動かない竜頭、それにルビーとモリオンは、静かに流れる水の中で、ゆっくりゆっくりと、カナリーを巻き上げて運んだ巨大なつる草から離れて行きつつある。

 さっきまでは、自分たちが流されて行っていることに気づかずにいた。気づけば、さっき堅牢な石の小部屋を巻きつぶしたはずの最初のつる草は、幾層にも輝く水の向こう側、かなり離れた上流でゆらゆらと風にそよぎながら、少しずつさらに遠ざかっていく。


「これは偶然。だけど、カナリーは一時的にせよ、精霊の力を得てしまった。最初は、もっと早く影響が薄れると思っていたのだけれど──。そして、ここにその偶然が及ぼした結果があるのよ」


 そう言いながら、モリオンは目の前にたゆたう亡骸の一つ、一目見てカナリーがおびえていた女の子を指差した。


 ぎくりとして、ルビーは目を瞠る。


 水の中で、女の子がゆっくりと目を開けたのだ。

 それとともに、もつれた茶色い髪が、それ自体が生きたもののようにゆらりと逆立つ。

 次の瞬間、女の子はカッと目を見開いた。


「……むむむむむむうぅぅぅぅ」

 かさかさとしわがれた、まるで老人のような声が、女の子の土色の唇から零れた。

「……う……るるるるるるるるぅぅぅぅぅ」


 ぎくしゃくと、不自然な動き方で、女の子は周囲に首を巡らせた。青い、青い顔が、恨みがましげにぐしゃりと歪んでルビーの方を向く。

「……うらむうぅぅぅぅぅぅぅ」


 その青い唇から発せられた言葉に、ルビーは思わず身震いした。風がうなるような奇妙な声だったが、確かに"恨む"という言葉が聞こえたのだ。

「……だぁれぇぇぇぇぇぇ……たぁしぃ……ぅるぅぅしぃぃぃぃ……」


 モリオンは不意に、女の子の目の前に立ちふさがるように泳ぎ寄った。

「わたしはモリオン。あなたの名前を教えて」

 モリオンがいきなり自分の本当の名前を相手に告げたので、ルビーはびっくりする。

「……」

 返事はなかった。


 モリオンが遮っているので、女の子の姿はルビーからは見えない。モリオンはそのまま動かない。

 動かないのはモリオンと女の子だけではない。さっきと変わらず輝く水が流れ続けているにも関わらず、ルビーも竜頭も他の亡くなった人たちも、ゆらゆらとたゆたいながらも同じ位置に浮かんでいる。まるで目に見えない網にからめとられてしまったかのように。

 ルビーはもう一度空を見上げた。カナリーを運んだつるの位置も、いまは遠ざかるのをやめている。自分たちが同じ場所に留まり続けているのは、錯覚ではなさそうだった。


 もう一度凝らしたルビーの目は、ふと、モリオンの身体を構成している細かく揺れる光の粒を捉えた。

 それとともに、不意にルビーは理解した。

 ルビーの胸の黒曜石のナイフを憑り依(よりしろ)とした幻影だと説明された少女の姿。川床に根を張る緑の巨大な植物。水の中で静かにルビーたちを支える無色透明な微粒子たち。その3つは姿形も色も大きさも、全く異なるものでありながら、同じ律動を持っている。これも、あれも、それも、モリオンの分身ともいえる同質の存在なのだ。


 海に嵐を巻き起こすときの人魚の長老については、どうだったのだろう。やはりこんなふうに風や波の中に、長老自身の一部が広がっていたのだろうか。自分がつむじ風をつくるときはどうなんだろう。そういえば、アンクレットを嵌められたときからルビーは風を操ることができなくなっているのだけれども。

 ルビーは再び思い出す。さっき宿の女将がルビーを人間の女の子と間違えたことを。

 それとともに、ロメオに連れて行かれたまじない通りのおばばの言葉も思い出した。おばばは言っていた。アンクレットは魔力を整えて、外部に漏れないようにしていると。

 そのことと、ルビーが人間だと思われたことは、ひょっとしたら関係あるのかもしれない。



 ずいぶん長い間、モリオンは無言で女の子の返事を待った。

 長い長い沈黙のあと、女の子は小さな声で、ぽつんと答えた。

「……パル……マ」

「そう。あなたはパルマっていうのね。では、モリオンからパルマに質問よ。あなたの胸につかえているのが何なのかを、わたしに教えてちょうだい。……その前に一度息を吸い込んで。この光る水を吸い込むの」

 モリオンの黒髪の頭が女の子に向けて頷きかけるのが、ルビーから見えた。

「そう。あなたの喉がなめらかになって、しゃべりやすくなるわ」


「わ……たしは……恨めしいの……」

 女の子は再び口を開いた。声はやはりしわがれてはいたけれど、さっきよりはずいぶん聞き取りやすい。

「そう。あなたは恨めしいのね」

「そうよ。恨めしい……わたし……おとうさんと、おかあさんに売られた。気に入られようと、頑張ったのに、邪魔な子だと言われて……。わたし、邪魔な子だったの……」

 しわがれた声が次第に細くなっていき、自信なげな小さなつぶやきに変わる。

「わたし……違うわ。恨めしいんじゃないわ。悲しいの。とてもとても悲しいの」

 もう一度モリオンは頷いた。


 しわがれた声でとぎれとぎれに、パルマはモリオンに話し続けた。

 父親が再婚して新しい母親が家に来たこと。最初はとても嬉しくて、仲良くしようと思っていたのに、嫌われていつも冷たくされていたこと。

 ぐずだと言われて、口答えをしたと言われて、睨んだと言われて、顔が気に入らないと言われて、いつもぶたれていたこと。

 父親がいないときに、ご飯を食べさせてもらえなかったこと。

 帰ってきた父親に、母親が告げ口をしたこと。自分のつくったものを娘が嫌がって食べてくれないと、泣いて訴えたこと。父親は一方的に怒って、わがままを言うなら食べさせなくてもいいと、夕食まで取り上げられてしまったこと。本当は食べさせてくれないんだと言いたかったけど、怖くて何も言えなかったこと。

 毎日のように母親が、パルマの悪口を父親に吹き込むので、父親からもだんだん疎ましがられるようになっていったこと。


 そのうちに弟が生まれて、両親がにこにこ笑い合っていたから、もしかしたら今度こそみんなで仲良くなれるかもしれないと思っていたのに、両親はパルマにはますますきつく当たるようになっていったこと。

 弟に笑いかけていた父親が、自分の方を向いた途端にいつも怒った顔に変わることが、辛くて苦しくていたたまれない気持ちでいたこと。

 家事を覚えて、弟にかかりきりの母親の代わりに一生懸命お手伝いをしたこと。でも、どんなに働いても文句を言われてののしられて、ほうきでぶたれて、突き飛ばされて、悲しい思いをしていたこと。

 弟は何をしても誉められて、新しい服や本やおもちゃを買ってもらえて、おいしいお菓子も食べさせてもらえていたこと。一方パルマはお誕生日の日すらも、何一つ祝ってもらうことがなかったこと。


 ある日、弟が病気になって、高い薬を手に入れるために働きに出てくれないかと父親に言われたこと。いつもパルマを怒鳴っているばかりだった父親が喜んでくれるならと、働きに出ることを決意したこと。

 けれども紹介された場所に行った途端、怖い女の人に引っ立てられて、腕に無理やり焼きゴテを当てられて、化け物の檻に放り込まれて、そのまま化け物に頭から呑みこまれてしまったこと。

 熱くて痛くて怖くて苦しくて。だれも助けてくれなくて、最後まで独りぼっちで悲しくて寂しくて。いまでもそれが悲しくて苦しくて、どうしようもない気持ちでいること。


 ときおりつっかえながら、どもりながら、ゆっくりとパルマは語った。寂しげで悲しげな、聞くだけで胸が苦しくなるような声だった。

 だれからも顧みられずないがしろにされ続けてきたことこそ悲しいのだと、パルマはか細い声で訴える。そんな言葉を聞くとルビーは、どうしたってロクサムのことを思い出さずにはいられない。


 いま、船の上で背中の痛みと戦っているはずのロクサム。

 人々からさげすまれ、ないがしろにされ続けてきたことを悲しいとすら言えなかったロクサムが、ルビーはずっと、もどかしくて仕方がなかった。だれどロクサムがもし、本当に胸の内にあるはずの悲しみと正面から向き合って来ていたとしたら、そんな苦しみは、簡単に埋められるものではなかったはずだ。

 彼が自分の処遇を当り前のこととして飲み込んで納得して生きてきたことを、だれが責められるというのだろう。


 モリオンは最後まで黙ってパルマの話を聞いていた。

 それからおもむろに口を開く。


「……精霊モリオンの名において告げるわ。土くれは土くれに、水は水に。光は光に。そしてパルマ。あなたの魂はいかなるくびきからも解き放たれて、そのあるじパルマだけのものに戻るの。……あなたの苦しみはもう終わったのよ。あなたを愛してくれない両親に苦しめられることや、痛めつけられて異形のものに食べられてしまうことが、すでに過ぎてしまったことであるように。術に縛られて亡者として目覚め、恨みだけを増幅させて彷徨ういまを、終わらせるの」


 不思議な音楽のような声の響き。けれども、さっきカナリーの名前を呼んだときとはまた違う、どこか重々しくて張りつめた声だった。

 モリオンはルビーに背を向けていたからその表情はわからない。けれども、さっきのような迷いや困惑は、少なくともその声からは感じられない。


「……うらみ……? わた……し……」

「何も恨まないで。あなたの苦しみをあがなうすべは、いまはこの世界のどこにもないけれども──それでも」

 モリオンは一度言葉を切って、それから振り絞るようにして言葉をつないだ。


「わたし……は……」

 水の中でモリオンが少し方向を変えたので、青い顔の女の子の姿が、ルビーの目に映る。

 女の子は目を見開いて、大粒の涙を浮かべていた。涙は光る水の粒と溶け合って、虹色に輝きながら女の子の周囲に散っていく。


「わたしは……自分のきたない、気持ち……が……く……るしかったの。おとうと……は、なにもわるくないのに……弟、恨む気持ち……。わたしと同じ、目に遭えばいいと……恨む……。もう1人きょうだいがうまれてきて……弟が……要らない子になって、しまえばいいと……。ぶたれたり、蹴られたり、棒で打ちすえられたらいいって……。わたし……ひどい……」

 そう告白しながら、パルマはぽろぽろと涙を零した。

「あんなに可愛い……あの子、あの子だけが、わたしに……笑いかけてくれたのに……」


 パルマの苦しげな懺悔に対しても、モリオンはただ、黙って聞いているだけだった。

 聞いているルビーは心が苦しくなって、「あなたはちっとも悪くなかったじゃない」って言ってあげたくなったけれども、そういうことも、彼女は何も言わなかった。


 最後にモリオンは微かに首を動かし、静かに告げた。

「あなたに弟を呪う力はないわ。だからパルマ、安心して。そんな風に思うあなた自身のことも、もう許してあげなさい」

 ややあって、女の子の茶色い頭がこっくりと頷いた。

 パルマはゆっくりと目を閉じた。穏やかな顔つきになり、そのまま眠るように静かに動かなくなった。

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