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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[一] 怪物の島と南の国 
8/110

08 貴婦人とブランコ乗り

 最後の一切れを飲み下すまでに、ずいぶんと長い時間がかかってしまった。

 天窓から差し込む薄明りは徐々に色を深くしていき、やがて窓の向こう側の微かな光は消えた。ガラスは深い闇色へと変化したあと、あたりの闇と溶け合って見えなくなった。

 テーブルに置かれたランプの明かりだけが、ゆらゆらとあたりを照らし出す。


 ルビーが魚を口に運んでいる間、貴婦人は沈黙したまま待っていて、水差しからコップに2度水をそそいだ。

 ルビーも無言だった。途中何度も喉をつまらせそうになり、水を飲んでは食べ続けた。

 ルビーは一度もすすり泣いたり、しゃくり上げたりすることなく、黙って食事を続けた。ただ、涙だけがその瞳から静かに溢れ、音もなく流れ続けた。


 使い終えたナイフとフォークを皿の上に揃えて置くと、ルビーはやっと目を閉じた。

 夜の海の底のような暗い部屋の中で、そっと揺り椅子にもたれると、人魚は自分の身体の内側に静かな力がみなぎるのを再び感じた。


 アンクレットの魔力は強力で、アシュレイから流れ込んできた魔法は結局、アンクレットを砕くには至らなかった。けれども今、変身に対する呪縛は完全に解けていた。

 ルビーの赤い尻尾は、椅子の足元ですんなりとした2本の脚に形を変えていく。いまや血の色をしたアンクレットは、つなぎ目の見えないまま円周を変えて、ルビーの左の足首をくるりと囲んでいた。

 裸足のままのその脚で、ルビーは立ち上がった。

 

 目の前のベールをかぶった貴婦人に──その中にさっきからちらちらと重なって見える人魚の長老に──向けて、ルビーは問いかけた。


「教えてください、お姉さま。あたしのしたことは、間違っていたの? あたしは自分が人間に捕まっても、アシュレイには逃げてほしかったの。素敵な背びれを立てて、海の中を悠々と泳いでいてほしかったの。それだけなの。なのに、アシュレイがあたしに同じことを願っていたことを、どうしてあたしはこんなに悲しくて、辛くて、やりきれないことのように思ってしまうの?」


 人魚は海の底の泡から生まれてくる。だから何百年生きたのかをだれも知らない長老のことも、他の年上の人魚たちを呼ぶのと同じように、ルビーはお姉さまと呼んでいた。

「お姉さま答えて。あたしがアシュレイに願っていたことは、ひどいことだったの?」


 貴婦人は、それには答えず微笑んだ。

 ベール越しの白い顔が、どこかさっきまでと違った風に見え始めていた。口元に宿る寂しげな影は気配をひそめ、その表情は深く暗く物憂げなものから次第に、どこか艶めかしいけだるげものへと変わっていく。急速に、魔法が薄れつつあるのを、ルビーは感じた。


 貴婦人は、今はじめてルビーの様子に気づいたというように、美しい形の眉をひそめた。

「どうしたの? 人魚、泣いているの?」

 テーブルの縁に佇むルビーを、貴婦人は気遣わしげに見上げた。

「どこか痛いの? 何か悲しいことでも思い出したの?」

 貴婦人は立ち上がり、手を伸ばして、涙に濡れたルビーの頬に指先で触れた。


「それともみんなが先に帰ってしまって寂しいの? 大丈夫よ、人魚。あしたの朝にはちゃんとみんなのところに送っていってあげるから。今夜は人魚はわたくしと過ごすのよ。何も寂しいことはないの。楽しいことを教えてあげる。悲しいことなんて、忘れさせてあげるわ」


 柔らかな白い手で貴婦人は、燃えるような色のルビーの髪をそっと撫でた。そこで彼女は足元に目を落とし、ルビーの尻尾の変化にふと目を留めた。

「人魚は人間になったの?」

 考え込むように、貴婦人は首を傾げた。


「朝、屋敷にやってきた魚売りが言ったの。この魚を人魚に食べさせると不思議なことが起こるって。それってこのことだったのかしら? せっかくの珍しい赤い尻尾が普通の人間の脚になっちゃうなんて、不思議というよりつまらない気もするのだけど。それに、見世物小屋の主人に恨まれてしまうわね。人間の女の子じゃ、何の見世物にもならないもの」


 けれども気を取り直したように首を振って、貴婦人は微笑んだ。

「まあいいでしょう。人生は短いの。悲しみの海に溺れている間に過ぎ去ってしまうものなのよ。だから、せめて今夜は楽しみましょうね」


 デザートを用意させると言った貴婦人に、ルビーは要らないと答えた。

 テーブルの皿は片付けられ、案内されてルビーは寝室に通された。

 さっきの深海の底のような小さな部屋と違って、外に向かって大きな出窓のついた大きな部屋だった。


 ところが部屋を移動したところで、執事らしき人物が貴婦人に来客を告げに来た。

「奥さま。先ほどの、見世物小屋の者が、1名見えておりますが……」

「あらそう? どなたが? 座長さんかしら」

「いえ、ブランコ乗りです。人魚を迎えに来たそうです」

「まあ」

 執事の言葉に、貴婦人は少しびっくりした様子だった。

「庭で待たせておいてちょうだい。わたくしもそちらへ向かいます」


 ルビーも少しびっくりした。ブランコ乗りがいまごろ屋敷に引き返してくる理由がわからなかった。

 貴婦人はルビーに、すぐ戻るから少し待っていてね、とだけ言って、部屋を出ていってしまった。

 しかし、貴婦人はなかなか戻ってこなかった。


 また一人きりにされて、ルビーは思案した。開け放たれた部屋の窓から抜け出して、このまま外に出て行ってしまおうか。

 窓の外には漆黒の空が広がっている。

 ルビーは窓のそばまで歩いていって、海の底よりも深い、暗い夜空を見上げた。


 この屋敷がどれだけ海から離れているかはわからなかったが、魚売りが新鮮な魚を持って訪ねて来るぐらいだから、歩けない距離ではないはずだ。ただ、方角がわからない。外に出て星座を探せば東西南北はわかるけれども、どちらの方角に海があるかを、ルビーは知らない。

 貴婦人もブランコ乗りもルビーにとってはどうでもよかったが、貴婦人の屋敷からルビーが黙って消えたら、見世物小屋で友達になったロクサムはどう思うだろう。

 

 ルビーはふと、アンクレットをはめた左足首がちりちりと痛むのを感じた。

 今では用途もよくわからないそれが、まるで存在を主張しているかのようだった。

 もしもルビーがこのまま海に還っても、このアンクレットは一緒についてくるのだと思った。象牙のような、珊瑚のような、つるんとした石に似た硬い材質でできていて、つなぎ目も何もなく、完全な輪の形になって、足首を取り巻いている。


 これをつくったのはだれだろう。アンクレットは最初、ルビーの力を封じる役目を果たしていたが、その役目を果たせなくなった今、どうして割れたり欠けたりすることなく、ルビーの足首に留まりつづけているのだろう。

 それともルビーが気づかないだけで、まだ何かの力を持って、ルビーに働きつづけているのか。

 どうやったらこれを外すことができるのだろう。

 これをルビーにはめたのは、人買いの仲買人だった。彼を探し出して見つけたら、このアンクレットがどういった性質のものかがわかるのだろうか?


 そのとき、屋敷の外門のあたりで、何か人が揉めているような気配がした。

「……」

「……」

 片方は男の声で、もう片方は女の声だった。

 女の方は、貴婦人の声のような気がする。でもよく聞き取れない。

 ルビーは窓から身を乗り出し、庭を見下ろした。

 開いた門から入ってすぐのところに二頭立ての馬車が停まり、馬車の影で、ブランコ乗りが貴婦人を抱きしめキスをしていた。


 ずいぶん長い抱擁のあと、貴婦人はブランコ乗りの肩をそっと押し、身を離した。

「あなたも困った人ね、アーティ。一度帰したのに、勝手に押しかけてくるなんて」

「奥さまがつれないからです。あんな人魚など選んで、ぼくを帰してしまわれるなんて。奥さまがお決めになったことだからと一度は思ったのですが、どうしてもあきらめきれなくて、こうして戻ってまいりました」

 呆れた様子の貴婦人に、ブランコ乗りは強い口調で言い募った。


「それがね、アーティ、わたくしにも理由はよくわからないの。きょうは、ただ、何となく人魚を選ばなければいけないような気がしただけなのよ」

「では、今からでも、あのは帰して、ぼくを選び直してください。もうじき一座は巡業の旅に出て、しばらくはお目にかかることも叶わなくなります。あなたに焦がれる可哀想なこの曲芸師を、少しでも哀れと思ってくださるなら、奥さまのお時間を少しでも恵んではいただけませんか?」


 貴婦人が笑う気配がした。

「あなたときたら、相変わらず口がお上手だこと。これまでだってわたくしはあなたとハルを交互に選んできたのに、あなたではなくハルを選んだときには、何か言ってきたことなど一度もなかったわ。きょうに限って押しかけて来たのはどうして? ほんとうはわたくしではなく、あの人魚が気になるのではなくて?」


「めっそうもない」

 ブランコ乗りは、驚いた顔をして、大きく首を振った。

「押しかけて来たい気持ちはいつでも持っております。ですが、正直、ナイフ投げには叶わないとも思ってきました。ナイフ投げを差し置いてしつこく言い寄っても奥さまに疎ましがられるだけだと思い、遠ざけられたらどうしようと思って、ずっと耐えてまいったのです」


「本当に口がうまいこと」

 優雅に貴婦人は微笑んだ。

「まあいいでしょう。そういうことにしておきましょうね。ついておいでなさい、アーティ。人魚はこちらよ」



 再びルビーはブランコ乗りに抱きあげられて、馬車に運ばれた。

 ブランコ乗りは、ルビーの泣きはらした目と、尻尾から形を変えてしまった2本の脚と、その左足首で色を変えてしまったアンクレットに、ちらりと目をやったが、何も言わなかった。

 ルビーを馬車の後部座席に座らせながら、ブランコ乗りは、初めて口を開いた。


「赤毛ちゃん。選手交代の時間だよ。きみは帰ってゆっくりお休み。あとはぼくがうまくやるからね」

 それから彼は、二頭立てを走らせる一座の御者に向かって伝言を頼んだ。明日の晩には顔を出すからと座長に伝えてくれ。それだけ言い残すとブランコ乗りは、貴婦人の屋敷に戻っていった。

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