79 青の奔流
「また様子を見にくるからね」とだけ言い残し、女将は扉の中から姿を消した。
デスマスクのような顔をした不気味な人型が引っ込んだ途端、扉はただの鉄の扉に戻る。それを見て取ると、それまでぶるぶる震えるばかりだったカナリーは、打って変って吠えるようにわめき始めた。
「だから言ったじゃない、あたし来るの嫌だって! それを無理やり連れてきて! ひどいじゃない! どうしてくれるのよ、閉じ込められてしまったじゃないの! 女将はあたしを折檻するって! きっとあたしを奴隷みたいに鞭でぶつつもりなのよ! こんなひどいことになるぐらいだったら、さっきの娼館に残ってた方がまだましだったわ!」
「大丈夫。別に閉じ込められてないから」
モリオンはそっけなく返すと、カナリーには目もくれず、床に伸びたままの異形の者の傍らに膝をついた。
「だって、ここからは出られないって女将が……それと、あんたは人間の術師だと思っていたのに違ったの? なんで女将さんはあんたを人外とか緑樹の精とか呼んでいたのよ?」
「わたしもあなたに質問があるのだけど……」
今度は顔を上げて、モリオンはカナリーに聞き返す。
「あの女将は一度はあなたをだましてひどい目に遭わせたのでしょう? まるで信用ができないってわかっている人のいうことなのに、どうして疑いもせずに鵜呑みにするの?」
「だって……」
一瞬言葉に詰まったカナリーは、ムキになって言い返した。
「だから、確認してるんじゃない。ねえ、答えてよマリア、あんた本当に──ちょっと、ねえ、マリア?」
カナリーの声は突然、咎める調子に変わる。
「あんた一体何をしてんのよ?」
モリオンが竜頭の化け物の甲冑に手をかけ、揺すっているように見えたからだ。
「ねえ、そんなもの触らないでよ。ねえ、揺さぶらないで。目を覚ましたらどうするのよ」
「揺さぶっていないわ。表と裏をひっくり返すだけ」
意味のわからないモリオンの説明に一瞬戸惑った顔を見せたカナリーだったが、次の瞬間驚愕に目を見開いて叫んだ。
「えっ? えええええええっ???」
カナリーが驚いたのも無理はない。ルビーもその場で目を瞬かせる。
異形の者とモリオンが、目の前でどんどん小さくなっていくのだ。
やがて2人は小さな人形ほどになり、親指ほどになり、穀物ほどになり、ごくごく小さな点になり、最後にはすっかり消えてしまった。
と思ったら、2人が消えたあたりから、白い霧が湧き始めた。霧は煙のようにもくもくと広がっていって、部屋全体に立ち込めた。
それで終わりではなかった。
霧が広がっていくにつれ、小さかった四角い部屋もどんどん広がっていく。いましがた女将の人型が蠢いていた入口の扉も、四方の壁も、奥の柱の向こうの別の部屋に続いているらしき暗がりも、すべてが果てしなく遠ざかっていく。
明かりとりの灯りが遠ざかっていくにつれ、その空間はどんどん暗さをまし、ほとんど夜のような闇に包まれた。
「何? 何これ? どうして? ロビン、助けてよ、ロビン、どうなってるの?」
カナリーはおびえて悲鳴を上げ、やみくもにルビーに抱きついてきた。
カナリーにしがみつかれたまま、ルビーは天井を見上げた。
そこには天井はなかった。闇夜のような空が、ぽっかりと広がっているばかりだ。星も月もない、真っ黒な闇の空。
そんな空が本当にあるのかルビーは知らない。
ルビーの生まれ故郷の北の果ての海は、夏の夜は一晩じゅう薄明るい。太陽が一日沈まない日すらある。また、冬のさなかの真夜中でも波の上に出れば、めまぐるしく動くオーロラの乱舞を目の当たりにすることが多い。オーロラの出ていない時間帯でも驚くほど綺麗な星明かりが波をきらめかせる。ルビーは何度も海の表に出て空を見上げたことがあるが、真の闇夜に遭遇したことは一度もない。
また、カルナーナの港町の夜も、本当の意味で真っ暗になることはない。大通りにゆらめく街灯をはじめ、さまざまな明かりが雲に反射するためか、雨の日でもほんのわずかな光が空から降りてくるのだ。
けれどもいまそこにあるのは、真の闇夜としか表現できないような吸い込まれそうな黒々とした闇の空だった。
「ロビン、カナリー」
霧の中心部から声がして、ルビーははっとそちらに目を向けた。モリオンの声だった。
「精霊に呑み込まれていた人たちを、そちらに届けるわね」
声とともに何かの塊が霧の渦から流れ出て、まるで水に浮かぶようにゆらゆらと中空を漂ってやってきた。それはルビーたちの目の前でゆっくりと下降し、静かに着地した。
霧の中から漂い出してきたのは、人間の女の子だった。石の床に静かに横たえられた女の子はぐったりと目を閉じて、眠っているみたいだった。
隣でカナリーがハッと息を飲む気配がした。と思ったら、カナリーは一層強くルビーの首っ玉にかじりついてきた。ぎゅっと目をつぶって、声もなくぶるぶる震えている。
そのあと何人もの人が渦から出てきた。青い瞼を閉じて眠る女の子の隣に、彼らは次々と横たえられた。
最後にモリオンが、ひょいと渦を飛び越えて出てきた。
いつのまにか、もとの大きさに戻っている。
と思ったら噴き出す霧の渦がくるりと反転して消え、さっき小さくなって消えたはずの竜頭の化け物に姿を変えた。
化け物は眠る人たちの傍らに漂っていって、同じように横たえられた。
「なんとか間に合ったみたい」
モリオンは横たわる人間たちと竜頭の傍らに膝をつき、独り言のようにぽつんと呟いた。
カナリーはガタガタ震えて、ルビーにしがみついたままだ。頭上に広がる漆黒の空にも、冷たい床に眠る人間たちにも、一切目を向けようとしない。
ルビーは首をかしげる。何が間に合ったというのだろう。
ルビーの疑問がわかったのだろう。今度はもう少しはっきりとした声で、モリオンは説明した。
「空腹に耐えかねて、消化してしまってるんじゃないかと心配だったの。一度穢れを内側に取り込んでしまったら、もう元には戻れないのよ」
元に戻れないって、どういう意味だろう? その人間たちが穢れ?
モリオンは顔を上げ、ルビーを見た。
「これがやつらのやり方。覚えておいて。恐れや憎しみや苦しみや悲しみや、そういった負の感情で心が埋め尽くされた人間を無理やり食らわせるのよ。人の絶望の持つ穢れを内側に植えつけることで、精霊の性質を変質させるの。結果、その精霊は根源につながる大いなる力から遮断され、存在自体が歪んできてしまうわ。どこにも行けない、何ものにもなれない、精霊ですらない、永劫の闇をさまよう怪物と化してしまうの」
やつらって? だれが? なんのために? 怪物って、人魚の同族だったという、あの闇の塊のような?
モリオンは頷いた。
「これは人間の仕業よ。強い力を欲する人間が、精霊の力を支配下において、自由自在に操るために考えついたことなの」
急激に霧が薄れて、黄昏のようなうすぼんやりとした明るさが戻ってきた。
どこまでも遠ざかっていたはずの扉や壁や明かりとりの窓が、いつのまにかもとの配置に戻っている。虚無そのもののような闇色の空も視界から消え、石でできた低い天井が、ルビーたちの頭上を塞いでいる。
けれどもそこはさっきまでの堅牢な牢獄ではない。
暗い緑の無数の蔦が、四方の壁際の石の隙間から這い出て、うねりながら伸び、壁を登り始めていた。蔦は急激に伸びていきながらどんどん太さを増し、鞭のようにバシンと音を立てて壁を叩き、暴れまわった。
ビシリ。
大きな破裂音とともに、壁の1つが裂けた。
天井がひび割れ、パラパラと石のつぶてが落下してきた。
ひょっとして、これはモリオンの仕業なのだろうか?
「そうよ」
声を出せないルビーの問いに軽く頷いて、モリオンは微笑んだ。
「あなたは知ってると思うけど、わたしの本体はこの壁の外側にあるから、この空間の制約を受けないの。外側からこの壁を崩すわ」
バシン!
また音がして、別の壁に大きな亀裂が入る。
ルビーは少し焦ってモリオンと眠る人たちを見比べた。動くことのできる自分やカナリーはともかく、意識を失って眠っている人たちは、壁や天井が崩落しても逃げることができない。石に挟まれて大怪我をするんじゃないだろうか。
それともモリオンはさっき人々を運んだ不思議な力を使って、降り注ぐ石つぶてから彼らを守ることができるのだろうか。
不意にルビーはどきりとした。明るさの戻った部屋の床に静かに横たわる人々を見ていて、突然、とある事実に気づいたのだ。
彼らは眠っているのではないのだ。だれ一人息をしていない。彼らは既に冷たくて、心臓も、身体のどの部分も動いていない。
舞姫の使いで見世物小屋を訪ねた日、カナリーの部屋の寝台に横たえられていた火焔吹きと同じだった。
異形の者の甲冑を当てた胸だけが、微かに微かに上下していた。
「彼は──ここに閉じ込められていた精霊は、この人たちの命を奪おうとしたわけではないの。彼は契約によって人間に支配され、無理やり人を飲み込まされていただけ。それでも、自分の内側に取り込んでしまったらおしまいだとわかっていたのね。精いっぱいの抵抗をしていたんだわ──半年もの間、力を奪われ、すべてのエネルギーから遮断されたままこんなところに閉じ込められて、どんなにかひもじかったでしょうに」
ガタガタ震えていたカナリーが、突然ルビーから離れ、2、3歩下がって、再び叫び声を上げ始めた。
「嫌よ! こんなの嫌! 戻してっ! あたしを外に戻してよっ!」
「カナリー」
モリオンの呼びかけにもぶんぶんと首を振るばかりのカナリーは、やみくもに喚いて後ろに下がり続ける。
「見たくなかった。この子が死んでしまったのなんて見たくなかった。あの女将の言うとおりになったのなんか、見たくなかったのよおおお」
「カナリー」
モリオンはちょっと困った顔になる。
「もうじき水が来るの。あなたの話はあとで聞くから、気をしっかり持って」
「嫌よ、嫌ああああああっ」
水が来る?
ルビーはきょろきょろと周囲を見回した。
そういえばさっきから、地鳴りにも似た何かの音が響いて来ていた。
水音?
ルビーの疑問に答えるように、モリオンは頷いた。
「直接精霊界を、この空間に呼んだの。人間界にうまく呼ぶび込むのは難しいけど、ここは異空間だからかえって簡単だわ。力がぶつかってこのフィールドが跳ね飛んでもかまわないから」
水音はあっという間に近づいてきてすさまじい轟きと化した。
轟音とともに明かり取りの窓が破れ、すさまじい破裂音とともに鉄格子が撥ね飛んだ。続いて石の壁が崩れ、天井がバラバラと落ちてきた。その向こうから真っ青な奔流が大きな波となって押し寄せてくる。水でありながら光のような輝く青は、その飛沫までもがきらきらと輝く。
奔流の向こう側に、空の青。深いコバルトの宙空を縦向きに走る透明な水の壁。壁の面を、銀色の腹を見せながら無数の魚が跳ね、空を泳ぐ。
初めて見る、なのにどこか懐かしく心を揺さぶるその光景に、声もなくルビーは見とれた。
ルビーもモリオンも、恐怖に目を見開いて立ちすくむカナリーも、眠る半竜の男も、床に横たえられた人々の亡骸も、その光の渦に飲み込まれ、大きな水の流れの中に投げ出された。




