78 結界師
カナリーは顔を強張らせ、甲高い悲鳴を上げながら、壁から小さく一歩後ずさった。
小さく一歩だけ──。少なくともルビーにはそう見えた。
が。
その一瞬。ほとんどひとっ飛びで、カナリーはルビーのもとにやってきた。
空気がぶわんとたわみ、弓のようにしなってカナリーを引きよせたのだ。カナリーはあり得ない速さで空中を滑って開け放たれた鉄の扉をくぐり、ほとんど衝撃もなくルビーの隣に着地したのだった。
続いて鉄の扉が重々しい音を立ててドオォォーンと閉まる。
ドアの閉まる直前、廊下の中空を照らし出していた光源が、隙間から石牢の中に滑り込んできた。
モリオンは光源を自分の手のひらに引き寄せ、そのままぱちんとどこかに消してしまう。
天井近くの小窓から入ってくる黄昏色の光のため、部屋は薄明るく、あえて灯りを点す必要はなかった。
「来るわ」
モリオンが、いましがた閉じたばかりの扉を指差し、ささやくような声で言った。
鉄錆色の扉の表面がぐにゃぐにゃと歪み始め、人型に浮き出してくる。
「あんたたち、ほんとに馬鹿だねえ」
人型は薄気味悪い表情でクスクス笑った。
「ここはあたしのつくりだした異空間だよ。普通の結界とも違うし、そもそも普通の空間とも違うんだ。ここに閉じ込められたあんたたちは、袋のねずみだよ」
鉄でできた人型は、近くで見るといっそう不気味だった。
カナリーがガタガタ震えながら、ルビーの腕をぎゅっとつかんできた。
ルビーは振り返ってモリオンを見た。
モリオンが落ち着き払っているのを見て、ルビーも少し安心する。モリオンは最初にルビーが出会ったとき、大砲と呼ばれる鉄製の武器を手で触れるだけでバターのように溶かし、粉砕された塔の石の欠片をすべて空中に浮かべて見せた魔力の持ち主だ。
「道理で……」
そのモリオンが口を開いた。
「半年前に姿を消した精霊が、どこを探しても見つからなかったはずだわ。こうやって別の空間に隠してあったからなのね」
「そうとも」
にたりにたりと鉄の人型の口元が歪む。
「いい考えだろう? 普通に結界を張って隠しただけじゃ、政府の犬やら奴隷商人ギルドの連中やら、有象無象のやからが嗅ぎまわってうるさいからね」
「閉じ込められた精霊が、そのあと何に使われるのか、あなたは知ってるの?」
「知ってるさ。食うんだろう? 今は固いが、熟成させると柔らかくなるそうじゃないか。お貴族さまの命と魔力を支える大事な糧だ。あたしゃ貴族の出自じゃないが、ほんとうに魔力が増すならば、ご相伴にあずかってみたいもんだね」
「この精霊をここに閉じ込めて隠しておくように、あなたに命じた貴族はだれなの?」
「それを聞いてどうする気だい?」
女将の声でしゃべる鉄の人型は、歯をむき出した。
「どのみちあんたはここから出られないよ、生贄の娘。ここはあんたにふさわしい牢獄だと思わないかい? 森に捧げる生贄として育ったあんたにさ。緑樹さまなどと呼んで崇めたてまつる連中もいるようだが、あんたはもとはただの生贄の娘だろう?」
衝撃的な女将の言葉だったが、モリオンは薄く微笑んだだけだった。
「あんたが森から逃げ出したから、あの森はむざむざとあの若造の焼き討ちに遭った。無限の魔力をたたえた森だったのに。いくらでもこの世を変えられる、素晴らしい力の源となるはずだったのに」
「あら、あなた、そんなこと愚痴るためにここに来たの?」
どこか残念そうな女将の声に対し、返す少女の声は冷やかだった。
「あなたはまるで素晴らしいことのように言うけれども、あれってつまり、精霊の力を歪めて森を妖魔の地に変えて、人間の欲のために利用しようとしていただけじゃないの。おぞましい計画だったわ。真実を知れば、到底受け入れられないようなものだった。あとで森が焼かれてしまったことは、そのこととはまた別の話だわ。妖魔の力を森が手放したとしても、別の形での森の再生を、きっと願うことだってできていたはずなのに──」
少女は夢見るように一度目を閉じ、再び鉄の人型を見据えた。
「そう。あなたもまた、あのときアララークにいたのね。当時の状況を知っているというわけ。でも、あの計画は頓挫したし、もう一度同じことを別の場所で企てようとしても無駄よ。あのときわたしは無知だったから、自分のとった行動が本当に正しかったのか、迷って悩んで惑わされて──巻き込んでしまった人たちもいたのだけれども──」
「正しいものか。国を一つ潰して」
人型はますます歯を剥き出して、獰猛ともいえる表情をつくった。表情が変わるたび、ざらざらと流れる鉄の表皮がこの上なくグロテスクだ。
「かの国アストライアが跡形も残さず潰れたのはおまえのせいだ。おまえが生贄になるのが嫌で、逃げたせいだ。大義名分などあとからつけ足しただけだ。おまえの力のすべてをあの森に与えていれば、滅びたアストライア聖王家の代わりとなるはずだったのに。おまえは自分が死ぬのが嫌なだけだったんだ。他の者たちを犠牲にしても平気だったんだ。おまえは自分さえ助かればそれでよかったのさ」
女将はいまにも唸り声を上げて噛みつきそうな形相で、毒々しい言葉をまき散らす。
「昔から類は友を呼ぶってことわざがあるが、どうだい? そこにいるカナリーとおまえは、本当によく似ていると思わないかい? 自分だけがかわいい。ほかのやつのことなんざ、知ったこっちゃない。どうなろうが関係ないんだ。この子は一緒にやってきたもう一人の娘を、そこに寝ている竜頭に食わせて、自分だけがのうのうと逃げたんだ。一緒にいるだけあって、あんたたち、何から何までそっくりじゃないか」
カナリーは引きつった顔でモリオンを振り返り、それから激しくかぶりを振った。
「あっ、あたしは違う! 違うもの! あの子がどうなってもいいなんて思わなかったもの! あんたがあたしに焼きゴテを当てようとしたからじゃないの! 怖くて怖くてどうすればいいのかわからなくなったんだもの!」
「自分は悪くない。そういって言い訳をするところもまた、そっくりだねえ?」
鉄の顔の口元が、笑いの形にぐにゃりと歪む。
「ねえ、生贄の娘、どうせあんたの周りにはそんなやつばっかりが集まるんだろう? あの太った男だってそうだ。いまじゃカルナーナの首相などと言って大勢の手下を従えて威張ってふんぞりかえっちゃいるが、ありゃ、ただのできそこないの術師じゃないか。先代の賢人グレイハートの弟子だったが、邪心が強すぎて破門にされちまったっていう、いわくつきのね。それが、いかにも自分らが正しいって顔で、あたしらを悪者扱いしているだけだろう? 滑稽だね」
そして女将はケラケラと笑い始めた。
ぐにゃぐにゃと鈍く動くその鉄色の顔を、ルビーはじっと見つめた。
女の言葉に既視感を覚えたためだ。言っていることがこの上もなく胡散臭いにもかかわらず、微妙に本当のことが混ざっているような印象を受ける。
多分、全くの口から出まかせというわけではないのだ。女将はモリオンの過去について何か知ってはいるのだろう。カルロ首相と賢者グレイハートとのいきさつについても、事実とまるで違うことを述べているというわけではないのだ。ただ、悪意によって歪められているだけで。
以前、ハマースタインのお屋敷に押し掛けてきて、見世物小屋の人たちを見下していた憲兵隊長。ブランコ師アートに対して憎悪も露わに蔑みの言葉を口にしていた王家の子孫。ロクサムのことを悪しざまにののしっていたカナリー。
あのときルビーが自分なりの判断基準を持つことができたのは、一緒に住んでいた見世物小屋の人たちのことをそれなりに知っていたからだ。けれどもいま言われているカルロ・セルヴィーニのことも、モリオンの過去も、ルビーはよく知らないことだったから、どこからが嘘でどこまでが本当なのかがよくわからない。
女将の言葉のどの部分がどの程度、悪意によって歪められているのだろう。
モリオンが自分一人が助かりたいために何かから逃げ出したとは思えないし、別のだれかが犠牲になることをよしとするようにも思えない。けれどもどこかの森で──それがアララークの森なのかアストライアという国にある森なのかわからないが──そもそも何が起こったのだろう。
カルロ・セルヴィーニが一筋縄でいかない魔術の使い手であることは、ルビーもこの目で見て知っている。
けれどもルビーはまた、モリオンと最初に会った南の島で見かけた白髪の若者のことも思い出していた。太ったカルナーナの首相とあの白髪の若者──賢者グレイハート──がかねてからの知り合いであったようには、少なくともルビーには見えなかった。
本当にそうだろうか?
人間の世界に来てルビーが最初に戸惑ったのは、"人の世の理"と言われるさまざまな制約だ。
あの場所に居合わせた人たちの中では多分、アララーク元首と呼ばれる若者アルベルトが一番偉い人だった。強国の元首の訪問をもてなす小国の為政者と、元首につき従ってやってきただけの立場のグレイハートが世話話のできるような場ではなかった。
顔を上げると、モリオンの冴え冴えとした黒い目と目が合った。
「カルロ首相が老グレイハートの弟子だったことがあるのは本当よ。賢者さまの1人目の弟子は還俗し、2人目の弟子は破滅し、3番目の弟子がその名を継いだの」
グレイハートの3番目の弟子。
モリオンのその言葉に、ルビーは目を見開いた。
それは、あの南の島で、大きな傷のある顔を布で覆っていた白髪の若者が、かつては"グレイハートの3番目の弟子"と呼ばれていたということなんだろうか?
だったら、ハマースタインの奥さまがかつて亡き夫の死因を遠視してもらうために呼んだという術師とあの白髪の若者は、同一人物だということになりはしないか?
「還俗だって? 還俗! 耳当たりのいい適当な言葉でごまかしたって駄目さ。あいつは破門されたんだ。破門だよ」
モリオンの言葉を聞いた女将は、再び鉄色の歯を剥き出した。
「卑しい靴屋の息子のくせに! 貴族どころか術師の家系ですらなかったくせに! そんな卑しい身分のものが、一国を手中におさめようなど、分不相応な野心もいいところだ。だから破門されたのさ。グレイーハートの名を継ぐにはふさわしくないと判断されてね」
モリオンは冷やかなまなざしでそれを一瞥し、小さく肩をすくめた。
「いいかげん、壁や扉の中に隠れるのはやめて出て来たらどう? ぐにゃぐにゃ動いて気味悪いったら!」
「嫌だね。おまえは人の目を見て内側から情報をかすめ取っていくから、油断がならない」
それから女将はにんまりとほくそ笑んだ。
「だが、もうこちらの手の内だからね。この空間は、おまえらのような人ならざるものらの魔力を奪うようにつくられているのさ。おまえはこの空間に長くいるほど力を失って弱っていくんだ。さっき外の世界に通じる扉を力を使って強引に閉めてしまったようだが、そいつがとんだ失策だったってわけさ」
と、女将は今度はくるりと身体をルビーの方に向ける。
カナリーはガタガタ震えながら、一層強くルビーの腕にしがみついてきた。
「この空間は、人外のものからは魔力を奪うが、人間の身体にとっては時間の流れがおかしくなるようになってるらしくてね。だから相当長い間ここにいても、空腹やのどの渇きに苦しむことはないんだ。何日かここを封鎖して緑樹の精が弱ったら、あんたたち2人を迎えにくるからね。それと──」
鉄でできた腕がにゅるんと持ち上がり、カナリーを指差した。
「あんたには、あとでちょっと折檻が必要だねえ。こんな風に取引先から逃亡されたりしたら、こちらの信用がガタ落ちになっちまうからねえ。今度は別の買い手を探してやるが、その前に、もう2度と引き取り先から逃げ出そうなんて気を起さないように締めておかなくちゃならない。それとも絶対逃げることができないような相手のところにでも売るかね」
「ひっ……」
カナリーは歯をカチカチ鳴らしながら、ぶるぶると首を振って後ずさる。ルビーは横から引っ張られて2、3歩よろめいた。
「こっちの子は、なんとまあ珍しい髪の色だねえ……」
女将は今度はルビーを見て、黒眼も光彩もない鉄でできた目を細めた。
「カルナーナでは珍しい。色白で、器量もなかなかだ。欲を言えばもう少しふっくらした方がいいが──この赤い髪は、北方系の血を引いているのかね? 珍しいもの好きの金持ちだったら、大金積んででも欲しがるかもしれないねえ」
悦に入ってぶつぶつ言っている女将を、ルビーは怪訝に思いながら見返した。
女将はモリオンのことを緑樹の精といい、人外のものといいながら、さっきから自分のことはカナリーと同じ人間だと思っているようだ。
人間の姿をしていても、ルビーは人魚だ。そのはずだった。
ひょっとしたら違うのだろうか? ルビーは自分でも知らないうちに、いつのまにか人間になってしまったのだろうか?
戸惑ってモリオンを振り返ったが、モリオンは女将の言葉を聞いているのかいないのか、涼しい顔のまま沈黙していた。




