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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[六] アンクレットと人魚の涙
77/110

77 異界の扉

 ジュリアとジュリアの子猫──子猫に姿を変えたブルーレースアゲートの化身──は、従業員用の廊下と地下通路をつなぐ階段を途中で引き返していった。

 ルビー、カナリー、モリオンの3人は無事に地下に下り、暗がりの中に身を潜めて彼らが去るのを待った。


 地下に向かう廊下を通るとき、モリオンは姿を消す術をルビーとカナリーにかけていた。姿は見えなくなっても、すれ違う人が多いとぶつかって驚かせてしまう。それを避けるために、ロメオとジュリアには宿泊客を装って3人をここまで誘導してもらったのだった。


 ジュリアの胸元の守護石の化身を呼び出したのもモリオンだ。精霊の一種だが、自然界に存在するものではない。術を使って道具の意識に直接呼びかけ、その覚醒を促すのだ。そうやって呼び出されて初めて、精霊としての意識を得て存在するものになる。

 場合によっては召喚した術師の眷族となることもあるが、今回は守護石そのものがジュリアに強く共鳴しているため、呼び出したモリオンではなくジュリアに属する存在となる。子猫を呼び出したモリオンは、ジュリアにそう説明していた。



 ジュリアとロメオを客室に案内していた従業員の若者は、2人とともに階段をのぼっていったあと地下通路への入り口のドアを完全に閉めたらしかった。

 さっきまでざわざわと聞こえてきていた地上からの一切の音が遮断される。

 

 モリオンはすぐさま手のひらに小さな太陽のような光源を出現させた。それは静かに天井あたりまでのぼっていき、中空から通路全体をこうこうと照らし出す。

 明るくなった地下通路をルビーはきょろきょろと見回した。

 通路には一定の間隔で蝋台が置いてある。蝋燭の火は今は完全に消えていたが、その全部をつければモリオンの使う光源がなかったとしても廊下は結構明るいはずだった。

 どこかから風が通り抜ける。室内とも思えない冷たい風だった。洞窟の中のような、湿った地下水のにおいがした。


「もうしゃべってもいいわよ、カナリー」

 振り向いてそう声をかけたモリオンを、カナリーはキッと睨みつけた。

「声を出せなくするなんてひどいわ」

「だって声を出しておしゃべりしてたら、術で姿を見えなくしていてもだれかに見つかってしまうでしょう? 通ってきた廊下にはたくさん人がいたし……でもロメオが威嚇してくれたから通行人はみんな避けてくれて、うっかり誰かにぶつからずにここまで来ることができてよかったけど」

「あたしここには来たくなかったのに! 勝手に連れてくるなんてひどいじゃない」


「あなたの助けが必要なの」

 モリオンはカナリーの怒りには取り合わず、ただそう繰り返した。

「嫌よ、あたし協力しない!」

「あなたはいるだけでいいの。特別な何かをしてもらう必要はないわ」

「嫌、帰る! あたし行かない!」


 カナリーが叫ぶようにそう言ったので、ルビーは声が地上へ届くのではないかとひやひやした。

 モリオンは落ち着きはらった様子で聞き返した。

「では1人でここに残る?」

 カナリーは少したじろいで周囲を見回した。

「さっきの従業員には特に不審には思われなかったみたいだけど、彼が報告をしたら女将は様子を見に来るかもしれないわよ。それともいまから階段を上って廊下に出て、自分で宿の外に出て行くの? だれかに見咎められたらどうするの? それよりもわたしと一緒にきてくれた方がちゃんとあなたを守れると思うわ」


「だって……でも……」

 そう口ごもりながらもカナリーはモリオンを睨みつける。

「あの化け物のところは嫌! ぞっとする声で言ったの! あたしを食べるって! 小指をくれって! 手首まで食べさせてくれって! 食べれば元気になるって! 食べれば人間の姿に化けられるって! 気持ち悪いの! 嫌なの! 怖いの! ぞっとするのよ!」


「ではここに残るのね?」

 あくまでも冷静な声でモリオンはそう聞き返す。

 カナリーはそれには答えず、いやいやというように首を横に振った。

「手のひらを見せて、カナリー。異界への道を開くわ」

 モリオンの声とともに、カナリーの手のひらから青白い炎のような光がゆらめき立つのを、ルビーはびっくりして眺めた。


 光は波打つ水の表のようにゆらゆらと姿を変えながら、一つの方向に引き寄せられるように流れ始める。

 その先のドアの一つが、光に呼応するようにぼんやりと同じ色に光り始めていた。


「ロビン」

 振り返ってモリオンが呼ぶ。くっきりとした切れ長の黒い瞳がルビーを見ている。

「お願い。あの扉を開けてみて」

「駄目っ!」

 扉に向かって歩みかけたルビーをカナリーは制止する。

「駄目よっ! 開けないで! 化け物がいるのよ!」


 どうしよう、とルビーは困って2人を見比べた。

 カナリーがどういう子なのかを、最初にルビーからモリオンに説明しておいたほうがよかったのではなかっただろうか? 夜の闇の中、娼館の通風口でモリオンと鉢合わせたときに。

 窮地を救われたことをカナリーがたとえ感謝していたとしても、その返礼として進んで何かをしようとはしないかもしれないというのは、カナリーの性格からして十分予想できていたはずだ。

 カナリーの協力が本当に必要だったら、娼館から救い出すときに交換条件としてあらかじめそれを提示することもできたはずだったのだ。

 あのときルビーがモリオンに助言できていたら。


 もしもルビーが言葉を話せたら、いまだってカナリーに言うことができる。救出計画は最初から一か八かのものだった。カナリーは契約書にサインをしてしまっていたから、あのときルビーが強引に連れ出していたら、親方やロメオやハマースタインの奥さまを犯罪者にしてしまっていたかもしれなかったのだ。

 モリオンが来てくれたから、カナリーは問題を起こすことなく大手を振って娼館をあとにすることができたのだ。

 そのことの引き換えとしてモリオンがカナリーに頼んでいることが、不当に大きな要求だとはルビーには思えない。

 でも、ルビーにとってはそうでも、カナリーにとっては違うのかもしれない。カナリーは何をどう考えているのだろうか。


 口が利けないのは、なんて不便なことなんだろう。大抵の相手に対しては何かを伝えることも、相手の意図を確認することも、共通の理解を得ることもできないのだ。


 そんなルビーを見て、モリオンは微笑んだ。

「時間がなかったのよ、ロビン。カナリーを説得する手間を省いたのはわたしだから、あなたのせいじゃないの」

 彼女の黒い瞳は、声にならない頭の中だけでぐるぐる回っているルビーの考えを読み取ることができる。

 また、いまこの場にはいないがロメオも唇の動きを読み取ってルビーが言いたいことをくみ取ってくれる。

 ルビーがこれまで、声の出ない不便さ不自由さを感じずに済んできているのは、この人たちのおかげだ。 


 モリオンが短く「お願い」と繰り返したので、ルビーは扉に近寄った。ノブに手をかけると、カナリーは金切り声を上げた。

「ひどいわロビン。どうしてあたしの言うことを無視するのよ」

 ルビーは今度こそカナリーの声が地上に届いたのではと心配になる。気がかりな様子で天井を見上げるとモリオンが言った。

「この宿の女将にはもう気づかれたと思うわ」


「えっ?」

 ぎょっとした顔で振り返ったのは大声を出した当のカナリーだ。宿の人間に気取られるかもしれない可能性についてはまったく考えていなかったらしい。


「いいえ。違うわ。気づかれたのはあなたが声をあげたせいじゃない」

 しかしモリオンは首を横に振って説明する。

「さっきドアに結界を張ったから声そのものが漏れているわけではないの。でもここで結界の術を使ったことが、かえって気づかれてしまった原因みたい。この宿の女将はどうやら多分結界を扱うのに長けているタイプの術師みたいね」

 言いながらモリオンは上り階段を見上げた。

「もう間もなくここに来るでしょう。階段上のドアは開かないように術をかけているけど、女将が優秀な結界師ならば別の入り口を通ってここにやってくることもたやすいはず。そのまえにこの通路は抜けて目的の場所まで急ぎたいわ」


 声もなくカナリーは身震いするばかりだった。

 一方ルビーは再度促されるまでもなく、ノブを回して光る扉を開けた。重い鉄の扉だったから全体重をかけてやっとの思いで引き開ける。

 だが覗き込むと、中はただの野菜貯蔵室だった。ジャガイモやニンジンがたくさんの木箱いっぱいに詰められて何列にも積み上げられている。干したタマネギやエシャレットや名前もわからない大量の野菜が天井からつるしてある。


「やっぱりね」

 モリオンは頷いた。扉の向こうに何があるのかが彼女にはあらかじめわかっていたらしい。

「一度閉めてもらえる?」

 言われるままルビーは全身を使って重い金属の扉をゆっくりと閉める。


「カナリー」

 黒髪の少女は、縮こまって震えている金髪の少女を呼んだ。

「こちらへ来て。扉に手を当てて」

 おびえながらもカナリーは今度は逆らわず、言われるままに両手を鉄の扉に当てた。少女の両手はまだ青白い光を放ち続けている。

 少女の掌が扉に触れた途端その光は強さを増し、音を立てそうな勢いでぶわっと噴き出してドア全体を包んだ。

 まるで光の塊と化してしまったドアの様子に驚いたルビーだったが、モリオンもかすかに首を傾げると小さくつぶやいた。

「変ね。結構時間が経ってるのに精霊の印が全然薄れてない」


 モリオンは気を取り直した様子で、もう一度ルビーに扉を開けるように促した。

「精霊は女将のつくり上げた異界の小部屋に閉じ込められているの。この野菜貯蔵室への入り口に重なるように、異界への入り口を隠してつくっているのよ。カナリーの手に浮かぶ聖痕の力を手がかりに異界への通路をつなげるわ」


 今度はルビーが力を込めるまでもなく、軽く引くだけでほとんどひとりでに扉は開いた。

 大きく開かれたドアの向こうに広がるほの暗い空間は、さっきルビーが覗き込んだ野菜貯蔵室とは全く別の場所だった。


 そこに姿を現したのは四角い石で出来た堅牢なつくりの地下牢だ。天井の当たりの鉄格子がはめ込まれた小さな窓からかすかな光がおりてきて、冷たい石の床をぼんやりと照らしだしている。

 そして入口の数段しかない階段を下ってすぐのところに、ひどく異様な姿をしたものが、横たわり眠っていた。


 グロテスクな爬虫類の頭と下半身を持つ、首の下から腰のあたりまでが人間の姿をした異形の生き物。

 飛び出した眼球は岩肌のようなゴツゴツとした瞼に覆われ、大きく裂けたくちばしのような口はぴったりと閉じられている。

 カエルのように左右に曲がって広がった下半身に大きくて重そうな尻尾。尻尾は途中でぶっつりと切り落とされている。

 異形のものはぴくりとも動かなかったが、死んでいるのではない証拠に、甲冑を当てた胸が静かに上下していた。


 開け放たれた扉をモリオンは静かにくぐり、ルビーもそれに続いた。

 モリオンはカナリーも一緒に来るように手招いたが、カナリーは息を飲み、じりじりと後ずさりした。そのまま通路の反対側の壁まで下がっていったカナリーは、弱々しく首を振った。

「そっちに行くのは嫌。怖い、怖いの……」


「そりゃ、当然だろうねえ」

 不意にカナリーのすぐ真横から声が聞こえて、彼女は飛び上がった。

 ルビーのものでもモリオンのでもないその声は、どこかキツい印象の早口の中年女性の声だった。

「あの竜頭りゅうあたまはおまえの犯した罪の象徴だもんね」


 扉もなにもなかったはずの壁の一部から浸み出すように人影が現れ、ぐにゃりと前に出てきて完全に人の形となった。


「ここに来たもうひとりの娘がどうなったか教えてやろう」

 歪んだ空間が人の形をとったような、ぐにゃぐにゃの顔が、にやりと笑った。

「カナリー、あんたの想像通りだよ。あの娘は竜頭りゅうあたまの餌になっちまった。丸飲みだよ。あんたがまんまと逃げたおかげでね。かわいそうに……」

 人型は、ケタケタと耳障りな声を上げて笑った。

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