76 潜入
客室案内係の若者は廊下の角で一度振り返ると、これから部屋に案内するカップルをちらりと見た。
男の方はスキンヘッドに強面の筋肉隆々たる大男で、女は幼さの残る面差しの茶色の髪の小柄な少女だ。
恋人同士……なのかもしれないが、何か普通の恋人同士とは違うような──何か訳ありのような気がする。確たる根拠はなかったが、たくさんの宿泊客の対応をしてきたこれまでの経験から彼は、その男女連れにある種形容しがたい違和感を感じ取っていた。
まず時間が普通ではない。
夜ではなく昼間チェックインする客もいるにはいるが、それにしてもいまは朝の喧噪のただなかだ。休息を取った人間がちょうどこれから動き始める時間なのだ。
ひょっとすると夜を徹して旅をしてきて、夜明けとともにこの街に着いたばかりなのかもしれない。これから仮眠をとるのかも。
そう考えてもう一度ちらりと見るが、旅人にしては薄汚れた感じが全くしない。荷物もコンパクトだ。
なにより少女がその腕に抱きかかえている動物をわざわざ旅に連れて出るのは不自然だ。夜間の街道を突っ切る強行軍であるとすればなおのこと。
その動物は少女の腕の中で丸まって目を閉じていた。くつろいでいる様子だった。淡いグレイの毛並みの猫だった。それも子猫だ。生後1カ月も経っていないだろうふわふわのやわらかい生き物。小動物を捕えて食べるよりもまだミルクを好んで飲む月齢だ。
違和感はそれだけではなかった。
もうひとつは2人の服装。
男は腰に剣を帯び兵士のようななりをしている。服の仕立ては非常によいものであったから、流れ者などではなくどこかの金持ちの私兵といったところか。
少女の方はシンプルな麻の上下に身を包んでいる。下町の少年のような服装だ。煙突掃除とか庭仕事とかをするのに適したいわゆる作業着だ。
若者がずば抜けた大男であるにもかかわらず完全オーダーメイドの体格に合わせた服を着ているのに対し、娘の作業着は身に合っていない。長すぎるズボンの裾と袖口を無造作に折り返して着ている。
もともと汚れが目立たない布の色だが、見たところ下ろしたての真新しい服のようだ。
つまり男の服装は身に馴染んだものであるが、少女の服はどこかから引っ張り出してきた借り物のように見える。普段はこの女の子は違う身なりをしているに違いない。
駆け落ちかな?
そう考えながら案内係はこれから案内する部屋のドアの前で立ち止まってカップルを待つ。
普段は少女は上流階級の娘が着ているドレスを着ているのかもしれない。男が勤務している屋敷かどこかの主人のお嬢さんだったりするのかも。
ドレスを脱いで目立たない服に着替えることには同意しても、猫を置いて行くのを少女が嫌がったのかもしれない。どう考えてもペットは駆け落ちの邪魔になる。だが少女は一緒でなければ行かないといい、男は仕方なしに一緒に連れ出したのかもしれない。
ホテルは地上4階建ての大きな建物だったが、2人は階段を使わない1階の部屋を希望している。
追手に見つかったとき庭から逃げられることを計算に入れてのことかもしれない。
むろん若いカップルが地階を希望するのは珍しいことではない。上の階は眺めはよいが利用料・宿泊料が高めに設定されているからだ。
しかしフロントマンとのやりとりから男が金には不自由はしていない様子が見て取れた。この宿は街中でもどちらかというと高級な部類の宿泊施設だ。料金は一泊単位でのみ計算され、イレギュラーな時間のチェックイン・アウトはそれに追加料金が加算される。つまりきょうはまだチェックアウト前の時間であるため室料はほぼ2泊分に近い料金計算になっている。だが彼はしぶる様子もなく全額前払いで払い、2人分の朝食のルームサービスと子猫に飲ませるミルクを持ってきてくれるように頼んでいた。
もしかしたら少女は別に上流階級の娘などではないのかもしれない。子猫は男から少女にプレゼントされたものかもしれない。
あるいは2人は恋人同士ですらないのかもしれない。
何か事情があって少女は男に買われただけなのかもしれない。
男は金回りはよさそうだが、あまり柄がよいとはいえない。肩をいからせふんぞり返って廊下を歩き、他の宿泊客をすれ違いざまにギロリと睨む。岩のようにいかつい大男であったから、他の客たちはみな視線を合わせないように廊下の隅によけて男が通り過ぎるのを待つ。
一歩下がって無言で男につき従う少女を見ていると、どうも2人が釣り合っていないというか、恋人同士というにはやはり何かが不自然な気がする。
案内係は様々な憶測を澄ました表情の下に隠し、2人のために部屋のドアを開けた。
「どうぞ、お客さま。こちらのお部屋になります」
ところが──。
鍵が外れるときのカチャリという音に驚いた子猫が不意に少女の上から飛び上がり、すとんと床の上に降りた。
「あっ!」
慌てて身を屈め、抱き上げようとした少女の腕をするりと抜けて、子猫は廊下の突き当たりに向けてトコトコ走り出した。
「待って!」
子猫を追って少女も廊下を走り出した。
「おいっ!」
男も部屋に背中を向けて少女を追った。
「お客さま!」
案内係は仕方なく一端部屋に鍵をかけて彼らを追った。
ところどころ燭台の火が揺れる長い廊下にはチェックアウトに向かう客の姿がちらほらと見受けられる。睨みを利かせてただ歩いていたときですら他の客をおびえさせた恐ろしげな風貌の男が、怖い形相で走ってくるのだ。彼らは慌てて顔を伏せ、廊下の隅に避けて男をやり過ごした。
人の流れが途切れたところで、子猫は一度振り返って少女を見上げたあと足を速めた。そのまま子猫は人気のない廊下を曲がり、従業員用の通路を軽やかに横切って地下に向かう下り階段に飛び込んだ。
「お待ちください、お客さま」
案内係は制止したが間に合わず、少女と男は子猫を追って階段を駆けおりていく。
廊下のはずれにある地下通路への階段への入り口は普段閉まっているはずだったが、その朝はなぜか開いていた。
地下にはワインセラーと野菜貯蔵室と物置がある。ワインセラーには特別な客に出す高価な年代物のワインが貯蔵されている。だから関係者の間でも一部の人間を除いては立ち入りできないことになっている。また出入りの際には必ずドアを締め切るように普段から指導されている。うっかり宿泊客を案内してもいい場所ではなかった。
「お客さま。猫はこちらでお探ししますのでお戻りください」
客室係は一番近くの燭台の火を取り上げると、階段を下りながら後ろから2人に声をかける。
階段の途中で男の方が立ち止まった。
「彼女が下まで降りちまったんだ」
男は振り返り、眉毛もまつ毛もない恐ろしげな顔に苦笑を浮かべた。
大男は階段いっぱいいっぱいに幅を取って案内係の前に立ちふさがっている。階段は狭く普通の体格の人間同士がやっと身体を交わすことのできる幅しかない。目の前の男は二の腕が普通の人間の腰ほどもある巨漢だ。隙間をすり抜けて案内係だけが地下に向かうのは難しそうだった。
一瞬案内係は迷った。一度男に地上に戻ってもらって自分だけが改めて地下に降りていくべきか。
いや、既に1人は下に降りてしまったのだ。ここは男に灯りを渡して一緒に降りていった方がいい。
「暗いから足元にお気をつけください」
案内係は男に注意を促しながら、燭台の火を手渡した。
と。
するりと足元に何かの感触が当たった。驚いて見下ろす案内係の目にグレイの毛並みが映る。さっき逃げていったはずの子猫だ。いつの間にか大男の脚の間をくぐりぬけて戻ってきたらしい。
子猫は案内係の足元にじゃれついて、罪のないつぶらな瞳で見上げてきた。
暗がりの中で大きく膨らんだ光彩は、ややグレイがかった水色だ。とても綺麗な色をしている。こんな色の石のアクセサリーがなかっただろうか。とっさに逃がさないように子猫を抱き上げながら、客室係はとりとめもなくそう思った。
「おい」
大男が階段の下に向けて声をかける。
「アゲートが戻ってきたぜ。宿の人が捕まえてくれてるからこっち戻ってこい」
慌てたように少女がパタパタと階段を上ってくる音が、下から小さく響いてきた。
アゲートというのが子猫の名前らしかった。
アゲートは石の名前でもある。案内係はそれを思い出すとともに、子猫の目の色と同じ石の名前を思い出す。ブルーレースアゲートという石だ。子猫の名前はその瞳の色にちなんでつけられたのだろう。
子猫は案内係の腕の中でおとなしくしてはいたが警戒しているのだろう、ブルーレースアゲート色の目を見開いたままじっとこちらを見ていた。
先に立って階段を上り1階の廊下に戻ると、案内係は少女に子猫を手渡した。貯蔵室やワインセラーを荒らされることもなく、ほとんど騒ぎになることなく収拾がついたことに内心ほっとしながら、地下通路につながるドアを後ろ手にそっと閉める。
あとで女将には報告しておいた方がいいかもしれない。
もっとも報告するまでもなくこの施設の女支配人は宿の様子を知っていることが多い。
この宿の女将は魔女だという噂があった。千里眼だというのだ。そうでなければ説明のつかないようなことでも、報告する前から女将にはわかっているのだ。
とはいえ子猫がちょっとのあいだ地下貯蔵室に迷い込んだだけの話だ。
さしたる問題ではないだろう。
両手で子猫をふわりと受け止める少女の胸元に、案内係はふと目を留めた。
茶色の革ひもで結ばれた淡い青い石が、少女の胸元で揺れている。
子猫のアゲートの目の色と全く同じ色の石だ。
それらを見比べた案内係は、ふとめまいのような不思議な感覚を覚えた。子猫の両目が一瞬、それ自体が意志を持つ何か別の生き物のように見えたのだ。
そう見えたのはほんの一瞬に過ぎなかった。子猫はすぐに気持ちよさそうに目を閉じて、少女の腕の中に小さく丸まった。
もう一度見返すと、少女の腕の中にいるのは毛並みはとびきり綺麗だけれども、それ以外には特に特徴もない他愛のない小さな動物でしかなかった。




