75 人魚の罪
いま、ルビーは黒髪黒い目の少女とともに強い風の吹く上空に浮かんでいた。石造りの建物に囲まれた大通りを走る馬車を、遥か下方に見下ろしながら。
それはまるで、翼を広げて飛ぶ鳥から見た景色だった。
馬車の灰色の幌は豆粒のようにちんまりと移動していく。さっきまでその中で揺られながら、カナリーの閉じ込められていた宿に向かっていたはずの馬車だった。
預かり物だといって黒曜石のナイフをモリオンに手渡され、座席の背もたれ越しに受け取った瞬間から、それは始まった。
ナイフは確かにあの夏の日、南の島のどこかにルビーが置き去りにしてきたものだった。だが、なぜいまモリオンがそれをここに持ってきているのだろう。
頭をかすめた疑問について思いを巡らせる間もなかった。突如として、大きな雲がわき起こるように、幻影の蔓が足元から渦巻きながら現れ、ルビーに巻き付いてきたのだ。
蔓はルビーをすくい上げると、馬車の外に、空に、さらに上空に伸びていった。気づいたらルビーは、雲の高さから街を見下ろしていたのだった。
何かの巨大植物の蔓が実体を持たぬ幻影だとわかったのは、それが馬車の幌を突き抜けて上空に伸びる瞬間だった。
それは幌を破ることなくすり抜けたのだ。ルビーの身体とともに。
遥か上空に連れ出されて眼下の景色を見渡したとき、自分の身体も半ば実体を持たぬものだと自覚する。空を吹く強い風が、ごうごうと全身を通り抜けていくのだ。
きょうは空はぶ厚い雲に覆われていて、直接の日の光は地上に届かない。けれども上空にいて風を受けながらよく注意していると、無数の微細な光の粒のようなものも身体を通り抜けていくのが感じられた。
微細な光の粒は、あの分厚い雲もすり抜けてきたに違いない。
「ルビー、聞こえる?」
目の前の少女が、ふわりと微笑み、そう口を動かした。
ルビーは黙って頷いた。風はごうごうとうなり続けている。けれども風の轟きにも遮られることなく、少女の声は明瞭にルビーの心に直接届く。
ルビーの身体は巻きついている幻影の蔓に支えられていたが、モリオンはどこにもつかまらず、ただ宙空に浮かんでいる。
闇そのものの色のような漆黒の髪を、強い風になびかせながら。
「あなたにお願いがあるの」
うかがうまなざしのルビーを、モリオンの黒い瞳がひたと見据えた。
「急に──戻らなければならなくなったのよ」
どこに?
「アララーク。たったいま、召還されたの。わたしを使い魔として使役している者に」
それはアルベルトと名乗っていた、あの背の高い浅黒い男の人のことだろうか。
ルビーが疑問を頭に浮かべるのとほぼ同時に、少女は頷いた。
「ええ。だから代わりに、わたしの影を置いていく。わたしの影は、あなたのその黒曜石のナイフに投影させるから、しばらく肌身離さず持ち歩いていてくれる?」
影?
きょとんとした顔のルビーに、モリオンはもう少し詳しく説明をする。
影といっても、動いてしゃべって触れることもできるから、普通の人には本体と変わらないように見えること。
事実上の自分の分身でもあるので、同種の力を保有していること。モリオン自身とも常につながっているので、きちんと意思を持って行動できること。
囚われの精霊を解放するためと、弟を捜しているジュリアに力を貸すという約束のために残していくので、2つの目的が果たされるまでは存在しつづけること。
ただし、影が自由に動くためには憑代が必要なこと。ルビーの黒曜石のナイフを憑代として使わせてもらいたいから、肌身離さず持っていてほしいということだった。
ルビーが持ち歩いてくれれば、ナイフを通じていまみたいにルビーに直接話しかけることもできる。
一通りの説明を終えたあと、モリオンは言い加えた。
「強い魔力を持つ者は、人間そのものを憑代として使うこともあるのよ。"移身交換の術"はそのうちの一つの形」
ひとつの器の中に、ふたつの意識が入っていると邪魔になる。だから術を使うものは、憑代となる人間の心を眠らせるか、憑依者の身体に飛ばすか、どこかに閉じ込めるかして、自分の思いのままにあやつろうとする。
憑依者の身体と入れ替えるように意識を飛ばすことが多いため、人間の術師の間では"移身交換の術"と呼ばれるようになり、その呼び方が広まったのだという。
ハマースタインのお屋敷で王家の末裔が使っていた怪しい術。カルナーナの首相カルロ・セルヴィーニが説明していたその術を、モリオンはそういう風に説明した。
黒曜石のナイフは意思を持たないから、相手の意思を奪って操る必要はないけど、協力者がいないと分身は残せない。
「だからお願い。わたしの代わりに動く分身を、あなたに預かっていてもらえないかしら?」
こっくりと頷くルビーに、ありがとうと返したあと、モリオンはその白い顔に苦笑のようなものを浮かべる。
「本当は、賢者さまが目覚めている間はどこにでも好きに出歩いていいことになっていたのだけれど──半年前にわたしがアララークへ行くときに、あらかじめそう取り決めたのたけれど。
わたしの使役者は身勝手なの。困ったことに。
ここのところ賢者さまが目覚めている時間が長くなってきたことで、わたしを束縛できる時間が減ったことが、彼は気に入らないみたい。こうして何かしらの理由をつけて、呼びつけようとする」
それはモリオンがあの男の人に名前を知られてしまっているから? 言霊の魔術によってモリオンは縛られているということだろうか。
「そうね。でも厳密には魔術ではないわ。言霊の持つ力によって為された契約に、縛られているの。わたしも、あの人も」
それは振り払うことはできないものなのだろうか。ルビーの目から見てとてつもなく強大に思えるモリオンの力で持ってしても。
「できなくはないわ。契約の相手がどうなっても構わないなら。言霊に縛られているのはあの人も同じ。わたしが力づくでそれを振り払い断ち切るときは、あの人が粉々になって消えてしまう瞬間かもしれない。かつて為した誓いが、それほどに強い縛りとなっているの」
誓い?
モリオンは、あの男の人に本当の名前を教えたというだけではないのだろうか。以前ルビーがロクサムに本当の名前を教えたみたいに。
ロクサムに名前を教えたいきさつとともに、ルビーは最初にモリオンから忠告を受けていたことを再び思い出した。
出会いがしらに彼女はルビーに言ったのだ。人間に名前を教えてはいけないと。ルビーはモリオンの忠告を無視して、ロクサムに名前を教えてしまったのだ。
ルビーがそのことについて考えていることは、モリオンにもわかったと思う。
けれどもモリオンはロクサムのことについて、咎め立てるつもりはないようだった。
ロクサムに名前を教えたときのルビーは、ただ、感謝の気持ちを伝えたかっただけだった。互いになんの約束を交わしたわけでもなかった。
とはいえ、ルビーは自分の心の中でだけ、いまは思っている。
いつかロクサムの故郷まで旅をして、ロクサムの本当の名前を捜しにいけたらと。できれば、そう、ロクサムも一緒に。
ロクサムがいつも自信なげなのは、よりどころになるような記憶が何もないからかもしれない。そんな風にルビーは思うのだ。
いつも取るに足らないものとして扱われ、こき使われ、ないがしろにされていても疑問に思わない。当然と思って受け入れてしまっているのだ。
ルビーはそれがもどかしい。
だけど、もしかして本当の名前を知ることで、ひょっとしたらそれを捜そうとするだけでも、彼の中で何かが変わるかもしれない。諦めだけでない、何かが生まれるかもしれない。
そんな風に希望を持つのは、楽観的過ぎるのだろうか?
少女が憂い顔で口を開いたため、ルビーの意識は物思いから引き戻された。
「人は変わる、ということを、かつてわたしは知らなかったの。あのときのわたしたちにとってはほんとうは、幼い日の、他愛もない誓いでしかなかった。けれど、いつか、この呪縛を断ち切らなければならない日が来るのかもしれない。たとえどんな犠牲を払うことになっても」
それは、ルビーの問い掛けに対する答えというよりも、独り言に近いような言葉だった。
「──かつて人魚の犯した罪を、戒めとして」
人魚の罪?
南の島で出会った、うごめく凶悪な黒い塊。あれが人魚のなれの果てだというモリオンの言葉をルビーは思い出した。
「ええ」
モリオンは頷いた。憂鬱そうに少し笑う。
「といっても昔のことだから、わたしにとっても伝え聞いた話だけれど。人魚は悪しき人間に、その相手が邪悪だと知りながらも加担したのだと聞いているわ。結果、精霊界の秘密とともに、魔力の一部が悪しき人の手に渡ることとなってしまった」
アントワーヌ・エルミラーレンのような?
「悪しき人の手に渡る、という言い方は違うのかもしれない。魔力に魂を食いつぶされた禍々しい存在をつくりだしてしまった、というべきかもしれないわね」
今度はモリオンはもう少しはっきりと笑って、言い加えた。
「わたしが何でも知っていると思わないでね、ルビー。ほとんどが精霊界で聞いた話なの。太陽の塔に住む賢者さまたちが教えてくださった話の受け売りよ。わたしはあなたよりも2年ばかり早く生まれただけの、ほんの若輩者なのですもの」
賢者さま。
緑樹の少女が南の島で、白髪の若者をそう呼んでいたことを、ルビーは再び思い出す。
「賢人グレイハートというのは、人の身でありながら精霊界を旅してその中心にある"太陽の塔"を訪ねてそこの一員として迎え入れられた者に対して与えられる称号よ。歴代の賢人グレイハートの記憶と知識と能力を受け継ぐといわれているわ。先代のグレイハートが人としての一生を終えたあと、精霊界の根源に向かい、眠りについたのはごく最近のことなのよ。いまの賢者さまはその名を受け継いだばかり。精霊界から人界に戻っていらしたばかりなの」
太陽の塔。
なぜか南の島での、あの怪異を封印していた古びた石の塔を想い浮かべたルビーに、モリオンは笑って首を横に振った。
「全然違うわ。"太陽の塔"は天高くそびえたつ恐ろしく巨大な塔よ。ときにより、また見る者により、巨大な樹木に見えたり清冽な山脈の姿に見えたりもするの。だから"世界樹"もしくは"太陽樹"と呼ばれたり、単に"霊峰"と呼ばれていたりもしているわ」
精霊界の話はもっと教えてあげたいけど──できれば実際に連れて行ってあげたいけど。わたしはもう行かなきゃ。
そうつぶやきをもらすモリオンに、ルビーは問い返した。
でも、人魚は精霊界を追放された一族なのでしょう? 精霊界という場所に人魚であるあたしが足を踏み入れてもいいのかしら?
「問題ないと思うわ。あなたは追放後に生まれた人魚だから、あなたの魂の内側には追放の刻印が刻まれていない。それに、人魚を追放した精霊王も、最近大いなる眠りについたの。あなたを裁くものはいまの精霊界にはいないわ」
でも……。
戸惑いながらも、何をどう質問すればいいかもわからず、ルビーは再び眼下に広がるにぎやかな街並みを見下ろした。
「わたしは行く。続きはあとで。馬車がもう目的地に着くから用心して」
早口で告げられたモリオンの言葉が届いたと思った瞬間、いつのまにかルビーは上空の風の中ではなく、さっきまでの馬車の中に戻っていた。
さっき渡された黒曜石のナイフは、ルビーの手の中にしっかりとおさまっている。
南の島では海藻で編んだ袋ごとどこかに落としてきていたはずだったが、袋はない。その代わり、見慣れない茶色い革製の鞘が鋭い刃の部分を覆っている。柄の部分に細く柔らかい革紐が結ばれていて、首からかけられるようになっていた。
ルビーは急いでそれを首にかけ、胸元から服の内側に押し込んだ。
前方の座席には、モリオン──マリア──はさっきと変わらずジュリアと隣り合って座っている。
けれどもよくよく目を凝らしてルビーが見ると、黒いワンピースに身を包んだ黒髪の少女は、ごくごく細かな光の粒から作られていることがわかった。
"影"と少女は表現していたが、ナイフを憑代として現れた幻影は、むしろ光そのものの姿をしていた。
見えたというよりも、意識の内側でそう感じられたという方が正確だったかもしれない。
偽物のモリオンだと知って見るのでなければ、きっとだれも気づかないだろう。
馬車が止まり、御者席との間を隔てるカーテンが引かれ、御者が顔を出した。
「着きましたぜ、お客さん」




