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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[五] 竜頭の精霊と色宿街
73/110

73 女からの伝言

 マリア、とだけ少女は名乗った。

 だれが少女にカナリーを救い出してくれるように頼んだのかを、マリアはカナリーに教えてくれない。

「すぐにわかるわ。あとで合流するから。それともやっぱりここに残るの?」

 カナリーはぶんぶんと大きく首を横に振って、急いで着替えに袖を通す。荷物は何もない。身一つで連れてこられたからだ。


「ねえ、だれなの? あたしを連れ出すように頼んだ人って」

 カナリーはおじさんの取り巻きだった人たちの何人かを挙げて聞いてみたが、そのどれに対しても少女は違う、と首を振った。

「あなたが期待するような相手じゃないわ。言えばきっとがっかりする」

「がっかりなんてしないわ。どんなしょぼくれた相手でも……」


 そう言いながらもカナリーは一人一人の姿を思い浮かべ、この人でなければいいのに、としか思わない相手ばかりなのにも思い当たる。

 彼らの見た目がぱっとしないという理由もあるにはあったが、それ以上にカナリーには、おじさんを抜きにして彼らとさしたる言葉を交わした記憶がない。

 カナリーに対して何か耳当たりのいい言葉を二言三言口にするのを聞くことはあったが、それだけだった。

 カナリーは彼らのことを、何も知らない。

 それでも、だれかがほんの少しでも自分のことを気にかけてくれていたのなら、それはそれで構わないような気もした。

 自分はまったくの天涯孤独なのだと、たったいま、気づいてしまったのだ。



 娼館からカナリーを連れていく。結界を張ったという部屋の中で、少女がそう宣言したとき、女たちはそんなのは駄目だと口々に騒いだ。

 逃げ出したものと同室の人間は責任を問われて、ペナルティを課せられるのだという。


 顔を青くして止めにかかった女たちの目の前で、少女はカナリーが署名した書類を、まるで手品のように空中から取り出して見せた。

 女将からこの館のオーナーに直接手渡され、管理室の鍵のかかる引き出しにしまわれているはずの契約書だ。書類は全部で3枚ある。

 その書類の右下の部分の署名欄を、少女は白い細い指でなぞる。すると、カナリーの筆跡が、最後に書いた文字から逆順で消えていく。

 それを見てカナリーは驚きの声を上げた。両脇から覗き込んできていた女たちも驚きを隠せない様子で、ぽかんとしている。


 こんなことのできる人間がいるのか。噂に聞く"術師"というものを生まれてはじめて目の当たりにしたが、想像を超えた存在だ。

 

 そんなことをカナリーが考えていたら、少女がこちらを見て笑った。

「あなたをここに売った女将は"術師"よ。忘れたの? 精霊の身体の一部を切り取るときに、呪文を唱えていたわ。それと、見世物小屋にも術師は潜んでいるわね。あなたは気づいてなかったみたいだけど」


 "術師"というのはそんなにあちこちいるものなんだろうか?


「そうね、そんなにあちこちはいないと思うわ。多分、見世物小屋は特別なのよ」


 心をいちいち読まれるのはやりにくい。カナリーは慌てて少女から目を逸らしたが、どうしても視線がそちらに吸い寄せられてしまう。

 とにかく綺麗な女の子なのだ。自分の容姿には相当自信のあるカナリーだったが、もしかしたらこの女の子にはほんのちょっと負けているかもしれない。


 小さな顔はなめらかな輪郭をしていて、剥きたての卵みたいにつるんとしている。そばかす一つ、ちいさな傷一つない、透き通るような白い肌。長い黒いまつげに縁取られた大きな目。整った鼻梁。すっきりとた凛々しげな口元から、顎にかけての繊細なライン。紅を引いているわけでもないのに、鮮やかな赤い唇。

 ほっそりとした首と肩。長くて綺麗な手足。形良く膨らんだ胸元と、華奢なウェスト。飾りもなにもないシンプルなデザインの黒いワンピースだけを来て、アクセサリーも一切つけていないのに、かえってそれが、この世のものとは思えない美しさを引き立たせている。


「さあ、これはもとあった引き出しに戻しておくわね」

 カナリーの署名を3つとも消し終えた少女が軽く指を揺らすと、その手の中から書類は煙のように消え失せた。


「あなたたちも……」

と、少女は女たちに問う。

「もしここを出ていきたいなら手伝うけど、どうするの?」

 女たちは顔を見合わせた。

「ここであなたたちに行き合わせたのは偶然に過ぎないけれど、それでも出会って言葉を交わしたことをなしにはできない。だから、あなたたちがこの娼館から手を切りたいなら力を貸すわ」

 とはいえ──。と、少女は少し首を傾げて言い加える。

「わたしにしても持ち札がたくさんあるわけではないから、紹介できる仕事も限られてる。だから、ここを出たあなたたちに納得のいく行き場を提供できるかどうかはわからない」



 結局女たちは、一緒についていくとは言わなかった。

 年かさの女はまとまった金を貯めていて、もうじき契約期間が終わるから、そうしたら大手を振ってここを出ていけるのだという。

 年若い方の女は、少しの間迷っていた。ここにきてまだ一年ほどだが、やはり"仕事"そのものは好きになれないし楽しいとも思えない。辛いことの方が多いのだという。ただ、最近では何人かの友人もできて、彼女たちとは何年かのちに一緒に起業できたら、なんて話し合っているのだと話した。最終的にはこの館とはそこそこの良好な関係を保ちながら人脈を広げていきたいから、いまは出ていけないのだと、そう結論づけた。


「ほんとは大風でも起こして、この館ごと、館のある通りごと吹き飛ばしてもわたしとしては別にかまわないのだけれど──」

 少女はさらりと、とんでもない言葉を口にする。

「──それだとあなたたちにもかえって迷惑かけそうだし、あまり荒っぽいことをするとカルナーナの王にも怒られそうだから、やめておく。その代わり、オーナーには無法な真似はするなと釘を刺しておくわね」

 入口の扉が廊下に向けて大きく開いた。少女は結界を解いたらしかった。


「カルナーナの王? それってだれのことよ?」

 年かさの女が聞き咎める。

「カルナーナは共和制なのに。王はいないのよ」

「王といったらカルロ・セルヴィーニしかいないでしょう? カルナーナを統治している人間を王と呼んではいけないの?」

「カルナーナを統治しているのは確かにカルロ・セルヴィーニ首相だけど、首相は政治家よ。王とは言わないわ」

 年かさの女はそう訂正を入れた。


「それと言っとくけど、この館のボスはこの時間はもう眠ってると思うわよ」

 ドアから出て行こうとしている少女に向け、そう忠告する女に、少女は振り向いて笑う。

「起こして話をするから問題ないわ」


***


 ほんとうにマリアは、娼館の持ち主を叩き起したらしかった。そのあとすぐに部屋に戻ってきて、話をつけてきたから支度をするようにと、カナリーに言った。

 どこに行くのと聞いたカナリーに、マリアは首を傾げてこう答えた。


「外で待っている人たちに一度顔見せだけして、あなたが無事なことをわかってもらったら そのあとちょっとだけわたしの人捜しにつきあってほしいの」

 カナリーは身震いした。

「あの化け物のところに行くのは嫌」

「あれは化け物ではないわ」

「だって人を飲み込んだのよ! それも丸ごと!」

「あなたが飲み込まれたと思っている人たちが、ほんとうのところどうなっているのかも、確かめる必要があるの」


 カナリーは激しく首を横に振った。

「女将が怖いの。焼きゴテをあたしに当てようとしたわ」

「大丈夫。わたしのほうがその人より力は強い。あなたに危害は加えさせないわ。保障する。詳しい話は道すがら。急いで。隣の鍛冶屋街が起き出す時間になるわ。街全体が動き出すと、大通りの馬車渋滞に巻き込まれて時間をとられてしまう」


「ねえ、あなた、もしかしたら、カルロ首相の知り合いなの?」

 ほどなく訪れる朝を遮断するためのカーテンを引きながら、年かさの女が聞いてきた。東の空がわずかに明るくなり始めていた。

 若い方の女は、自分の話が終わったところで、さっさと寝台にもぐりこんで背中を向けてしまっている。

「政府に無関係だとしたら、個人的な知り合いなのね?」


 少女は黙って頷いた。女は重ねて尋ねる。

「もしかしたら、恋人、とか?」

「まさか」

 呆れたといった顔になって、少女は肩をすくめた。

「だいたいあの人幾つだと思っているの?」

「さあ、40過ぎぐらいじゃないかと思うんだけどね。それより、ねえ、違うの?」

「違うわよ。どうして?」


「なんだか雰囲気が似てる気がして。なんていうのかその……言動がエネルギッシュでやたらスピーディなとことか……。あと、言い回しっていうか、言葉の切れっ端のようなものも……。

 あたしは何年か前の、新年前の街頭演説で2回ほど見かけただけなんだけどね。首相は色宿街での奴隷売買を廃止することについての今後の方針について語られていたけど、それを聞いてあたしは思ったんだ。あの方はこの色宿街の存在そのものを問題視してるんじゃないかってね。それこそ一掃してもいいみたいにお考えなんじゃないかって」


「どうしてそう思ったの?」

「んー、だから言葉の切れ端っていうかさ」

 女は考え込む顔になる。

「あんたがさっき言ってたのと同じようなことを──状況によっては通りごと吹き飛ばしてもいいみたいなことを言ってた気がするんだけど、忘れちまったわ。言っとくけどあたしはただの娼婦で、記者とかじゃないからね。それよりねえ、あの方と個人的な知り合いなんでしょ? ほんとに恋人じゃないの?

 どのゴシップ紙を見ても、浮いた噂一つ聞かないカルナーナの首相の私生活は謎過ぎて、国民のみんなが興味しんしんなのよ。といって妻子がいるって話も聞かないし、休日なんかは一体どう過ごしてらっしゃるんだろうってね。あんたみたいな圧倒的に強力な術師が恋人だったら、そりゃ、噂にならずにデートとか自由自在だろうと思って……。ねえ、違うの?」


「だから違うってば」

 マリアは首を振って、小さくぼやいた。

「わたしには、あなたたちカルナーナの国民の方が謎過ぎる。どうしてだれもかれも、適当にそのへんのだれかとだれかをカップル扱いしようとするのかしら? ほんと信じられない」

「なあに? ほかにもだれかと噂になるとかしたの?」

 女の言葉に、少女は困惑したように眉をひそめた。


「気を悪くしたのだったらごめんね。でも、違うんなら話しやすいかな。あんた、だったら首相にひと言伝えといてよ。たまには色町街に遊びにでもいらっしゃいよって。抜き打ちの監査もいいけど、客の顔して来てくれないかなって。歓迎するから。そしたら、この街の違う面もまた見えてくるんじゃないかと思うのよ。あたしたち、首相にはいろいろと話したいことがあるの。奴隷の売買を禁じる法律が定められてからのこの数年、この街で何がどう変わっていったかとか、これから先どんな風に変わっていくことを望んでいるかとか……」


「そうね、もし今度彼に会ったら伝えておく。でもね──」

 黙って話を聞いていた少女は、考え込むように首を傾げる。

「彼があなたの想像通りの考え方をしているのだとしたら、彼はここには遊びに来ないのではないかしら」


 なぜ、と問い掛けるまなざしで少女を見ながら、女は黙って聞いている。


「あなたの言いたいことはわかるの。不本意な運命から始まった生き方でも、その生き方なりに精いっぱいやっている人たちがいるから、見てほしい。それは正しいと思う。彼が娼館のシステムそのものを否定するつもりだとしても、その中でやってきた人たちまで否定しないでほしいということなのでしょう?

 それでも彼にとって、ここに来るということは、制度そのものを一部でも認めてしまうということになってしまうと思うの。彼が王ではなく政治家というものだとしたら、彼がやりたいと考えていることが実現し難い理想であればあるだけ、なおのこと、ここには来られないと考えてしまうと思う」


「そっか、まあそうかもしれないわね……」

 まあしかたないや、と女は首を振った。

「やっぱりあたしは、首相は最終的に色宿街そのものがなくなればいいっていうお考えじゃないかって気がするんだよね。なんだっけ、そうそう、少し思い出したよ。

 強いものが弱いものを食い物にする世の中の仕組みそのものに切り込みを入れていく……みたいなことを言ってたんだ。その中でも、行きがかり上であるにせよ、色宿街の改革はなるべく早いうちに行うことにするって。行き合わせた偶然を必然にする、みたいな言い方もししてた。

 でもさ、もしそうなったら、ほかに行く場所がなくて路頭に迷う子が出てくるんじゃないかと心配なのよね」


「あの人が何を考えているのかの保障はしかねるけど」

 そう前置きをしたあと、マリアは頷いた。

「もしあなたの言うとおりだとしたら、その心配はもっともね。わかった。あなたのその言葉を伝えておく」

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