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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[五] 竜頭の精霊と色宿街
72/110

72 ふたつの問い掛け

 カナリーの両手はなおもしばらく燐光を放っていたが、不意に薄れ始めた。溢れ出したときと同じようにすうっと消える。いつのまにか中空の光は、まばゆい白から暖かみのあるオレンジに変化していた。


「あんた、急いでだれか呼んできて!」

 年かさの女にそう指示されて、部屋から飛び出そうとした若い女の目の前で、廊下に続く扉が音を立てて勝手に閉まった。

 女は驚いたが、慌ててノブをひっつかみ、回そうとしてガチャガチャと音を立てた。

「開かないよ! どうしよう」

 焦った声で女は振り返る。


「静かにしていて。あなたたちに危害は加えないわ」

 よく通る少女の声は、慌てた女たちの声と対照的に、ひどく静かだった。

「わたしはこちらの子に、少し質問があるだけなの」


「あんた、一体どこから入ってきたのさ?」

 年かさの女は眉をひそめ、そうとがめ立てた。

 ここは3階だ。客の出入りできる1階と2階の一部のエリアとプライベートエリアの間には、警備兵を置いている。

 それとも明け方だから、警備兵は居眠りでもしていたんだろうか?

 でも、年端もいかないこんな少女が客としてここを訪ねてきたのだとしたら、それだけで目立って仕方がないはずだ。だれにも見とがめられずに屋敷中を歩き回ることなどできっこない。


「どこからでも」

 まばゆいほどの白いおもてで、少女はふわりと微笑んだ。


「あんた、ひょっとして政府おかかえの術師とやらなの? もしかして、噂に聞く抜き打ちの監査とやらじゃないでしょうね?」

 女の質問には、少女は静かにかぶりを振る。

「残念ながら違うわ。けど、カルナーナの政府はそういうこともやっているのね。アララークはこの国には学ぶことがたくさんありそうだわ」

「アララークって? あんた、アララークからやってきたの?」

 今度は少女は何も答えず、黙って微笑んだままだ。


「でも」

 と、女は難しい顔で言い加える。

「あたしらからしたら、闖入者を見過ごしにして報告しないでいたらあとで叱られるから、静かにしていろと言われても困るよ」


 長い黒髪を揺らせて、少女はかすかに首を傾げる。

「どのみちあなたたちはいまは報告には行けない。部屋の入り口の扉は開かなくしたし、結界を張って、ここでの気配が外に漏れないようにしているの。だからたとえ騒いでも外に影響はないのよ。それでも、少し静かにして待っていてもらえると、邪魔にならないからわたしとしては嬉しいのだけれど……」


「姐さん、こっちも開かないよ!」

 さっきまで扉をガチャガチャやっていた若い方の女は、今度は窓を開けてみようとしたらしい。窓際のところで振り返ったまま、困った顔でこちらを見ている。


「あんたが術師なのは間違いなさそうね」

 年かさの女は、そう溜息をついた。

「政府に関係ないとすれば、さしずめどっかのお貴族さまのお抱え術師かしら。こんなところになんの用? 精霊の傷ってどういう意味よ。部屋が明るくなったり、その子の手が突然光り出したり、それって一体どういう魔法なの? まさかその子が貴族の関係者ってわけじゃないよね?」


 少女は女の質問にまともに答える気はなさそうだった。口元に微笑みを浮かべたまま、もう一度カナリーの方に向き直る。

「聞きたいことがあるの」



 少女の黒い目が、瞬きもせずカナリーを覗き込んできた。

 その瞬間、何かわけのわからない恐怖が突然沸き上がってきて、カナリーの心臓をぎゅっとつかんだ。

 覗き込んできたのは星空のような深い、黒い瞳。何かを見透かすようなその視線を、カナリーは心底恐ろしいと感じたのだ。

 そして、カナリーに問いかけるその声にも、深く心の奥底に響くような抗いがたい力が含まれていた。

 恐ろしい。思い出したくないのに、声にいざなわれるまま思い出してしまう。


 少女はカナリーの目の中を覗き込んで、いきなりこう尋ねてきたのだ。

「そう。その人物はその建物のどこかにある地下室にいたのね」

 問われたカナリーは視線を逸らそうとしたが逸らせない。それどころか、まるで操られているかのようにぎくしゃくと頷くしかなかった。


 でもあれは人なんかじゃない!

 カナリーはそう思ったが、声にはならない。

 少女が問うているのは竜頭と呼ばれる奇怪な化け物のことだ。尻尾の先を切り取られて、そこから透き通る体液──青い血──を流していた。


「閉じ込められていたその部屋から、外の物音は聞こえてきていた? だって連れていかれたのは大通りの真ん中にある宿だったのでしょう? 人の出入りも激しかったはずだし、上の方に明かり取りの窓があったなら、足音ぐらいは聞こえてきてもよかったはずよ。何も聞こえなかったのはどうして?」


 竜頭と呼ばれる化け物とともに閉じ込められていた部屋の様子を、カナリーは鮮明に思い出す。薄暗い、静かな部屋だった。明かり取りから降りてくる光はわずかな量だった。往来の音はまったくしなかった。


「どのぐらいの間、そこに閉じ込められていたの?」


 それがよくわからないのだ。ずいぶん長い時間だったように思えるし、案外短かったような気もする。明かり取りから降ってくる光が明るくなったり暗くなったりすることは、思い出せる限りではなかった。

 閉じ込められている間、カナリーのための食事が運ばれてきたことはない。カナリー自身もそのことに想い及ぶことがなかった。けれども部屋から出されたときには、実際の日づけは変わっていた。カナリーの知らない間に、かなりの時間が過ぎ去ってしまっていた。

 空腹を意識しなかったのは、あるいは恐怖でいっぱいいっぱいだったためかもしれなかったが。


「そう。そこでは時間の流れがよくわからなかったのね」


 あの場所のことを思い出すのは嫌だ。

 思い出したくない。

 なのに、少女の黒い瞳から、目を離すことができない。


 でもなぜ?

 なぜこの女の子は、カナリーが口に出して何も答えていないのに、頭に浮かんでくることが全部わかるのだろう?

 

 少女は一歩カナリーに近づくと、ふわりと微笑んだ。

「詳しく教えて。そこで何があったの?」

「……嫌っ!」

 やっと声が出た。カナリーはかぶりを振って、よわよわしい声で答える。

「嫌よ。嫌、思い出したくない」


 さっきから思い出したくないのに、少女の目がカナリーを覗き込むと、そこであった出来事が鮮明に頭に浮かぶのだ。

 ぺったんぺったんと足音を立てて歩く異形のもの。投げ込まれた生贄。叫び声をあげる間もなく、頭から飲み込まれた男。

 悶絶し、飲み込んだ人間を吐きだそうとして暴れ回る異形。暴れたあげく意識を失った異形のものから、尻尾を切り取った女将の笑顔。

 眠り続ける化け物から流れ出る青い血液。

 汚れた床に滑って転んで、化け物の尻尾の切り口に、手が触れてしまった。


 おぞましい。

 けがらわしい。

 洗いたいのに洗えない。

 でも、そこには洗い場がなかった。


 気が狂ったように泣いていたら、女将がやってきて、やっと部屋から出してもらえた。

 そう思ったら、その場で女将に突きつけられたのだ。娼館か化け物の餌か、どちらかを選ばせてやろうと。

 餌の印の焼きゴテが自分に迫ってきたとき、カナリーは泣きながら、娼館との契約書に署名すると言ったのだ。


 そのあと遅れてやってきたもう一人の女の子には、女将は何も事情を説明せずに、いきなり焼き印を当てた。

 あの女の子の絶叫はいまも耳にこびりついている。そのときの肉の焦げる嫌な臭いが頭から離れない。身体の奥底に沁みついてしまっているような気がする。あのあと女の子はあの鉄の扉の向こうの、例の部屋に放り込まれた。どうなったのかは知らない。知らないけれど、きっと──。


 カナリーが契約の書類にサインをすると言わなければ、あの女の子は死ななくて済んだのだ。その子は、最初から娼館に紹介してもらうつもりでやってきていたのだから。


 でも、カナリーにしたってそんなつもりではなかったのだ。

 脅しをかけてくる女将の声が、カナリーの耳の内側にこだまする。どちらかを選ばせてやろうという、あの冷酷な声を、耳の内にカナリーは再び聞いた。

 とめどなく涙があふれてこぼれた。


「あたしのせいじゃない!」

 金切り声で、カナリーは叫んだ。

「あたしだって、死ぬのは嫌だったんだもの!」

 あとからやってきた女の子が、カナリーの代わりに生贄になった。カナリーが焼き印を拒んだから。彼女の代わりに娼館に行くと約束したから、だから彼女はこの娼館にとって用無しになった。

 でも、あたしが殺したわけじゃない。殺したのはあの化け物だ。いや、化け物の餌にすると決めた女将だ。


 あたしじゃないあたしじゃないあたしじゃない絶対違う!!!


 恐怖に目を見開いたまま、カナリーは目の前の少女に向かって叫ぶ。

「違う! 絶対違う! そんなつもりじゃなかったんだもの!」


「うっさいわねっ!」

 突然怒鳴り声を上げたのは、これまでカナリーを無視し続けてきた若い女だった。

「あんたは選べたんだろ? 上等じゃないか」

 彼女はつかつかとカナリーのそばまで歩み寄ると、ぐいとその襟首をひっつかんだ。

「あたしは選べなかった。もしあたしが死んで親父の借金がなくなるんだったら、喜んで死んでたよ。その方がよかった。でもあたしが死んだって、借金は減らない。だからここに来るしかなかったんだ。あんたは好きな人がいるっていったけど、あたしにだって恋人がいたんだ。ここに来る決意をしたことを話したら、恋人には軽蔑された。冷やかな目であたしを見て、おまえのことは最初からいなかったものと思うから、って冷たい声で言われたんだ。あいつにあんな目で見られるぐらいなら、死んじまいたかった。あたしは死んじまいたかったんだ」


 いきなり怒鳴りつけられ掴みかかられ早口でまくしたてられたカナリーは、何を言われているのかよくわからず、ただ茫然と聞いていた。さっき溢れ出した涙は、カナリーの淡い緑の瞳から、いまも流れ続けている。


 そんなつもりじゃない。あたしは人殺しじゃない。

 そう叫びたかった。気づいたらそう叫んでいた。

 けれども目の前の女は、カナリーの叫びを、別の意味に受け取ったらしかった。


「よしなさい」

 年かさの女が後ろから抱えるようにして、カナリーから若い女を引きはがそうとした。

「あんた、そんな男とは別れてかえってよかったって思いなさいよ」

 若い女は不思議そうな顔で振り返る。

「どうして?」

「だってそいつ、冷たいやつじゃないの」

「あたしは好きだったのよ!」

 切羽詰まった口調で、女は言い返した。

「好きだったの。すごくすごく好きだったの」


 年かさの女が若い方の女に、そんなやつ、あたしだったらこちらから軽蔑してやる、恋人なのにあんたの危機を助けてもくれずにそんな薄情なことをいうようなやつ、と毒づいている。


 ベッドの縁にへたへたと座り込みながら、カナリーはぼんやりと考えた。

 もしもアートなら、いまの自分の状況をどう思うんだろう。化け物に喰い殺されるのが嫌で、娼館で働くという契約の書類にサインをしてしまった。

 代わりに喰い殺される女の子がいるとわかっていてカナリーがそうしたと知ったら、やっぱりカナリーも軽蔑されるのだろうか。


 自分のとった行動が原因で、だれかに軽蔑されるかもしれないなどと、カナリーはこれまで一度も考えてみたことなどなかった。

 火焔吹きなら、おじさんなら、やっぱりカナリーのことを見損なったと思うんだろうか? 一度はそう考えて、頭の中で否定する。

 もしもおじさんが生きていたら、何をさておいても、ここに飛び込んできてでも、ほかのだれを蹴散らしてでも助けてくれる。

 

 大事にしてくれていた。

 おじさんにとっては従兄妹だというママの幼かったころの話を聞かせてくれて、ママの娘だったらおれにとっても娘同然だ、と言ってくれていた。

 そのおじさんは、もういないのだ。


 そのときになってやっと、火焔吹きはもうほんとうにどこにもいないのだという事実が、カナリーの心の底にまで深く降りてきたのだった。

 それとともに、深くえぐるような喪失感をはっきりと感じた。ぽっかりと心に穴があく。

 いないのだ、本当に。

 カナリーのことを大事に思って大切にしてくれていたその人はもう、どこにも。


 謎の少女は、再びじっとこちらを見ていた。

「もう一つ質問があるのだけれど、いいかしら?」

 半ば無意識に、カナリーは弱々しく首を横に振る。


 怖い。

 この女の子の目を覗き込むのは、そして覗き込まれるのはひどく怖い。

 自分の心と向き合うのは怖い。これ以上直視させられるのは、耐えがたいほど恐ろしい。


 カナリーの怖じ気を知ってか知らずか、少女はやはり正面から目を覗き込んで聞いてきた。

「あなた、ここを出て、もといた場所に戻りたい?」


 カナリーはもう一度首を横に振った。

「あたし、あそこにはもう帰りたくない」


 アートは助けにきてはくれなかった。

 あんな怖い副座長のいる見世物小屋にカナリーを置き去りにしたまま、巡業に出てしまった。

 でもそのことで、アートを薄情だといってなじることはできない。だって彼はカナリーの恋人ではないのだから。


 もしもこんな風に連れ去られたのが自分ではなくて、ロビンだったら。

 ふと、そんな考えが頭をよぎる。

 もしもあのやせっぽっちの生意気な赤毛の娘が自分の代わりにこんな目にあっていたのだとしたら、アートは何をさておいても、船から飛び降りて泳いで戻ってでも助けにきたのではないだろうか。

 ロビンならきっと、自分の命かほかのだれかの命かを選ぶ、などいうひどい選択をさせられる前に、助け出されていた。


 これまで一度も考えてみようともしなかった考えが、胸の内を占めていく。ずっと心にふたをして、考えないようにしていたのに。


 だってアートはいつも、ロビンを目で追っていたのだ。

 アートにとって、自分が特別な存在になれたらいいと思っていた。でも、彼が特別なものを見る目で見ていたのは、いつだってロビンだった。

 自分は特別でないから置き去りにされたのだと思うと、カナリーの胸はひどく痛んだ。

 あんな子、だれにでもいい顔をする、節操なしのいいかげんな女の子なのに。アートはだまされているだけなのに。


 第一あの赤毛の少女は、人間ですらないのかもしれないのに。

 人々はあの可憐な姿にだまされているけれど、本当はロビンはあの地下室にいたものと同じで、人を食らうおぞましい化け物かもしれないのに……。


 そう思っても、きりきりと胸を突く痛みは消えない。


 ところが、そんなカナリーの思いを知ってかしらずか、目の前の謎の少女は、こんな言葉を口にした。

「あなたを助け出そうとして、すぐそばまで人が来ているわ」

「え?」


 ひょっとしてアートが?

 カナリーの胸に、かすかな希望の灯がともる。


 しかし、少女は静かに首を振った。

「いいえ。彼ではないわ。彼はいま、船の上よ。あなたのおじさんが亡くなってしまったことも、あなたがここに売られてきてしまったことも、まだ何も知らないの。それとね──」

 なぜか少女は、少しためらう風を見せたあと、次の言葉を口にした。

「あなたは何か思い違いをしていると、わたしは思う。アートが──彼が世界の何を引きかえにしてでも守りたいと思っていた人は、もうこの世のどこにもいないのよ」


 驚いて顔を上げたカナリーに、もう一つ言っておきたいことが、と少女は続ける。

「誤解があるようだから、もう一つだけ訂正させてね。人魚にしろ他のどんな姿の精霊にしろ、好んで人肉を食べるものはいないわ。なぜなら彼らにとって人の血肉──いえ、人の魂の持つ穢れは──猛毒なのだから……。彼らが人を食らうのではないわ。人が、彼らを食らうの」


 そんなはずはない。

 だって竜頭と呼ばれていたあの化け物は、カナリーの指を一本、いや、手を食べさせてくれと言って迫ってきた。そして、カナリーの目の前で、生贄の焼き印を押された人間を飲み込んでしまったのだ。

 

 そこまで考えて、すぐそのあとで化け物が苦しみ出したことをカナリーは思い出す。


「ええ。契約によって縛られて、毒を食らわされているの。そしてそれが食べ物だと信じ込まされているわ」


 茫然と見返すカナリーに、謎の少女は頷いた。

「案内して。その精霊のところに。毒が回ってその者が内側から完全に破壊されてしまう前に、救い出したいの」

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